フォーク・ソングを殺したのは誰? その8 | AFTER THE GOLD RUSH

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マイク真木の快進撃は続く。シングル「バラが咲いた」発売同日(1966年4月15日)に店頭に並んだファースト・アルバム「マイク真木 フォーク・アルバム」も、発売から僅か1か月余りで売り上げ1万枚を突破し、(LPが高値の花だった)当時としては異例のヒットとなった。このアルバムは、昨今のディガーによる和モノ再発見ムーブメントに鑑みれば、日本初の全曲日本語詞によるオリジナル・フォーク・ソング集として仰々しく発掘され、新たな評価を付与する動きがあっても何ら不思議ではないが、今のところそのような気配は全く見られない。これを、日本のフォーク・ソング研究の掘り下げの不十分さゆえとみるか、見識ゆえの黙殺とみるかは、見解の分かれるところだろう。確かに現代の耳で聴くと、詞・曲ともにパンチに欠け、面白みに乏しく、手本にしたであろうキングストン・トリオやピート・シーガーとは遠くかけ離れているように思える。一方で、演歌やムード歌謡といった当時主流であった日本的でウェットな音階やアレンジとは一線を画した、モダンで乾いた作風は、不十分ながらも一定程度評価しても良いのではないか。特に、当時真木がフーテナニーのオープニング・ナンバーとして愛唱していた「君の町」(マイク真木作詞・日高義作曲)や、バンジョーをかき鳴らしながら歌うシングアウト・ナンバー「歌おうよ、叫ぼうよ」(日高義作詞・作曲)などは、正しく日本のフォーク・ソングの嚆矢として評価されるべき作品と考える。 

問題は、このアルバムの要所要所に仕掛けられた“思想的な罠”にある。例えば「マキノ・アイランド」(マイク真木作詞・作曲)という曲では、ミシガン州マキノ島のことを「希望の島よ/自由の島よ」と手放しで礼賛するが、この島には、MRA(道徳再武装運動)の大規模な訓練センターがあり、世界大会が開催され、何より真木自身がライナーノーツにおいて、マキノ島すなわちMRAであることを吐露しているのである。また、「同じ国に住んで」(マイク真木作詞・日高義作曲)は、1965年11月にピークを迎えた日韓基本条約反対闘争を題材に、全学連と機動隊の国会前での衝突や、衆議院本会議での自民党による同条約の強行採決とそれに反対する野党(主に社会党)の様子をスケッチした歌だが、ここで真木は、全学連vs機動隊、自民党vs社会党という対立構造に「同じ日本の国に住んで/何故もっと話しあえぬ/平和を愛する国ならば/なぜもっと助けあわぬのだろう」と疑問を呈し、対立ではなく融和を求めるのだ。一見尤もらしく聞こえるが、このスタンスこそ、世界中の労働運動の闘士や左翼活動家を骨抜きにした「誰が正しいかではなく、何が正しいか」というMRA独特の思考法にほかならない。すなわち「他人を責める前に先ず自分を正せ」「自分が変われば他人も変わる」という、人生訓としてはしごく真っ当な教えを、「国家対個人」もしくは「資本対労働」という圧倒的にパワーバランスに差異のある政治的関係性に意図的に適用させることで、社会的矛盾を「自分自身の心のありよう」というパーソナルな問題に転化し、国家や資本による悪事や搾取の隠蔽及び根源的課題の限りなき矮小化を図るのだ。 


この点に当時唯一気付き、指摘したのが日本共産党であった。1966年6月19日発行の赤旗日曜版に掲載された「フォークソングのほんものとニセもの~“バラが咲いた”はだれをよろこばす?」という3段組の囲み記事は、真木の歌はフォーク・ソングを名乗ってはいるがその内容は本家アメリカのピート・シーガーやジョーン・バエズとは似ても似つかないものであること、例えば、ウディ・ガスリーが「サッコ・バンゼッティ事件」を歌って権力の陰謀を暴露し、ボブ・ディランが「戦争の親玉」で独占資本の醜い姿を痛烈に風刺したような“闘いの精神”を真木の歌から見出すことはできないこと、さらに、これらの弱点を、真木自身も活動家となっている反共団体MRAが利用し、フォークソングが持つ闘いの姿勢を骨抜きにしていること、などを指摘し、厳しく批判している(注1)


