こんにちは。

日頃の思いと行いが人をつくりあげることについて書いて参ります。

以下の内容が書かれていますので、ご興味があれば拙記事ですがお読みください。

 

〇個人番号券の問題について改めて周知

〇抗議活動は決して、過激な社会活動ではない。人権を守る為には必要である。

〇世相の悪化、持つべき希望と厭うべき事

〇神は神にすすんで従うことを人に求めておられ、従うことが苦痛ではない状態が求められている

〇神の教えに素直に従い続けなければ、人の品性は容易に堕落してしまう

〇自分を変えるために

〇英断は早い方がいい

 

〇個人番号券の問題について改めて周知

世相の悪化については、弊ブログでも周知して参りましたが、改善の兆しは全く見えず、益々悪化している状況です。結士氏が獣になるな、義の道を行け | 唯一の真理である聖書に依拠して (ameblo.jp)の中で、河野太郎氏がマイナ保険証に関する質疑を紹介して下さっており、当方も遅ればせながらその動画を視聴し、その答弁の内容には改めて唖然とさせられました。その答弁とは時を別にした記者会見の様子も河野大臣記者会見(令和6年7月2日)【デジタル化横展開推進協議会総会/秋田県 秋田市及び由利本荘市の視察】 (youtube.com)で御覧になれますが、記者からの質問に関して、都合の悪いことは、厚労省にお尋ねください。の一点張りで答えにならない回答を繰り返すのみで、進行役の女性も「業務」といえど、肝心の質問に対して、打ち切りの姿勢であることが見受けられます。こうした言論統制や政府決定事項に同調することを強要する雰囲気が際立っているにも関わらず、実行している本人達にも悪気があるようには見えません。そして一般大衆はこの様子を見てどう思うのでしょうか。。英米等海外からの圧力により日本政府もなりふり構っていられない状態に追い詰められているのだと想像致します。太陽暦二千二十四年二月の記事ではありますが、【速報】マイナカードの取得完全義務化 岸田総理「現段階では難しい」 | TBS NEWS DIG (1ページ)の記事によれば、岸田首相が個人番号券(マイナンバーカード)の取得義務化について、「最高位の身分証として、厳格な本人確認のもとで交付する必要があり、カードに顔写真を表示するとともに対面での厳格な本人確認をするため、本人の申請によることとしていることから現段階では難しい」と答弁した、という内容が書かれています。ここでは現段階では難しいと答弁したとありますが、その答弁から察することができる内容は、「いずれ、マイナカードの取得完全義務化を実行しようとする考えがある」ということだと思います。実際に、紙の保険証の廃止は、太陽暦二千二十四年十二月に実行され(有効期限内であれば、紙の保険証は一年間のみ使用可能)、そして個人番号券と運転免許証の一体化も太陽暦二千二十四年度中に計画実行が予定されていることから、ゆくゆくは紙の運転免許証等の身分証が廃止される計画が水面下にあることは想像がつきます。現段階で個人番号券がなければ、日本人は全く生活が出来なくなるとまではいえませんが、各種売買や仕事上で何かと身分証の提示が求められる以上は、無ければ生活が不自由になることは間違いなく、ある程度普及した段階で義務化するのだと予想致します。政府はいずれ個人番号券が無ければ、生活出来ない制度をつくるはずです。例えば個人の信用得点制度と結びつける等です。そうすると個人番号券が無い人は自力で生活していくことが困難になり、周囲からも煙たがられる存在になると思います。ですから、今の内に個人番号券の危険性や問題点を知る必要があり、その問題点を知ったら、次にやるべきは、自身が個人番号券という欠陥制度への不服従の姿勢(個人番号券の返納や周知や抵抗の意志表示をする)を示す必要があります。世の中は、間違いなく多数派の意見が優先される構造になっている為、多くの人が偽善や微々たる経済利益になびかず、個人番号券を返納して政府が個人番号券を取得しないと不利益になると脅されても、国民の多くがその脅しに屈さなければ、計画は絵にかいた餅で終わるはずです。個人番号券の問題点については、マイナンバー制度は国民家畜化計画の始まり、そして今後のこと | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)や、日本人の問題点 四 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)の記事中段以降に書かれていますので、よくお読みになり、また周知されることをお勧め致します。問題自体を知らないまま、問題が大きくなってから初めて知る状態では、後に取返しがつかない、挽回しようがないことがあるということは、肌感覚としてもよく理解頂けるものと思いますので、問題を知ったら広く展開する必要性を感じているため申し上げております。個人番号券が、憲法で保障された思想、良心の自由や公益に反する事態が引き起こされるのなら、断固その制度に反対することが正しい姿勢だと思います。決められた事にただ従う姿勢がいかに悪い顛末となるのかは、キリスト道 (themedia.jp)で書かれているアイヒマンの例からも学ぶべきですし、過去の手痛い失敗を学んだら自らも同じ轍を踏まない様に勇気を出して、言葉にしていかなければいけません。

