意図せざる航海、停泊 | AFTER THE GOLD RUSH

AFTER THE GOLD RUSH

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

マーク・ボランの45年目の命日となる9月16日、ティラノザウルス・レックスの「King Of The Rumbling Spires」を無性に大音量で聴きたくなり、新宿三丁目のupset the apple-cartまで足を延ばした。あいにく目当ての曲はリストに無かったが、それでも極私的フェイバリット・ナンバーである「By the Light of a Magical Moon」と「Cat Black」を聴きながら一人献杯し、ボランの冥福を静かに祈ることができた。ティラノザウルス・レックス期特有の、アコースティックギター弦に激しくピックを叩きつけてストロークするパーカッシブなサウンドは、ヘッドフォンではなく、周囲の空気をびりびり震わす大型のラウド・スピーカーで聴いてこそ真価が分かると信じてやまない。彼のギターを馬鹿にする者は、恐らくロックン・ロールの神髄を何一つ理解していない無機質な技巧至上主義者であろう。断言するが、マーク・ボランは、唯一無二のセンスを持った優れたギタリストでもあった。

同日、届いたばかりの七尾旅人の最新アルバム「Long Voyage」をiPodで聴きながら帰途についた。酔客が行き交う新宿の雑踏で、マスク姿の疲弊した男女が吊革に体を委ねる最終電車の車内で、旅人の歌は、まるで子守歌のように優しく、同時にレクイエムのように悲しく胸に響いた。新型コロナウイルス感染症が世界中で猛威をふるい、差別、貧困、弾圧、暗殺、そして戦争が日常となったディストピアのような現代(いま)を、旅人は凝視し、熟考し、素晴らしい歌(ソウル)として昇華させた。「Wonderful Life」で歌われる「屋上で 飛び降りようか 飛び降りまいか 迷っている男」は、まさにぼく自身であり、「濃厚接触はいやだけど 商売相手にもたれて歩く ひとりのおんな」はもしかするとあなたなのかもしれない。ぼくたちは皆、「意図せざる航海、停泊」を強いられたダイヤモンド・プリンセス号の乗客であり、徴兵を怖れ、ギルティシンドロームに苦しむウクライナ市民なのだ。

以前からその傾向はあったのだが、ロシアとウクライナの戦争が始まってからは、前にもまして書くことがしんどくなってきた。2月中旬から6月上旬まで、御茶ノ水の米沢嘉博記念図書館で4期にわたって開催された「樹村みのり展」のことも一文字も書けないまま半年以上が経ってしまった。樹村みのりさんは寡作な漫画家で、一般に広く知られているとは言い難いため、このような企画展が開催されること自体驚きであったが、幸福なことに会期中多くの方が足を運ばれたようだ。
ぼくは、2月26日に訪問し、「贈り物」「ジョニ・ミッチェルに会った夜の私的な夢」「海辺のカイン」などの魂のこもった原画に圧倒された。中でも「わたしたちの始まり」(作中、ピート・シーガーの「We Shall Overcome」が印象的に使われている)とその続編で、政治の季節とベトナム戦争の終焉を詩的に描いた「星に住む人びと」は、ぼくより十数歳年上のベビーブーマーの青春を瑞々しく活写した名作であり、今も自分のそばにあり続ける大切な作品。その原画を見ることが出来たのは、本当に幸運なことであったと思う。


この日、渋谷駅前では、ロシアのウクライナ侵攻に抗議する集会が開催されていた。ぼくは、何だかしごく後ろめたい気分になり、俯きながらそこを通り過ぎた。

七尾旅人の新作についてもう一つ書いておかなければならないことがある。それは、このCD2枚組の大作が、“アルバム”というフォーマットで聴かれるべくして作られた作品であるということだ。配信サービスによる楽曲単位でのリスニングが主流となった今、アルバムの復権を掲げることは、音楽で生計を立てるアーティストにとって非常に勇気のいる決断だと思う。大体、今この時代に、4千円もの金を払い、1時間以上腰を据えてひとりのミュージシャンの楽曲を聴き続ける酔狂者がどのくらいいるのであろうか。かような絶滅危惧種に向けて、もしくは、新たなリスナー獲得を目的に、楽曲単位の切り売りではなく、アルバムというフォーマットを選択するのは、ビジネスとして全く賢い判断とは言えない。しかし、旅人は、あえてその道を選んだ。それは、ひとえに彼が音楽屋ではなく音楽家であることの証しであろう。「意図せざる航海、停泊」を強いられているぼくは、その志と才能に嫉妬するとともに、微かな希望を見るのだ。