これに対し、真木側も猛然と反論した。真木の盟友であり、アルバムの収録曲の大半を真木とともに書いた日高義は「『同じ国に住んで』は、マイクが実際に日韓条約反対デモの渦に巻き込まれ、全学連と警官隊の大乱闘を見、テレビで自民、社会両党代議士のつかみ合いを見て“なぜもっと話しあえないのか!”と訴えた詩。それを赤旗は、日韓条約の政治的本質を理解していないニセものの歌と決めつけた。反対、反対と絶叫すればホンものにされたのだろうが、マイクは共産主義者ではなく、あくまでも平和主義者であり、ヒューマニスト。もしフォーク・ソングが、政治的なプロテストを意味するなら、マイクの歌はアマチュア・ソングというべきものであり、赤旗のニセもの呼ばわりは、マイク自身と無関係な批判だ」と応酬し、真木自身も「牛肉を売りつけたのに、この鳥肉はまずいといわれたような感じで、ぜんぜん話の次元が違う。『アカハタ』によれば、フォーク・ソングというのは戦いの歌であるから、『バラが咲いた』なんて歌ったって、どうにもしようがないし、日韓反対については政治的背景をぜんぜん理解していないとか・・・。ぼくはたしかに、政治的背景とか、安保とか、日韓の問題なんていうのは詳しく知らない。ただデモを見て、小さな子供でもあれを見たら、これはちょっと狂っているんじゃないか、どこかおかしいんじゃないかと感じる。それだけを歌にした。だからぜんぜん話の対象が違う」と抗弁する(注2)
 
つくづく残念なのは、この論争はごく一部の週刊誌が面白おかしく取り上げたのみで、議論を深めることも世間的な関心を呼ぶこともないまま立ち消えになってしまったことである。また、赤旗の記事も、真木の歌詞とMRAの教義の近似性及びMRAの真の狙い――すなわち、音楽を利用した人間改造(MRA用語で言うところの「チェンジ」)――にまで問題を掘り下げることができなかった。かような追求の中途半端さが、この後のロビー和田率いる日本版Up with People「レッツゴー'66」の快進撃を許し、ひいては、日本のフォーク・ソングのガラパゴス化へとつながっていくのだ(注3)

さて、共産党に水をかけられたものの、真木の人気に陰りは見られず、1966年7月には第2弾シングル「波と木彫りのクマ」を発売する。この曲は、同年2月に起きた全日空羽田沖墜落事故(札幌雪まつりの観光客多数を乗せた全日空機が羽田空港沖に墜落し乗客乗員133人全員が死亡した未曾有の航空事故) を題材に真木が詩と曲を書き下ろしたトピカル・ソングであった。海中に沈んだ北海道土産の木彫りのクマに語りかけるスタイルを採用した意欲作ではあったが、如何せんソングライターとしての力量不足ゆえ、詞も曲も稚拙で、何を言いたいのかが皆目伝わらず、未熟さばかりが際立つ残念な結果となってしまった。一方、B面に収録された日高義作の「ベトナムの空」は、意外な運命を辿る。本来、この歌は、勇ましいドラムマーチの演奏から明らかなとおり、真木がカバーすることを拒んだバリー・サドラー軍曹の「悲しき戦場(グリーン・ベレーのバラード)」をヒントに、(1月にMRA大会が開催された)セイロン島の鮮烈な夕陽とベトナムの戦場のイメージとを重ね合わせて書いたコマーシャルな“反戦歌”であったと推測される。さらに言えば、ラストにリフレインする「みんな同じ空」というフレーズからは、MRAの「融合」の思想すら透けて見えてくるのである。しかし、発売後程なくして、大阪・千里が丘の飯場で、フォーク・ソング本の譜面でこの歌を知った24歳の青年が独自の解釈で歌い始めてから、歌は作者の意図を超えて独り歩きしていく。彼は、「ハノイやサイゴン東京も/みんな同じ空」というフレーズを、「ハノイやサイゴン大阪も」に変えるとともに、「みんな同じ空」のリフレインは止め、最後に「空はどこまでも血のように赤い」の一節を付け加えた。この改変と説得力ある歌唱により、「ベトナムの空」は、真に人々の心に訴えかけるフォーク・ソングとして生まれ変わった。屋台のソバ屋を引いて生計を立てていた彼は、その夏、通り道にあった大阪YMCAの六甲キャンプに飛び入りし、集まっていた若者達を前に「ベトナムの空」を歌い、深い感動を呼び、10月には秦政明率いるアートプロモーション主催の「第2回フォーク・フォーク・フォーク」にも飛び入り参加し、ギター1本でこの歌を熱唱、会場全体を感動の渦に包み、圧倒的な評価を得る。彼、高石友也は、真木の持ち歌であった「ベトナムの空」と共に関西フォークへの第一歩を踏み出すのだ(注4)