 

〇抗議活動は決して過激な社会活動ではなく、人権を守る為には必要な活動として考えられていた

SNSを見ていると、抗議活動は過激であり、またそれを理由として世の支配層に報復される恐れがあると感じている人もおられることに気付きます。ただ、抗議といっても非暴力の抗議(言葉のみを用いた抗議)であり、言論の自由が保障された現在においてなんら違法行為に該当するものではありません。むしろ今抗議をせず憲法改悪が実現すれば、政府に敵対する言論の取り締まりが強化され、民意を示す有効手段である抗議さえもできなくなってしまいます。日本人全体が言論統制の方向に舵を切られていることに危機感を抱いているべきですが、現状は自分事として不正を正そうとする大きな動きも見られず、両建て戦略による工作員による抗議活動を除けば、一部の活動家達が精力的に抗議活動をしていることが確認出来るだけなので、それだけ多くの日本人の目は娯楽や快楽が優先であり、正義への熱い思いを失ってしまっていると言えます。

 

 

古き時代。学生運動は目覚めていた人たちの運動かも。pic.twitter.com/bbuIH6jz99

— ひで2022真実を追求 (@hide_Q_) July 11, 2024

 

 

学生運動なんて馬鹿らしって思ってたけど、今は同じ日本人として誇らしく思う自分がいる。

彼らが今東京を日本を見て
どう思うだろうか?

pic.twitter.com/NOJ25R5Zt2

— りょう|無党派層が立ち上がれば (@ryo_sedori) July 12, 2024

 

ここで紹介されている動画を御覧頂ければ、今の日本人が失った気概や正義感を想起させられると思います。皆揃って学ラン(学ランのランはランダを意味し、ランダはオランダを意味している)を着用しているので、既にこの時に日本の欧米化は浸透してはいるものの、自発的に抗議を行う気概や正義感があったと言え、まだ人間らしさが残っていたと思います。時代が変わっても悪を見過ごしておけないという姿勢は、本来は人として素直な反応であると思います。現代においてかような自然な反応が極めて少なくなったことは、多くの人が善悪の判断を失っているか、または善を知りながらも行いとして示せない状態であるのではないかと思います。ミカエル氏が成功するためには | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)で述べているように、悪人に膝をつくならば同じ悪人になるという認識をし、悪人の仲間になりたくないのであれば、現在の法を盾に大勢で結束して悪人に抗議の声を上げるということが必要です。

 

〇世相の悪化、持つべき希望と厭うべき事

 

弊ブログでは悪事に対する団結しての抗議活動を推奨しているものの、現時点で、庶民が団結して世の悪事を止めようとする大きな動きに至らず、また、コロナ問題は収束するのではなく、報道機関はしつこく感染者数増加の脅威を煽り始めレプリコンワクチンの接種を推奨し、政治家達は以下ツイッターで経験した戦争が出来る国へと回帰しようと憲法改悪を諦めず必死にこだわり続け、

 

食糧問題についても、以下ツイッターに書かれているように意図的に引き起こされようとしています。

 

 

