フォーク・ソングを殺したのは誰? その7 | AFTER THE GOLD RUSH

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マイク真木の「バラが咲いた」は、1966年4月15日に発売され(注1)、翌月、ゴールデンウイークが終わる頃には20万枚を売り上げる爆発的ヒットとなっていた。当時の記録によると、5月半ば、銀座山野楽器でシングルチャート1位、新宿コタニ楽器店でも2位を記録、購買層は学生を始めとする10代、20代の若者が中心だが、スクエアな教育ママ・パパといった風情の中年の客の姿もあり、この歌が極めて短期間にお茶の間に浸透していったことが分かる(注2)。その要因として、まず、お年寄りから子どもまで誰もが口ずさめるハマクラ・メロディの親しみやすさを挙げることができるだろう。浜口庫之助がサン・デグジュペリの「星の王子様」をモチーフに書いたといわれる「バラが咲いた」は、童謡の如くシンプルで分かりやすく、それでいて、日本的な湿ったマイナー調とは無縁などこかヨーロッパ的なモダンさがある。後述するとおり、この歌に対しては毀誉褒貶相半ばし、私も、いびつにガラパゴス化していく日本のフォーク・ソングの象徴的存在と捉えるが、昭和の歌謡曲として聴けば、大変良く出来た歌であることは否定しない。

大ヒットのもう一つの要因は、周到な宣伝戦略である。浜口の著書「ハマクラの音楽いろいろ」によると、松下電器が宣伝に使用し、歌は大ヒット、電気製品も売れ、会長の松下幸之助氏から「このような清潔な歌がヒットして大変嬉しい。ありがとう」と礼を言われたとあるから、恐らく発売前からテレビやラジオのCM、町の電気屋の店頭などで頻繁に流されていたのではないか(後述する朝日新聞の記事にも、レコードの発売前にもかかわらず「すでにめきめき人気をあげている」と書かれている)。だとすると、この刷り込み効果は大きい。さらに、シングル発売10日前の4月4日には、当時若者に絶大な影響力を持っていた週刊誌「平凡パンチ」が、マイク真木の特集記事を4頁にわたって掲載している
(注3)。ぶち上げた大見出しにはこうある。「世界へのチャンスをつかんだ日本の無名歌手/自作の曲でデビューする“日本のボブ・ディラン”マイク真木の素顔」。これは、明らかにステルスマーケティング、つまりスポンサーに“買われた”サクラ記事であろう。よって、鼻白む提灯記事である一方、“日本初のフォークシンガー・マイク真木”をいかにして売り出そうとしていたのかという当時の業界の思惑もくっきりと浮き彫りになっており、資料的価値は極めて大きい。以下、一部引用し検証する。




まず、デビュー前の特集という異例の記事ゆえ、出だしから記者の苦労の跡が窺える。
「マイク真木といっても、まったく無名の歌手。そのレコードも、4月中旬にならないと発売にならない。だから昨年12月末、日劇でおこなわれた『フォークソング・フェスティバル』で彼の歌を聞いた、ごく一部のフォークソング・ファンしか彼の名をしらない。『しかし、日劇での彼のステージを見るとわかりますが、たいへん熱狂的なファンを持っています。それも、ロカビリー・ファンとちがい、じつにカラッとしてます。ことにわたしたち女子大生の人気を一人じめにしてました』(フォークソング・ファン 梅田美子さん)。女子大生に人気があることは、彼につけられた“日本のボブ・ディラン”というニックネームにふさわしい。そしていまや、日本国中、いや全世界のレコード界は、いっせいに彼に焦点を合わせ、“国際的シンガー”に祭り上げようとしているのだ。その“売りこみ資金”は、日本国内だけで5百万円といわれ『世界各国の分を合わせると、はたしてどのくらいになるか見当もつかない』(フィリップス・レコード販売部長、伊藤信哉氏)という。」