日高義と関西フォークの関係については、もう一つ興味深い逸話がある。「波と木彫りのクマ/ベトナムの空」が発売されてまもない時期、正確には1966年7月18日の夕刻、彼のもとに一本の電話がかかってきた。それは、日高が音楽評論家の島田耕らと執筆した新刊本「フォーク・ソングを語ろう」を読んで感銘を受けたという17歳の少年からで、「今晩お伺いして、フォーク・ソングの話を聞かせてもらってもよいか」と言うものであった。唐突な依頼に呆れながらも、熱意に打たれた彼は即座に了承する。そして、日高と真木の創作の拠点でもある神宮マンションにやってきた少年は、自分は赤旗を印刷しているあかつき印刷の文選工であること、昨年(1965年)来ピート・シーガーやウディ・ガスリーなどのフォーク・ソングの魅力に心奪われ、今はアメリカ行を熱望していること、などを話し、日高がアメリカで見聞きしたフォーク・ソングのことを是非教えてほしいと言う。日高は、フォーク・ソングの話に留まらず、アメリカでの様々な体験や、ビザの取り方、入国手続きまで事細かく少年に説明し、さらに、ギターのカーター・ファミリー奏法やブルースハープの吹き方まで教えている。日高と少年の交流はその後も続き、日高がトンボ楽器製作所と試作した国産初のハーモニカ・ホルダーを最初に譲り受けたのもこの少年であった。少年の名は、高田渡。高田は、この後、赤旗日曜版の記者から「日高義という人は気をつけた方がいい」と忠告を受けることになる。その理由はあえて書くまでもないだろう(注5)。(つづく)

フォーク・ソングを殺したのは誰? その9


(注1) 1966年当時の赤旗日曜版は、赤旗縮刷版には収録されておらず、マイクロフィルム化もされていないため、国会図書館所蔵の原紙を確認するしかない。紙資料の耐用年数を考えると早急にデータ化することが望まれる。


(注2)日高義の発言は、「週刊明星」1966年7月号掲載「特報『赤旗』にニセモノと書かれたマイク真木の謎の行動」、真木の発言は、「ミュージック・ライフ」1966年9月号掲載の「マイク真木・栗原玲児のフォーク対談」より。なお、赤旗の記事が原因か否かは定かでないが、同時期、人気絶頂であった真木は 1回目の“失踪”をしている。先の「週刊明星」によると、「(行き先は)家族に聞いても、親しい仲間に聞いても、さっぱり分からない。そのうち『四国方面へ逃避行したらしい』『マスコミ嫌いの反抗的行動ではないか?』『いや、ビートルズの日本公演がすむまで、姿をくらましているのだ』なんていうウガった噂まで」流布されるという状況であったようだ。


(注3)ロビー和田率いる日本版Up with People「レッツゴー'66」については、「その9」において後述する。なお、彼らの活動のピークといえる1966年11月27日の武道館公演の様子は、以下の動画で見ることができる。