現状と聖書を正しく認識できれば、聖書の終末預言は実現すると理解するはずです。日本が悪化の一途を辿っている事を知れば、相変わらず芸能人やオリンピックやその他どうでもいいことばかりを報道するのはなんでなのかって疑問を持たない人はおかしいと思うべきです。聖書の終末預言に関する詳細は、聖書の終末預言 一 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)から続く連載を是非読んでみてください。現状と聖書を正しく認識出来れば、この世に対する希望は持とうとしても持つことは出来ないというのが人として素直な反応であり、主イエスの再臨と次の世で主イエスと共に暮らすことに希望をもつべきだと思います。主イエスの再臨と次の世で主イエスと共に暮らすことを望むなら、ヤコブが不信仰な者達、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友となる人はだれでも、神の敵になる。(ヤコブの手紙四章四節私訳)と伝えた通り、神が忌み嫌う世の友となることを避けなければなりません。世俗での生活が全てだと思い、悪い世が好転することを期待する一方で、それに資することは行わず、金銭取得や快楽にばかり目を向け実行して聖書からやるべきことを学ばない不信仰な状態では、誰もが結果的に世の友となって死後にその裁きを受けることになります。世の友となるのか、神に従うかは、二者択一であり、全ての人が決断しなければいけないことです。決断こそが最初の一歩であり、世相の悪化が如実に表れている今がその道に進む決断をする最後の機会ではないでしょうか。

 

〇神は神にすすんで従うことを人に求めておられ、従うことが苦痛ではない状態(品性の改善)を求められている

 

誰もが、神に従うか世の友となるかを選択しなければならないのですが、ヤコブの手紙四章十五節~十七節のように、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りは全て悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとっての罪です。という聖句は自分の心にあることではなく、神の御心に従う積極性を求めておられることがわかります。

そして人自身も、何かを命令されてやらされているという感覚を好むものではないです。本質的に、各人が神に従うか世の友となるか、どちらの人生を好んで生きたいと思うかなのだと思います。学校や会社で命令されたことを内心では嫌々やるといった状態は全ての人に経験があることだと思うので想像しやすいと思うのですが、神の律法を守らなければ、天の国にはいけないと知った時、ほとんどの人が、否定的な感情をもったり抵抗感を示して従うことを放棄するのではないかと予想します。神の国に入るには、このように否定的な感情を持ったり、また無理に守ろうとして辛いという状態に陥ることは避けなければなりません。なぜなら神の御品性は愛であり、その御品性を示したものが神の律法であり、人が同等の品性を身に付けることを厭う状態では、神の国に入るには相応しくないと言えるからです。聖書の記述では無理に従おうとしても、世の友になりたい気持ちが強い人物は、神が神の国に入るに相応しい人物と御認めになることはなく、結果的に人は信仰から離れることになる描写があるので、心から神の律法、戒め、御言葉を守っていることの大切さが分かります。

あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイ六章十九節~二十一節参照)と主イエスは仰っており、主イエスにやるべきことを訊きにきた金持ちの男に対しても、「行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と仰いました。その結果、その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マルコ十章二十一節~二十二節)と書かれているからです。

この青年の事例を読んでみると、神が仰せになったことが出来ないのであれば、神に従うに相応しくない人材だということがわかります。現に神の仰ったことが実現しており、多くの人は青年と同じように悲しむか、もしくはその事実を事実として直視せずにいつもと同じ日常の生活に戻り、従うことを諦めているのではないでしょうか。神からやるように言われたことが出来なかったり、辛いと思うのだとしたら、心がまだこの地上の生活に未練があることを示しています。不信仰でいるのか(青年のように一度信仰に入っても、この世の誘惑に負け信仰から離れる不信仰もある)か、神が求められる基準にまで到達するか、いずれの道を歩むか、神は人に自主的な選択を求められ、我々がその目に気付くことはなくても日々の決断と行動を御覧になっています。

 

