スコット・ストリートから遠く離れて | AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――


父が隣町の介護付き老人ホームに入所してまもなく1年になる。不可逆的に進行する認知症により新たな記憶を重ねることができず、今という瞬間は地面に落ちた粉雪のように何一つ痕跡を残さないまま儚く消え去ってしまう。そして、彼の時間は遥か遠く80年前へと遡上し、今、父は、10代前半まで暮らした鹿児島の生家や、最年少の主計兵として従事した鹿屋基地にいる。ぼくは、毎週末そこに行く。父の頭の中にしか存在しない、郵便局のあった大きな生家に、若い特攻隊員が飛び立つ真夏の軍事基地に――。

ホームでいつも挨拶を交わす刀自がいる。太田キヨコさん。彼女は会うたびに父のことを「私の父にとてもよく似ている」と言いながら、何故か涙を流す。東京の下町生まれのキヨコさんは、尋常小学校3年の時に東京大空襲を経験している。深夜に物凄い数の戦闘機が空から爆弾を落とし、辺り一面が火の海になる中、母親と妹と一緒に必死に逃げたという。「大勢の人が死んで、家も大切なものも全部焼かれて・・・」。いつもここで話が止まる。そして、話題はまた父のことになり、「私の父もお父さんと同じように立派な髭でした」(ちなみに父は髭を貯えたことは1度もない)と言いながら綺麗な涙を流してくれる。当の父は、毎日キヨコさんに会っているはずなのに、記憶することができないから、2人はいつまでも初対面のままである。

ホームの入口には頑丈な鍵がかけられ、誰かに頼まなければ入ることも出ることもできない。13平米の居室は終のすみかとしてはいかにも狭く貧弱だ。ぼくは、そこに行くと、良くないことと思いつつも、どうしてもゲットーを想起してしまう。そして、一歩外に出ればほぼ無制限の自由を享受できる自分が、こうして父やキヨコさんに向き合っていることを後ろめたく感じる。

Do you feel ashamed. When you hear my name?

ロサンゼルス出身の若きシンガー・ソング・ライター、フィービー・ブリジャーズが数年前に発表した「スコット・ストリート」の一節。最近ことあるごとにこのフレーズがぼくの耳元でこだまする。

JR新宿駅の西口改札を出て、天井の低い地下広場の大きな柱に寄りかかり目を瞑ると、以前のぼくであれば、あの夏の地下広場に立っているかのような錯覚に陥ったはずだ。「ウイ・シャル・オーバーカム」の歌声が、何千という人々が議論をする活気に満ちた話声が確かに聞こえたはずだ。しかし、今、それらはすべて消え失せてしまった。新宿駅西口地下広場の心臓部であり、人々の生活の拠点でもあった小田急百貨店は昨年10月に営業を終了し、目下解体工事が進められ、この街は再開発によりその姿を大きく変えようとしている。何ということだろう。土地や建物には精霊が宿り、移り行く時の流れを慈しむかのように街の記憶を語り継いでいるというのに。その神聖な存在を蹂躙し根絶やしにし、過去から未来への繋がりを力づくでぶった切る「再開発」という名の蛮行が、いかに東京を無機質でつまらない街にしてしまったことか。――ぼくはかねてよりこの無知性で凶暴な破壊行為は、東京のことを少しも愛していない成り上がりの田舎者どもの所業であると思っている――。そして、2003年2月から毎週土曜日の夜に平和の祈りを込めたスタンディングを続けていた大木晴子さんもついにこの地を去ってしまった。4月29日が地下広場での最後のスタンディング。ぼくはそのことを毎日新聞の記事で知った。

読み終えた時、言葉では言い表せない衝撃と喪失感に襲われた。同時に、傍観するのみで一度も主体的に意思表示をすることが出来なかった自分自身の心の弱さを恥じた。晴子さんに連絡すると、当の本人はさばさばしたもので、「20年背負ってきたものを下ろしてホッとしています」とのご返事。こういう時、ザ・バンドの歌のように「荷物を下ろして自由になってください。その荷物は私たちが引き受けますから」などとさりげなく言えればよいのだが、そんな覚悟を持てないぼくは、「お体に気をつけてください」とか「またお会いしましょう」といった間延びした常套句を力無く呟くことしかできない。
しかし、そのような空々しい気遣いは一切無用であった。晴子さんは今日も日本のどこかでエネルギッシュに平和への意思表示を続けている。11月19日には、彼女のもう一つのホームグラウンドである渋谷ロフト9で、「中川五郎+伊東正美ライブ&トーク~希望をつなぐために語り!歌おう!」を主催された。フォーク・ゲリラ時代からの仲間である中川五郎さんが「1923年福田村の虐殺」「真新しい名刺」「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」という「関東大震災朝鮮人差別三部作」を1時間半かけて熱唱。この日は伊東正美さんの流麗なギター演奏が加わったことで音楽としての完成度や豊穣さがより一層高まり、五郎さん流バラッドの真骨頂をみた思いであった。