ここから明らかになるのは、真木のデビューは、日本にとどまらず世界的な規模で準備されていたということだ。そして、そのマーケティングにかかる経費も桁外れであった。記事を続けて見てみよう。
「フィリップス・レコード社は、オランダ、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカにチェーンを持っており、マイク真木のレコードは5月に世界同時に発売になるわけだ。それだけに、破格の売り込み資金が必要とされるわけだが、アメリカの場合、真珠をくわえこんだカキのカンヅメを5千個(1個2千円)全米のディスクジョッキーにくばり、『ビルボード』、『キャッシュボックス』誌に全ページ広告を毎週出すという。両誌とも全ページ広告ともなると千ドルが相場だから1か月続けたとして8千ドルになる勘定だ。他の国でもマイク真木のポスター、カレンダーなどを製作しているというから、まさに“どれくらいになるか見当もつかない”というもの。『これまで、日本の新人歌手のデビューに当たっての売り込み費はせいぜい5、60万円どまり』(某芸能プロ)といわれるだけにマイク真木自身『うれしいというより、こわいというのが本音』というのも当然だろう。」

しかし、ほんの2ヶ月前に“たまたまアルバイトでデモテープを吹き込んだ”に過ぎない無名の学生アマチュア・シンガーが、かくも破格の宣伝経費を費やして、いきなり世界デビューなどできるものであろうか? 日本人歌手の世界進出など夢のまた夢という時代状況を考えると、強烈な違和感を禁じ得ない。何より不自然なのは、1966年当時の真木に関する膨大な記事の中に、近年、真木と(レコード・ディレクターの)本城和治氏が繰り返し証言している「『バラが咲いた』は、デモテープが瓢箪から駒で大ヒットにつながった」という重要なトピックが一切見当たらないことだ。この初々しく清潔で、ストイックなフォークシンガー然としたエピソードは、フィリップスレコード、マスコミのいずれにとっても“おいしいネタ”であったはずなのに――。歴史の改ざんとは、真実が無かったこととされ、新たな定説によって上書きされるものだが、真木の場合は、その新たな定説が「デモテープ」であり、抹消された真実が、後述するとおり「MRA(道徳再武装運動)」であったのではないだろうか。

話がやや進みすぎたようだ。「バラが咲いた」の宣伝戦略に話を戻す。デビュー前に真木を取り上げたメディアは「平凡パンチ」だけではなかった。当時、圧倒的な部数を誇っていた朝日新聞もこれに追随した。シングル発売2日前の4月13日夕刊。大人も子どももまず目を通すテレビ欄に「フォークの有望スター・マイク真木」との見出しを付けた紹介記事が掲載された。2段ぶち抜きの大きな顔写真付きで――。全国紙が、デビュー前の無名歌手の記事を掲載するのは相当に異例なことではないか。これもまたステルスマーケティングと考えるのが妥当であろう。


このような周到な宣伝戦略と楽曲の良さも相まって、「バラが咲いた」は、この年だけで30万枚を売り上げる大ヒットとなった。しかし、ブラザース・フォアやキングストン・トリオなどを愛聴していたモダンフォーク・ファンのこの曲に対する反応は芳しいものではなかった。当時17歳のフォーク少年であった島敏光氏(現・映画評論家)は次のように回想する。
「ラジオから流れる『バラが咲いた』を聴きながら、僕はどうにも釈然としない気持ちに包まれていた。(中略)確かにマイク真木はMFQのメンバーだが、これを作った浜口庫之助は、『若い娘はウッフン』で『僕は泣いちっち』で『ありがたやありがたや』の人ではなかったか。これはフォークの形を借りた歌謡曲ではないのか。当時の多くのフォークソングのファンがそう感じていたはずだ。」
(注4)
また、音楽評論家の田川律氏も「これほど、その内容に乏しい歌もない。ぼくはいつもこの歌を思い出す度に『白地に赤く――』という日の丸の歌を思い出す。この歌もイメージこそきわめてはっきりしているが、これほど無内容の歌もない、といえるほどに意味がない」(注5)と酷評する。
一方で、それまでアメリカのフォーク・ソングを耳にしたことがなかった人達には、フォーク・ソングとは、かくも平和でのどかで健全な歌なのだというイメージが刷り込まれていった。それを裏打ちするかのように「アメリカでは反戦や人種差別反対などの主義主張を剥き出しにして歌うフォークシンガーもいるが、それは、芸術ではなく、イデオロギーの化け物であり、放送局からもオミットされている」と喧伝する評論家まで現れた。ピート・シーガー、フィル・オクス、ジョーン・バエズのように、不当な支配のくびきから人々を解放し、ギター一本で権力と対峙するフォークシンガーがいることをまだほとんどの日本人は知らなかった。
そして、この年、ウディ・ガスリーの「我が祖国」のアンサーソングであろうか、「君の祖国を」という和製フォーク・ソングが、藤田敏雄といずみたくのコンビによって作られ、ブラウン管から飛び出し、キャンパスへと広がっていった。「君だけは愛してほしい/この国を愛してほしい/なぜか今祖国とさえも/だれも呼ばないこの国を」と無条件に愛国心を鼓舞するこの歌は、ステイト(state)たる国家に対する反骨心がベースとなっているガスリーの「我が祖国」とは似ても似つかぬ代物であった。「バラが咲いた」といい、「君の祖国を」といい、批評性・社会性が徹底して排除された、その後の日本のフォーク・ソングのプロトタイプとも言える歌が、ともに1960年代半ばに誕生したことは、誠に興味深いものがある
(注6)