〇神の教えに素直に従い続けなければ、人の品性は容易に堕落してしまう

人を設計し、御造りになった神こそが、人のことを誰よりもご存じであり、人が造り主の教えから逸れてしまうことで、人は神から離れて自由気ままに生きることを望み、「神などいない」と自分勝手に思い込み、自分の根拠のない考えの元に行動するようになるのです。聖書を知らなければ、その思いや行いが悪霊に惑わされた結果であるとは気付く術はなく、自らが愚かであると言う認識をも持つことは出来ません。詩編五十三編二節に愚か者は心に言う「神などいない」と。とダビデがうたった詩編で書いてある通りです。

それと、もし神を信じないのであれば、聖書が述べる悪霊といった霊的な存在も無いのだと思っていないとおかしいのですが、SNSやネットを見ていて思うのは悪魔崇拝の事例は各著名人が公にしているからか、そのことを信じている人達はある程度いる様子が窺えます。ただ表立って悪魔崇拝をしていないから自分は問題ないという認識には、神が人を御覧になり、不信仰者としての裁きを受ける認識が欠如しているので問題があり、自らの内面性野問題となると健全な危機感が欠如している人が多いです。それも悪霊の仕業かと思わされます。悪霊は人間が思うより非常に賢い(悪霊の賢さが分かる記事はデカポリスでの悪霊追い出し | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)で確認可能です)ので、神の律法に従っていなければ容易に打ち負かされてしまいます。

愚か者の原語のנָבָל(ナバル)は、単純に馬鹿という意味以外にも、意識を失った等の意味もあります。この原語の意味から、愚かな状態とは、本来持つべき正常な感覚を失ってしまった状態であるとも言えると思います。愚か者を示す名をもつנָבָל(ナバル)という男性が、ダビデの時代に生きており、彼の様子は、非常に裕福であり、頑固で行状が悪かった(サムエル記上二十五章二節~三節参照)と書かれておりますが、そのナバルに対して、ダビデは従者を通して祝福した上で、必要なものを与えてくれないか自らを遜り依頼しましたが、ナバルは「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。」(サムエル記二十五章十節)と従者に言い返し、神が御選びになったダビデの依頼を拒絶した様子が書かれており、その裕福さをもって他者に施すという観点を持つことはなく、自分の財産保有に固執するという行いを選択しました。一方で、ナバルの妻アビガイルは従者からその成り行きの報告を受けた後、事の深刻さを悟り、食糧をろばに積んで、ダビデに遭うやいなやひれ伏したと話したと聖書に書かれています。ナバルの言葉と行動とは対照的に、アビガイルは、神と神の掟を知り、聞き従う素直さがあり、人助けが先決だと考えた故に、「利他的な行い」が自然に出来たのだと思われます。このように同じ家庭環境にいる夫婦間でも、神を信じて素直に神の教えに従っているか否かで、人生の重要な局面において内にある思いと外に現れる行動に差が生まれます。アビガイルのように瞬時に自らの考えに固執することなく善い行いを選択できるか否かは、日頃の生活で何を考えて取り入れて、どのようにして多くの時間を過ごしているかにより、それを否定出来る人はいないのではないでしょうか良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。(マタイ七章十七節参照)善い人は、よいものを入れた倉からよいものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。(マタイ十二章三十五節)という聖句からも、日ごろから神の教えに従うか否かの行動こそが、その人の内面性を築き、重要な場面においても同様に行いの実として現れてくることが分かると思います。

再度申し上げておきたいことは、悪魔崇拝の事実や現代では世の中が益々悪化していることに、気づいて自分は正常な人間だと思っている人もおられると思いますが、品性改善の点を省みていない人が多いように見受けられます。悪政に団結して抗議したり政府の悪事を隣人に周知することも確かに大切なのですが、実際には世の支配層や権力者に悪政を行わしめる悪霊の存在を認識したり、悪霊に行動する最終許可を与えているのは神であられるという認識し、神が求められることを聖書から学び、自身の品性を改善していくことが大切なのではないかと思います。人々の大半が神に逆らう反キリストである(反キリストの要件については聖書を基に論証した反キリストについて | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)で復習されることをすすめます)為に、神が予め人々に伝えた通りに、不法(神の律法を守らないこと)が蔓延り、人々の品性は愛を失い堕落しており、それ故人々の思いと行動が反映される世相も悪化の一途を辿っており、その状況下で自身のふるまいがどうあるべきかを考えるべきと思うからです。