五郎さんのフォーク・ゲリラに関するトークが大変興味深かった。以下、備忘録として書き残す。
・政治的な主張を訴える場所でギターを持って歌う動きは大阪から始まった。自分も南大阪べ平連や北摂べ平連の仲間達と梅田の地下街で頻繁に歌ったことを覚えている。
・べ平連の人達とはとても仲が良く、山口文憲さん、吉岡忍さん、小黒弘さんも良く知っていて、だから、1969年の春から夏にかけては、既に自分のLPレコードを出し、日本全国歌って回っていたが、プロとかアマとかいう意識は無く、一人の参加者として新宿西口のフォーク・ゲリラの集会で歌わせてもらった。
・当時は大阪に住んでいたので、東京に出てきた時にスケジュールが合えば新宿西口に向かった。2回か3回歌った記憶がある。べ平連の時からの付き合いがあったのでフォーク・ゲリラ側もいつもの友達が来てくれたとごく自然に迎えてくれたし、自分自身も当たり前のこととして歌いに行っていた。それが仮に岡林信康さんであれば、有名人やプロが来たと受け止められたかもしれないが、自分の場合は物凄く自然な感じで参加していた。
・新宿西口で一番記憶に残っているのは、大木晴子さん。いつも皆をリードして歌っていた姿が脳裏に焼き付いている。たまたま大木さんと自分が横に並んでいる写真が記録として残っているが、(自分はそういう自然なスタンスで参加していたので)大木さんは気付かなかったのだろう。

周知のとおり、五郎さんはフォーク・ゲリラの重要なレパートリーの大半を作られた関西フォークのオリジネーターであり、当時既にプロのフォーク・シンガーとして活躍されていた。にもかかわらず、新宿西口では無名の一参加者として歌っていたという事実にあらためて驚くとともに、それこそが、自らの責任の下に行動する一個人が主役である新宿西口フォーク集会の本質であったのだろうと得心もした。

当日参加された方(※)から、晴子さんは1枚の写真を渡されたという。そこには、1969年8月に大阪城公園で開催された「ハンパク」(反戦のための万国博)会場でフォークギターをつま弾く20歳の晴子さんが写っている。ジーンズの裾に書かれた「Anti- Expo」の文字が眩しい。この時期、新宿駅西口地下広場は「通路」に変わり、戦闘服姿の機動隊に占拠され、仲間もご自身も逮捕され、先の見えない後退戦を強いられていたというのにこの明るい笑顔は一体何なのだろう。それは、晴子さんが座右の銘とする故中村哲さんの言葉「捨て身の楽天性」を半世紀以上も前から体現していたかのようだ。


フィービー・ブリジャーズの歌声が、晴子さんの声に変わる。
Do you feel ashamed. When you hear my name?


※    この素晴らしい写真を撮影されたのは、斎田裕二さん。斎田さんは、高校生の時にハンパクに参加され、以来この写真を大切に保管されていたという。

雨上がりの底冷えする初冬の夜。千代田区二番町の狭い歩道の一角に押し込められた900人の市民が抗議の声を上げる。Shame on Israel! Israel shame on you! 100m程先にあるイスラエル大使館前の道路は警官隊に封鎖され、市民は近づくことができない。「私達がいる日本とパレスチナは遠く離れています。だけどここからでも声を上げることは無力ではないと思います」。総がかり行動実行委員会青年PTの若者がアピールする。今回、追い詰められた弱者の抵抗は、最悪の形で暴発してしまった。一般市民に対する拉致と殺戮は絶対に許されることではないが、その報復として、圧倒的な軍事力を行使して無抵抗のガザ市民を虐殺してよいはずがない。何より心揺さぶられ、怒りや悲しみを通り越し、絶句する程の絶望の感情が沸き上がってきたのは、イスラエル軍に包囲され燃料の供給が途絶えたシファ病院で、電力が尽きた保育器から生まれたばかりの赤ん坊がベッドに移され、瀕死の状態であえぐ映像だ。ずっと自問自答している。暴力も殺戮も当然否定する。しかし、絶望の淵に生きる人々のぎりぎりの抵抗をテロと呼んで切って捨ててもよいのであろうか。圧倒的な暴力と不条理の下、支配され隷属を強いられ、やるせない怒りに押しつぶされそうになっている人々に非暴力を唱えることはどれだけ意味があるのであろうか。答えはいまだに出ないが、それでも叫び続けるしかない。殺すな。殺させるな。
千代田区二番町の路上で、ぼくは、東京大空襲から命からがら生き延びた太田キヨコさんのことを考えていた。シュプレヒコールの向こう側から彼女の声が確かに聞こえたような気がした。
Do you feel ashamed. When you hear my name?


【関連記事】
続・1969年新宿西口地下広場で中川五郎は――(2014-02-23)
1969年新宿西口地下広場で中川五郎は――(2012-12-01)
フォーク・ゲリラとブロードサイド・バラッドに関する一つの考察(2010-09-23)
腰まで泥まみれ(2008-01-21)