「バラが咲いた」には、有名な後日談がある。それは、この歌が大ヒットしている最中に、浜口から「メロディと詞の一部が違っているので録り直してほしい」とのクレームが付き、急きょレコーディングし直し、シングル盤を切り替えたというものである。最初のレコーディング時に間違いに気付かなかった理由を、本城は、「ハマクラさんのデモテープはマイクの手に渡って、僕らはオリジナル・テープの歌は聴いていなかったので、彼が歌を間違って覚えてしまったのを確認できなかった」
(注7)としているが、このエピソードもどこか不自然だ。世界デビューを視野に入れた歌手のレコーディングにおいて、制作担当者が原曲を聴かず、譜面すら用意していないということがあるのだろうか。加えて、この曲は、後にフォーク・クルセダーズの「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」を手掛ける小杉仁三氏(ペンネーム・ありたあきら)が編曲に加わっている。真木しか原曲を知らないという状況で、いかに編曲の作業をしたのであろうか?
なお、先に紹介した平凡パンチには、この件についても以下のような興味深い記載がある。
「かれの歌の先生である浜口庫之助氏は、『自己主張を絶対まげない点では、これら3人の大先輩(引用者註:ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、ピート・シーガー)以上に深いものがある』という。たとえば、マイク真木の歌を聞いて、“一目ぼれ”した氏が、さっそく新曲をつくってやったところ、マイク真木は首を横にふり『もっとぼくにピッタリするものをつくってください』とキッパリことわり、浜口氏にさらに5、6曲オリジナルを書かせたという。その中から、ようやく気にいったものを選んだかれは、今度は『曲はいいが詩がどうも』とゴネ、結局、それを押し通し、自分のイメージどおりの歌に仕上げてしまったとか。」
ちなみに、浜口は、真木の父、小太郎の友人である。旧知の関係である真木と浜口との間でこの曲に関して何があったのか、真相は藪の中である。(つづく)

 

(注1)草野昌一率いる新興楽譜出版社が原盤を制作し、フィリップス・レコードが発売した。なお、富澤一誠の「あの素晴らしい曲をもう一度」に発売日が4月5日と記載されており、これを引用している資料も見受けられるが、富沢本は誤植であり、正しくは15日である。
(注2)「週刊平凡」(1966年5月26日号)
(注3)「平凡パンチ」(1966年4月11日号)。本号は国立国会図書館では欠番となっている。歴史的に検証を要する記事が掲載された資料の欠番が多いのは単なる偶然であろうか。
(注4)「永遠のJ-ポップ リレー音楽白書」島敏光著(学研)
(注5)「日本のフォーク&ロック史 志はどこへ」田川律著(音楽之友社)
(注6)ザ・シャデラックスのシングルは、翌1967年に発売されているが、「バラが咲いた」と同年の1966年には既にテレビやキャンパスでこの曲が歌われていたとの複数の証言を得たことから、このような記載とした。なお、藤田敏雄といずみたくのコンビは、1960年代前半から半ばにかけてフォークソングの先駆けともいえる優れた楽曲を多数生み出しており、「君の祖国を」もそのうちの1曲であったことは強調しておきたい。
(注7)2016年04月27日「大人のMusic Calendar」(http://music-calendar.jp/2016042701

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