大磯の高来(タカク)神社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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「新しい日常」を綴って参ります

湘南平・・・に上がれず高麗山(コマヤマ)公園 子供の森あたりを散策した~ 後は、高麗山の東の麓に建つ_

中郡大磯町(オオイソマチ)高麗(コマ/←地名)の高来(タカク)神社を訪ねてみました。 (高麗(コマ)も高来(タカク)も音読みすると 「コウライ」。もしかしてここは高麗(コウライ/←古代朝鮮半島にあった国名)と関係が? と関心を持ちまして)


車は 大磯町生涯学習館の駐車場へ置かせて頂いて 神社の方へ。



(しかし後でわかりましたが 高来神社にも駐車場があった上、この生涯学習館の裏から直接神社境内へ入れたのでしたー・・・)))

↓生涯学習館敷地入口。

↓ここから南へ下って 神社入口を目指します。


少し行って振り向くと 

高麗山(コマヤマ)が見えました。/ 左奥のピークの上に「高来神社 上宮造営所跡」があるそうですよ?

↓道なりに進むと_
お寺のお堂と見える建屋が現れました。

↑そして手前に「高来神社 P⇒」というプレート・・・。
で つい こちらからお参りしてしまったのですー。


ここが駐車場かあー。


境内地を進みます。

右手に社が見えてきました・・・


↑あそこが高来神社かな? と思ったのですが・・・
↓奥の石畳の参道の先の石段を上がる参拝者が見えたので_

そちらへ行ってみるとー

石段の 手前にも奥にも手を清める場所が・・・。

やはり お参り処には 正面から手順を踏んで伺うべきですね。


手水舎には金糸で「高来」と縫い取りされた布が付けられていました。真ん中には葵の紋。

こちらは 江戸時代には山頂に東照権現(=家康)を祀っていたといいます。神紋に葵の紋が用いられるようになったのは そうした繋がりから、でしょうか。

手水舎裏手には、

忠魂碑と 靖国之塔。


では拝殿の方へ。





↑虹梁の上には鶴と松。目出度げー^^)
↓奥の扁額の文字は消えていました・・・。(彩色の跡が見えます。華やかな装飾が入った扁額だったのかしら?)



↓本殿東に 

↓説明板。

(↓略縁起)/ 長いのですが面白い内容なので 次の項に改めて載せます_。⇒

(↓高麗寺領境内見取り図)

(↓これは手水舎あたりにあった境内の樹木名を知らせるプレートですが、建屋の案内にもなっているので 見比べやすいよう ここに貼ります。)

↑まず縁起を読み「高来神社が 明治に入るまでは 高麗寺(コウライジ)というかの行基がおこした神仏習合のお寺で 大磯に上がった千手観音菩薩を (それ以前から信仰されてきた高麗(コマ)権現の)本地仏として祀っていた」という事を知り、 「へー」。
で、その 観音様を祀っていた「旧観音堂」が 現在の「本殿」。 そしてその東(右手)の相殿は「兼 神輿殿」。又 鳥居の東の現・慶覚院(明治に廃寺となった高麗寺のかつての子院で 高麗寺にあった仏教関係の物を引き受け継承しているお寺)は「旧地蔵堂」との事。

説明板の東_相殿(アイドノ)。(兼 神輿殿という_/ 又、駐車場から見えていたのはこちらの社、だったわけですね・・・)

三つ巴の意匠があちこちに。



相殿の神が神功皇后、応神天皇なら この神紋(八幡様の神紋 三つ巴)も納得がいくー ようで 八幡神ならもう一柱神様が祀られていてもよいようなー?

さて境内の東側には他に 神明社(祭神・天照大神)-左、龍神社-右。


更に奥(というか 生涯学習館との境近く)へ行くと_

水が湧くスポットがありました。


神様に捧げる「御供水(ゴックスイ)」との事でした。

すぐそばに 生涯学習館の敷地への入口があったので 帰りはここを使わせてもらう事にー。


_でも それは又 後の事に。

引き返して 本殿と相殿の間を山側へ。


石段脇の社号標。

(↑読みにくいけど 多分「高来神社」でしょうね?)

