少し行くと 天満宮がありました。
↓説明板 / 巖邑(イワムラ)天満宮。
拝殿。
(↑注連縄が随分ゆるく下げられています。この地方のスタイルなのでしょうか?)
↓あちこちに 梅 の意匠。
少し進むと 古い道標がありました。
左なこや道 是より(?)なこや道 (別の所にあった物を並べて置いたようですね?)
更に進みます。
あ、ふくろう商店街の顔出しパネル。(前の項にも書きましたが ここはNHKの朝ドラ『半分青い』のふくろう商店街のロケ地、だそうー)
その隣_。タイルがレトロな感じ。なんとなく散髪屋さん っぽいような。
尚行きます。
あ、カステーラ屋さんに 『半分青い』のすずめちゃん。
↓又 ふくろう商店街の顔出し。
↓ここは「ふくろう商店街広場」ですって。
↓奥にトイレもあり、観光客には集合 休憩、 便利に使える場所のよう。
ああ、「ふくろう商店街」のモデルになったここの商店街の 本当の呼称は「岩村町本通り西町商店街」なんだねー。(ご当地検定に出そう^^)
ふたたび てくてく
(↑かん可ら餅、ですって 気になるな~)
あら? 城下町の通りのお約束「鉤の手(変形十字路)」かな? _ と思ったのですが 「下町升形」跡だそうです。(多分お城の桝形のライト版)
↓「下町升形(シモマチ マスガタ)」についての説明板。
辻の左手にお堂があります。
庚申堂 ですって。
↑お堂の入口上には祥雲と書かれた額。
↓縁側に説明板。「祥雲寺庚申堂の由来」
「抄/ 1614年 15歳で岩村藩藩主となった松平乗寿(ノリナガ)が この地に祥雲時を建立し、庚申堂、阿弥陀堂を併せ祀った。 盛厳寺(←藩主の菩提寺)の末寺となると1677年に (庚申講の本尊である)青面金剛像の本尊を丹羽氏の家中(←松平乗寿は1638年に遠州浜松藩へ移封となり、岩村には一色丹羽氏が入っている) によって寄進された。
長く庶民の寺としてあったが、
戦時で焼失した名古屋市の寺院から懇願されて「五間に四間」の本堂が移出され、現在は集会所の中に当時からの庚申様並びに阿弥陀様、七福神様、その後 恵比寿様が併せ祀られている。 何れ城下町の町並 歴史文化の保存の上から、本堂復元が課題となっている。」
え?これ「集会所」なんですか?
↓しかし隣の倉の前に 別の説明板が。
↑「庚申堂(祥雲寺)の由来
この場所は岩村城下町の下木戸(桝形)や領民に告知する高札場のあったところで元和年間(1615~22)藩主松平乗寿公が城下町守護のため、木戸脇に祥雲寺を建立した。江戸時代末期には寺内で「明け六つの鐘」を撞いて城下に時を知らせていた。この建物は、戦後の昭和23年に名古屋市内へ移築された祥雲寺庚申堂(礎石に嘉永5年(1852年)の銘あり)を西町一丁目組の総意により、平成13年12月に復元的に新築したものである。堂内には岩村藩家中寄進の青面金剛庚申様をあり、今も60日事に組内で講を行っている。また、毎年1月8日には、ここを社務所として初恵比寿まつりが盛大に行われている他、古い七福神、弘法様が祀られている。
西町一丁目組
(一社)恵那市観光協会岩村支部」
おお!よかったよかった。 / 設置されている説明板というものはちゃんと読んでみるものだなー!(お堂の縁側のと 倉の横のと 両方読まないと「よかったよかった」という気持ちにはなれなかったかもー^^)
お堂の山側(右手)には石仏や石の塔のような物が並んでいましたがー
これについての説明板もありました。
↓これは説明板の③「阿弥陀三尊文字塔」。/正面に「南無阿弥陀仏」、右面に「南無観世音菩薩」と彫られていますから 左面には「南無勢至観音菩薩」と彫られているのでしょう。(そうかー これで三尊 なんだー なるほどー。でした)
その手前には「高札場(コウサツバ)」がありました。
↓説明板。
(上に貼った「下町升形」の説明板によると この高札場は 升形内の土塁沿い にあった物を 平成元年 お堂境内に復元移設したもの、だそう。)
そうそう、ここにはもう一つ見るべき物が。
↓天正疎水、です。
岩村城下には1576年に作られたという疎水が 生活用水兼防火用水として 今も流れているんです。(この後も あちこちで見る事になりました) すごいなー。
さてでは 升形の木戸があった場所を抜けー
城下町の中でもお城に近い より古くからの町並み の方へ入っていきましょうー。
(尚、この升形までの下手を「西町」、上手を「本町」というそうなー)
つづく