高来(タカク)神社 (高麗寺(コウライジ)) 略縁起 (資料/写し) | (又)おだわらぐらし はじめました

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高来神社の本殿と相殿の間にあった説明板の 「略縁起」部分を写します。




(↑元サイズ画像)

「高来(タカク)神社 (高麗寺 (コウライジ)) 略縁起」

古代  大磯の東にそびえる高麗山(コマヤマ)は昔より神宿る山として住民から信仰されて来ました。
創始  神功皇后が三韓を討った後に、高麗山の上に神皇産霊神(カミムスビノカミ)・高麗大神和光(コマオオカミノワコウ)(高麗権現(コマゴンゲン))を遷し祀り天下の平和をお祈りされました。後に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)・応神天皇・神功皇后が併せ祀られました。この高麗権現は箱根神社並び伊豆山神社に遷祀(センシ)されております。
若光(ジャクコウ)渡来  天智(テンジ)七年(668)高句麗国が滅亡するや高句麗の王族若光は大磯の高麗(コマ)に渡来して大陸文化を伝えました。霊亀二年(716)大磯を始め 各地に渡来した高句麗人が若光を郡長として武蔵国(ムサシノクニ)高麗郡(コマグン)に移され開発を命ぜられました。
高麗寺(コウライジ)の創建  養老元年(717)僧行基(ギョウキ)がこの地を訪ね 大磯の照ヶ崎(テルガサキ)の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し本地佛と定められ高麗寺を創建されました。かくして神仏習合の聖地となり鶏足山(ケイソクザン)高麗寺を別当寺とし長く信仰されて来ました。
中世  鎌倉時代は幕府の厚い信仰を受け相模の大寺社に列せられ境内に二十四僧坊が置かれましたが。室町時代には高麗山は要害の地として重なる戦いの被害を受け白山社・毘沙門三重塔など多くの伽藍、寺宝が焼失されました。
江戸期  天正十九年(1591)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、寛永十一年(1634)東照権現(徳川家康)が勧請されました。そして天海僧正より寺十三条掟書(オキテショ)を授かりました。参勤交代の殿様もお駕籠から降りて高麗寺の大鳥居の前で深々とお辞儀をして毛槍を下げて寺領内を静かに通り、領民の土下座はなかったと伝えられます。
近代  明治の世となり神仏分離の制作により高麗寺は廃寺となり、明治三十年(1897)に高来神社と改称されました。現在旧観音本堂(下社)に遷座されています。千手観音菩薩を始めとする寺物は現慶覚院(ケイガクイン)に安置されました。高来神社は古来より高麗(コマ)、大磯の鎮守の神として地域住民の平和と安全を御守護されています。

祭神  神皇産霊神 瓊瓊杵尊 応神天皇 神功皇后



もういっちょおまけで 「高麗寺領境内見取り図」も元サイズでつけます。(天保三年(1831)の絵図からおこしたものとか)

(↑江戸時代には 真ん中のピークの高麗権現(+東照権現)、右の白山権現 左の毘沙門天を合わせて 「三社権現」と呼んだそうです。/ へー)