(番外編2)1963年秋・麻田浩のフーテナニー・グラフィティ | AFTER THE GOLD RUSH

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先月発売された麻田浩氏の自伝「聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事」が抜群に面白い。麻田氏といえば、(拙ブログの読者諸氏には説明不要であろうが)日本のフォーク黎明期にモダン・フォーク・カルテットの中心メンバーとして、MRA(道徳再武装運動)のショーケース「Sing Out‘65」に加わり、米国を横断する演奏旅行を体験し、その後、シンガーソングライターとして活動しながら、「小さな呼び屋」トムス・キャビンを設立、エリック・アンダーセン、トム・ウエイツ、エルヴィス・コステロ、トーキング・ヘッズ、XTC、ラモーンズ等、一癖も二癖もある英米のミュージシャンを日本に初めて招聘した方である。個人的に意外だったのは、昨秋公開された映画「さらば青春の新宿JAM」のエンドクレジットに氏の名前を発見し思わず「あっ」と叫んでしまったのだが、あな懐かしや、1980年代後半に初期ザ・コレクターズやピチカート・ファイヴを擁した「麻田事務所」の社長でもあった。

興味深いエピソード満載のこの本の内容について、あれこれと書き連ね、未読の皆さんの楽しみを奪うような野暮は差し控えるが、敢えてざっくりと書くなら、エピソードの一つ一つが実に奥深く、例えば、1967年の米国放浪時代、1972年のカントリー・ロッカー時代、1976年から1980年の第1期トムス時代など、それぞれのエピソードで一冊ずつ本ができるのではないかと思わせる程ドラマチックかつ濃厚であり、それをこの頁数に圧縮せざるをえなかった麻田氏及び共著者奥和宏氏の痛恨の念すら感じてしまうのである。特に、ローリング・ココナツ・レビューとハイドパーク・ミュージック・フェスティバルの顛末については、その成功と挫折の要因を後世に貴重な教訓として残すためにも、最低でも10倍の文字数は必要であったと思われ、是非、いつの日かより詳細に記録していただくことを期待する。(ローリング・ココナツ・レビューの舞台裏については、岩永正敏氏の著書「輸入レコード商売往来」に詳述されているらしいが残念ながら今は絶版となっている。)

さて、本書の発売に先立って、1月14日、新宿歌舞伎町のROCK CAFE LOFT(ロックカフェ・ロフト)にて、音楽プロデューサー牧村憲一氏と麻田氏のトークイベントが開催された。これが、1960年代初頭に麻田少年がFENでキングストン・トリオを初めて耳にした時の衝撃から話を掘り下げていくという牧村氏ならではの秀逸な進行で、日本のモダンフォーク黎明期の知られざるエピソードが次々と明らかにされていった。例えば――、
○モダン・フォーク・カルテットは、米軍キャンプなどで演奏していた凄腕カントリーバンド、ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのコミカルな芸風から多大な影響を受けたこと(フォーク・フェスで大受けしたというギターの重見康一氏の「ジョークを散りばめたねっとりとした日本的なおしゃべり」によるMCは、このマウンテン・プレイボーイズがルーツなのだろう。)
○夢中になったキングストン・トリオは、アマチュアの学生3人組が自作の曲を自分達の演奏でレコードが出せることを証明した一番最初のシンガーソングライターであったこと
○下北沢の闇市で買ったストライプの生地を青山通りにあった米軍御用達の洋服屋に持ち込み、キングストン・トリオのアルバムそっくりにシャツを仕立ててもらったこと
○VANやメンズクラブに可愛がってもらい、同社主催のパーティで演奏するなど、1960年代半ばまではフォークソングとファッションが密接に結びついていたこと、等々。

その中で、1963年秋に日本初のフーテナニーが開催された原宿の教会のことが話題に上がった。「今、ラフォーレが建っている場所にあった教会(=移転前のセブンスデー・アドベンチスト東京中央教会)ですよね」と尋ねる牧村氏に、麻田氏は「いや、そこじゃないんです」とさらっと返す。「原宿駅から明治通りをもっと奥の方に行き」「千駄ヶ谷小学校を少し下ったところ」にあった小さな教会とのことで、牧村氏も私も「へーっ、そうだったんですか!」と驚かざるをえなかった。