(注4)高石と「ベトナムの空」のエピソードは、高石友也・岡林信康・中川五郎共著「フォークは未来をひらく」(1969年新報新書)より。なお、本書において何より重要なのは、新森小路教会の村田拓牧師(当時、高石友也後援会長兼フォークキャンプ実行委員長)による「前書き」である。ここで村田牧師は、「ベトナムの空」を驚きと感嘆をもって絶賛している。歌が作者の意図を超え、自律的に新たなメッセージを訴求し、送り手側が想定していなかった受け手から評価された稀有な例として引用したい。
「ここには、現代詩の難解さはない。そして商業主義の大量生産である職人たちが作り出す、歌謡のなかでは決して歌われない歌であり、きびしい緊張をもっている。それに、その頃、盛んであったフォークブームのなかで歌われていた、数多くのフォークソングといわれていた歌ともまた異質であった。そして、また、ぼくが学生時代に歌っていた歌ごえ運動の中の、ことに革命歌といわれるものをこえる、より歌としての歌がここにあったのである。こうしたことが、ぼくには新鮮な感動を呼び起こす要因であっただろう。
 だが、それらの事柄にもまして、次の二つの事柄がぼくの心を捕らえてしまったといえる。そのひとつは、『ハノイやサイゴン、大阪もみんな同じ空』と歌い上げられたとき、それまで歌われていたベトナムの姿が、急にぼくの身近に迫って来たということだ。ぼくはこれまで、もっと内的に自分の身近にベトナムを、そしてさまざまな社会的な矛盾をとらえることができるかということに悩み続けて来た。ただ、観念や知的な世界においてではなく、ぼくたちの心、内的な情念の底まで深く全的に、ベトナムやたたかうべき諸矛盾をうけとめたかったのである。そうでない限りどれほど激しく闘われる反戦行動や反権力、反体制の行動でも、それは根の浅いものとなり、互いの連帯も深まらず、抑圧が激化すると必ず挫折し、それをはねかえしていくだけの主体性は、確立されはしないと考えてきたのだ。
 ところが、高石友也というひとりの強烈な個性を通して、この『ベトナムの空』が最後の節まで歌われたとき、フォークソング、つまり芸術のもつ意味が、このぼくにははっきりしてきた。フォークソングというものがもっているひとつの意味は、ぼくたちの戦いを内面化し、その連帯を内的なものにまで転化する本質をもっているということだ。
 もう一つの事柄は、この『ベトナムの空』という歌が、たんに絶叫し、アジル、つまり、単に社会の矛盾や戦争を弾劾し、告発して、平和や革命や労働を謳歌するのではなく、押えた調子と、金属質と戦争とベトナムの自然と、その生命をぶつからせる緊張とリズムによって、深いヒューマンな感動のなかで、ベトナムの民衆の心を適確に定着しきっているということである。それは、ベトナムの民衆だけでなく、戦争を心の底から憎み、平和な豊かな生活を求めてやまない、民衆すべての心のなかを表現しきっているということである。このような歌が日本人によって生み出されたのだ。ぼくはこれまで、ベトナム戦争といった問題をとらえながら、これほど同時に民衆の心を表現しえた歌を、比良九郎作詞、いずみたく作曲の、サイゴンの広場で若い解放戦線の兵士が公開銃殺されたとき、その銃殺執行兵が、その死んだ少年の顔を忘れることができないでいる、苦しい孤独な苦悩を歌った『消えない顔』のほかには知らない。そしていま、『ベトナムの空』がある。そうして、この『ベトナムの空』は、『消えない顔』と違って、やさしくだれにでも歌えるという長所をもっている。こうした民衆の心を歌いあげ、またより多くの民衆に歌われるということのなかに、フォークソングのもっているもう一つの意味があるのだ。」

(注5)高田渡著「マイ・フレンド: 高田渡青春日記1966ー1969」(2015年河出書房新社)より。無断欠勤・遅刻・早退を繰り返す問題社員であった渡少年は、一方で日本共産党の機関紙「赤旗」を印刷するあかつき印刷の労働者であることを誇りにしつつも、資本主義の総本山であるアメリカのフォーク・ソングへの思いとの葛藤に悩み、次のような思いを日記に吐露している。
「ぼくは今、アカツキにいる。そしてアメリカに渡るとしたら。はたしていけるだろうか? いや、アカツキにいたなんて事がわかれば、絶対にパスポートはおりないよ。(中略)アカツキを今やめたくないし、フォーク・ソングは研究したいし。どうすればいいのかわからなくなってきた。いっそのことボーナス(夏)もらったらやめて、正反対の仕事をして、まえのことをごまかすかな。つまり反共団体の巣のような所とかさ。そうすれば、なんとかごまかせるかもしれない。フォーク・ソングを学びたいだけに、どうすればいいかわからない。どうすれば、うまくごまかし、渡米できるか。」(1966年6月12日)