 

〇自分を変えるために

一.自分が従来やりたいと思ってきたことに、極力手をださず、心の伴った律法遵守に励む

 

多くの人が娯楽・快楽の類に気晴らしとして多くの時間を費やしていますが、それらに費やす時間を極力減らすことが大切だと思います。娯楽や快楽をたしなむうちに世俗のことで頭が一杯になり品性は堕落し、律法に反する罪を犯す可能性が高まるからです。人間は欲望を満たすことに余念がない生物であり、主イエスが、御自身の言葉を理解しない人達に対して、あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。(ヨハネ八章四十四節)と仰ったことは真理です。世俗に馴染む人の生活習慣のほぼ大半は仕事、娯楽、快楽で占め、この世での人生を楽しむ為に生きているので、このような状態では仮に神の律法の知識をもっていたとしても、本質的な律法の達成は不可能と思わされます。ファリサイ派と呼ばれる人達も律法について精通しているはずでしたが、その心は隣人愛にかけ、主イエスと敵対し、その品性は善い状態にあるとはいえませんでした。主イエスはファリサイ派や律法学者のことを宴席では上座、会堂では上席に座ることを好み、広場では挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。(マタイ二十三章六節~七節)と仰った通り、神から認められるよりも人から賞賛されることを好んでいた様子から、人から賞賛されたいという名誉欲を持っていた様子が窺いしれます。一方、現代のキリスト者の生活は、聖書研究、律法遵守が生活の中心であり、それを行う為に仕事をするというものです。神を第一に考えているので、自己満足の為に娯楽や快楽に時間を費やしたり、世俗のことで人から認められることで自己肯定感を高める必要がなくなります。最初は苦痛かもしれませんが、それが自然な状態となるように、日々神の御言葉の実践により、自分をかえていく努力は必要になります。また自分がかわらないといけない理由について、いつも初心を忘れないようにしなければいけないと思います。主イエスは、わたしが来たのは、正しい人を招く為ではなく、罪人を招いて悔い改めさせる為である。(ルカ五章三十二節参照)と仰ってくださいました。主イエスが願っておられることは、神が愛する人が真に悔い改めてその実を結ぶことであるので、その思いに応えられる人になることを目指すべきです。反対に神などいない、自分自身の考えや周囲の常識が正しいと高慢になっていれば、その思いを知ることも応える機会に恵まれることも無くなってしまいます(自らその有難い機会をどぶに捨てているともいえます)。我々は神をかたどって自分という人間を造ってくださった神の思いに応えて、自分の内面や生き方をかえ、そして伝道し、悔い改めの道を歩む人を探すことに力を注いでいくことが大切なのではないでしょうか。

 

二.相手の意図を常に考えて行動する習慣をつける

私自身もまだまだだなと思うところですが、人間は自分の気持ちを優先するよりも、相手の本音や気持ちを考える習慣が大切だと思います。キリスト者を目指すのであれば、日ごろから神のお考えを知って従う為に聖書を読み、聖書の理解を深め、自分の思いや願望を満たすよりも神の教えの実践を優先することが求められています。たとえ自らが聖書を読んで神の教えを実践していると思えたとしても、高慢にならず、慢心せず、自分の思いに依拠することなく、心に有る思いや行動が神の御心に叶っているのか、聖書によって判断する習慣が必要と思います。なぜなら、主イエスは狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。(マタイ七章十三節~十四節)と仰っており、命に通じる門である神の御言葉を理解・納得し、且つ実践し続ける人は非常に少ないという厳然たる事実を仰っているためです。また、わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、他の人が自分の名によってくれば、あなたたちは受け入れる。(ヨハネ五章四十三節)とも仰った通り、当時の多くの人々も聖書を研究して理解したつもりになりながらも、実のところ心は悪かったので神が仰った真意を汲み取れずに反発していたことも他人事には感じられません。分かったつもりになっているだけではないのか、神が仰ったことを心から受け入れ、確りと神の教えを実行しているだろうかとハッとさせられます。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。(マタイ二十三章二十六節参照)と主イエスが仰っているように、偽善や下心なく、相手に対して純粋な配慮を持っているのかを人に問われています。故に神の御考えの本質的な理解に至る為に、無自覚の自惚れを避け、日ごろから真剣に聖書研究したり、そのお考えが理解出来るように自身の品性の認識と向上が欠かせないと思うものです。