とはいえ思い込みとは恐ろしいもので、私の中で原宿フーテナニーのイメージは、あのお洒落で大きなセブンスデー・アドベンチスト東京中央教会で固定化されてしまっている。半信半疑で1963年当時の渋谷区の住宅地図を調べてみると、麻田氏の証言と一致する場所、すなわち、千駄ヶ谷小学校から見て明治通りを挟んで斜め向かい側に教会のマークを見つけた。

このエリアの全景を俯瞰できる地図を確認すると、日本動物愛護協会附属動物病院とかたばみ荘別館の間に確かに小さな教会がある。東京都民教会。1918年(大正7年)設立、1945年5月25日の山手大空襲による教会堂焼失という苦難を経て、戦後再建、以後この地で伝道を続けていたが、1975年に下北沢駅近くに移転したという。


古地図を片手に同地を歩いてみた。日本動物愛護協会附属動物病院はイトキン本社原宿ビル(1977年竣工)に、かたばみ荘別館は第8宮庭マンション(1969年竣工)になっている。教会の裏手にあった神宮アパートは、1990年代に10階建のマンションに建て替えられた。この3つの大きな建物に囲まれるように、ポツンと小さな空地が現れる。ここが日本初のフーテナニーが開催された東京都民教会の跡地である。

左側がイトキン本社、右側が第8宮庭マンション、中央の空地が東京都民教会跡地。


三方を隣地建物に囲まれた教会跡地。このスペースから見ても小さな教会であったことが分かる。


空地前に一部残っている洒落た放射状の石畳は、教会時代の痕跡であろうか?

現地に行って分かったことは、日本初のフーテナニーは実にささやかに開催されたのであろうということだ。マイク真木の証言を思い出す。「仲間の一人が音頭をとって、原宿の教会にフォークのグループ5〜6組が集まることになった。なぜ、教会だったのかは分からないんだけど、それが関東では最初のフォークグループの集まりだったかもしれない。お客はあんまりいなかったけど、ただみんなで楽しむ集まりだったね。」 (島敏光「永遠のJ-ポップ」)
原宿の外れの小さな教会の小さな礼拝堂で行われた同好の士による先鋭的なフォークの集い。集まったグループは、モダン・フォーク・カルテット、PPMフォロワーズ、ジャッキー&クレイン、キャスターズ。若者達の美しいハーモニーとバンジョーやギターの乾いた音色は、秋風に乗って隣の動物病院まで届いただろうか?  それは、テキサス州ダラスでケネディ大統領が暗殺された56年前の秋の日のことであった。

この原宿フーテナニーから9年後の1972年秋、麻田氏は盟友石川鷹彦と共に渡米し、ケニー・バットリィ 、デヴィッド・ブリッグス、チャーリー・.マッコイらナッシュビルの腕利きのミュージシャンと初のソロアルバム「GREETINGS FROM NASHVILLE」を録音した。フォーク、ブルーグラス、ヒルビリーといったアメリカン・ミュージックを貪欲に吸収し、咀嚼し、日本人たる自身のものにした後に紡ぎ出した滋味深い楽曲は、70年代初頭に日本人が到達した米国情景音楽の偉大なる成果として再評価されて然るべきであろう。本アルバムに、「もはやナッシュビルに行く必要はなくなった」と麻田氏に言わしめたキャラメル・ママや徳武弘文らとのセッションを加えた2枚組CD「GOLDEN☆BEST」は、ドン・ガント、飯塚文雄、日高義という3人のミュージシャンに捧げられている。ドンは「GREETINGS FROM NASHVILLE」のプロューサーであり、飯塚はジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのフィドル奏者(麻田率いる「99バンド」のメンバーでもあった)、そして、日高は、原宿フーテナニーの主催者であり、日本のフォークソングの最初期の優れたソングライターでもある。麻田浩の青春グラフィティは、この作品を持って、第一幕を閉じたのかもしれない。

フォーク・ソングを殺したのは誰? その8