正面の祠は・・・


「平嘉久社」ですって。(どんな神様が祀られているのかしら?)
↓祠の隣のMAP。

祠の前の道は高麗山(コマヤマ)への登山道で 右が女坂、左が男坂、だそう。

(↑女坂側に1m程の円柱が立っています 鳥居跡、のようですね?/ ←「高麗寺領境内見取り図」によると「二の鳥居」と呼ばれていたらしい。)
(↓男坂側。特にきつそうには見えませんけど・・・)

_ともあれ、どちらから上がっても、 上がった先は「大堂」と呼ばれる高麗山山頂で「高来神社 上宮」が建ち その中に(今は相殿に置かれている)神輿が安置されていた~ そうです。



さて、お参りの順番としてはあべこべですが、一号線側へ行って 鳥居を見ましょう。


↑本殿と相殿の間を抜けてー
↓相殿前の階段を下りると_

↓脇に「豊受姫大神」の祠がありました。


石畳の参道を下りていきます_。

脇に「力石(チカライシ)」。

あ、これは源平桃ね?


その先には~

茶道具が彫られた石灯篭が並んでいました。あ、「善導寺型灯籠」と呼ばれるタイプね?(福浦の醍醐院で見ましたっけねー)




更にその先_。

↑お祭りの旗や幟の支柱でしょうね?

鳥居が見えてきました。


今はこれが「二の鳥居」かな?

で、 も一つ南の 一号線に面して立つ のがー


↑一の鳥居かと。(昔の図では 観音堂南には 鳥居は一つしかありませんが)

しかしよく通る国道一号線脇に建つというのに・・・ この日までお訪ねした事がなかったなんてね~。でした。

あれこれ 面白うございました、高来神社。

この後は 旧・高麗寺の寺宝を引き継いだという かつての子院・慶覚院の方へ~。/ ちょっとだけ 続きます。





<はみだし的に...>
 ネットによるとー //  江戸時代に編纂された『新編相模風土記』には大磯の高麗(コマ)という地名の由来が 「古く当地辺りに高麗人(コマビト?)が住したとことにちなむ」 と記されているそうです。/ 又、高来神社の祭で歌われる木遣り歌に「高麗国守護 が渡来して、大磯浦の守護となった」という歌詞があり、やはり _社名は コウライからの移住者に由来するものかも~ とか。

 ところが一方_
高来(タカク)神社は 明治の神仏分離令で 高麗寺(コウライジ)と「分離」した折 一旦は「高麗神社」を名乗っていますが、明治30年に「高来神社」に改称しています。これは神社が元々は「相模国 大住郡 高来郷」にあったため、だそうです。(もしかして 高麗と高来が音読みにするとどちらも「コウライ」になるため 遠い昔に混同がおこっていた??? / 高麗神社を名乗って武蔵国の高麗(コマ)神社と エニシがあるかもと思われる事を避けようと??? )

 更にちょっとヨコミチにそれますが_
埼玉県日高市の高麗(コマ)神社は~ _ 朝鮮半島からの移住者を率いて武蔵国高麗郡(コマノコオリ)に入植した高句麗(コウクリ)王家の血を引く奈良時代の豪族 高麗若光(コマノジャッコウ)を祀る神社。(尚 宮司も代々高麗家が務めているそうなー)

 ですが、
大磯の高来神社の御祭神は_
神皇産霊尊(カミムスビノカミ)、天津彦穂邇々伎尊(アマツヒコホノニニギノミコト)。(更に応神天皇 神功皇后)_あくまでも古事記に載る日本の神様達、なんですね。 (もっともそれは 明治になって 神社で権現を祀る事ができなくなり、 神道系の御祭神を迎える必要があったから かもですが。)

 いたずらに 大陸と繋がりがあるのでは と考えるのも よくない のかなー? でも・・・? 

_よくわからないまま おしまい^^;)