昨年来、「雲遊天下 」というリトルマガジンを定期購読している。正直言ってあまり褒められた雑誌とはいえない。特集は、些か行き当たりばったり風であるし、読んでいるこちらが赤面してしまうような幼く拙い文章が堂々の連載記事であったりする。書き手に熟練したプロのライターが少なく、ミュージシャンや同人主体だからであろうか、それにしても、もう少し何とかならぬものかと、頁を捲る度ため息がこぼれる。
しかし、石の多いこの雑誌にも、確かにキラリと光る“玉”がいくつか混じっている。その一つが岸川真さんのエッセイであり、もう一つが、中川五郎さんの「現在(いま)を歌うフォークが未来をひらく」である。特に五郎さんの連載は、一昨年5月にスタートして以来、自らの音楽史を端正な文章で誠実に書き綴っており、その体験者にしか書きえないフォーク黎明期のいきいきとした描写は、読むたびに新たな発見がある。大いに興奮させられる。この連載を読むためだけに定期購読していると言っても過言ではない。
半年のブランクを経て先月下旬に発行された最新号(111号)の記事は、これまでにも増して一段と良かった。それは、フォーク・ゲリラについての極めて重要な一次資料とでもいうべき内容であった。五郎さんは、自らとフォーク・ゲリラとの関係について、「どちらかと言えば仲が良くて、比較的近い位置にい続けていた」「自然に素直に連帯することができた」と語る。そして、親友であった故高田渡氏の自伝「バーボン・ストリート・ブルース」を引用しながら、「渡さんは当時一緒に歌っていたフォーク・ソングの仲間でいちばん仲が良かったが、ことべ平連やフォーク・ゲリラに関しては、彼とはまったく話があわなかった」とし、渡氏の小田実批判や、かの有名な「東京フォーク・ゲリラの諸君を語る」で揶揄したフォーク・ゲリラ像を「捉え方や評価にとても誤解がある」とやんわり否定する。そのうえで、「フォーク・ゲリラは決してエリートでもヒーロー気取りでもなかったし、彼らが誰かに利用されていたり、逆に彼らがマスコミを利用していたようなことはなかったのではないか」との見解を示す。これはとても勇気ある発言ではないだろうか。少なくともぼくは、当時のフォークシンガー及びそのファン達が、フォーク・ゲリラについて腐すことこそあれ、弁護や共感の類の発言をする場面をこれまで見たことも聞いたこともない。そして、ぼくもまた、つい数年前まで渡氏の熱烈なファンであるがゆえの金縛り状態から抜け出せずにいた一人であったことを告白しよう。この五郎さんの見解こそ、ぼく自身、長い間胸につかえて吐き出せずにいた言葉そのものだったのだ。
今号では、フォーク・ゲリラに関する新事実も明らかとなった。それは、「新宿西口のフォーク集会に参加したプロ歌手はいなかった」という定説を真っ向から覆す証言である。五郎さんは、記事の最後を次のような驚くべき文章で締めくくっている。「ぼくは自分がプロかどうかということにはほとんどこだわっていなかったが、69年に新宿西口地下広場で新宿西口フォーク・ゲリラに参加して歌ったことがある」。これを読んで、ぼくの中でどうにも腑に落ちずモヤモヤしていた出来事が何となくすっきりとつながったような気がした。1970年2月、ほとんど敗戦処理といってもいい西口広場裁判の支援集会に高石事務所からただ一人五郎さんだけが参加し、歌で彼らを応援したこと。東京フォーク・ゲリラの実況録音ソノシート「新宿広場'69」に、ゲリラではなく五郎さん自身の歌声で「主婦のブルース」が収録されていたこと。もしかすると、1967年8月発行の「かわら版」に掲載されたという五郎さん作「Aちゃんのバラッド」も、あの「栄ちゃんのバラード」と何か関係があるのかもしれない。
そんなことを考えている中、ぼくは、テレビ(※)に偶然映し出されたフォーク・ゲリラの映像に、五郎さんとよく似た青年を見つけた。その青年は、大群衆で埋め尽くされた新宿西口地下広場、ハンドマイクを持つゴリさんの横で、背筋をピンと伸ばしてギターを弾きながら歌っていた。他人の空似かもしれない。しかし、顔立ちといい、下あごを少し前に突き出した特徴的な歌い方といい、ぼくには、この青年が五郎さんと大変よく似ているように思える。掲載した2枚の写真を見ていただきたい。皆さんはどう思われるだろうか。
※BS JAPAN「MUSIC TRAVEL」(11月19日放送)で、新宿西口地下広場でのフォーク集会の映像が30秒程使われた。