また、人間関係の構築においても、相手の本音や気持ちを考えるべく努めることは大切です。相手が期待していることは何かを知ることで、こちらが何が出来るか、するべきかを考え行うことが出来るからです。相手の気持ちや人となりが分からなければ、どのように接したり、対応するべきかが分かりません。そして相手の気持ちが分からなければ、近づきたいとは思えないものですし、反対に理解出来ることには親近感がわきます。また、相手の意図を知ることに努めて親切に接することは大切なるも、何でもやってあげることで他人の成長の芽をつまないように気を付け、また本心が見えない人(嘘をいう、甘言をいう、表面的に人を喜ばすことが上手い等)との付き合いは遠慮する等、人との接し方や付き合い方に配慮は必要と思います。パウロも悪いつきあいは、良い習慣を台無しにする(コリント一 十五節三十三節参照)といいこともいいました。サタンが暗躍するこの地では、光の使者を装う偽善者がおり、偽預言者に警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとい、あなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。(マタイ七章十五節)の通り、主イエスも警告なさっている通り、相手の意図を汲み、適切な対応が出来るように日頃から努めることは必須だと思う次第です。

 

三.日ごろの善い行いを途中で辞めず、継続する

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。(マタイ七章七節~八節)と主イエスは仰っている以上、その御言葉は真理です。従って神の御心を本当の意味で知る為には、聖書を読み、理解に努め、信仰を行いであらわす(神の律法、戒め、御言葉を守る)という自主的に善い行いを継続することしか人ができることはなく、その行為に対して(勿論不作為に対しても)神が報いて下さると言えます。継続するか否かは信仰にかける熱意(神への愛)と行いが重要であると自身は思います。一旦信仰生活に入って、その人の仕事は完成されたのではなく、主イエスは、あなたがたには苦難がある。(ヨハネ十六章)と仰っているように、その後の人生においても誘惑や試練を受け、葛藤を覚えながら信仰生活を送りながら完成形を目指していきます。信仰生活で熱意を持ち続けることが出来なければ、継続することが出来ずに不完全燃焼で終わり、仕事の成果物も不完全な状態だと思うのです。現代社会では多くの人が自分の為に生きていると言えますが、本来人の行いの原動力は、自分の為ではなく他者の為だと思います。情熱を傾けるという行動は、対象となる人や物事に対して熱心であり、真剣であるはずだからです。その情熱が一時だけの偽物か、永続する本物であったかどうかは、その行いを継続するか否かによってのみ明らかにされ、熱意を失った怠惰な僕とならない為には、聖書の言葉を日々実践していくしか他に道は開く手段はないと思います。以下の聖句が参考になります

だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、特には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。(ペトロの手紙 二 一章五節~八節)栄助氏の記事で心に言葉が根付くには | 真理は聖書にある (ameblo.jp)でこの聖句についてわかりやすく解説されていますので、読んでみてください。

 

〇英断は早い方がいい

 

先に述べたアビガイルのダビデに対する行動への決断が迅速であったことは、サムエル記上二十五章十八節・二十三節から、また、決断(不断ではなく英断)が迅速である必要性があったことは、サムエル記上二十五節三十四節のダビデの言葉から、繰り返されており強調されています。現代社会に生きる人達も、神の御心を行おうとする(信仰に入ろうとする)英断は早ければ早い程よく、そして実際に神の御心を行うことも早ければ早い程よいということを示しているように考えられます。行動の迅速さはその人の性質を裏付けるものでもあります。

また、終末の兆候と迫害の様子 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)では、ロトの躊躇がまずかった拙速の例が記載されております。

 

あなたの家族や身近な人が主イエスを信じないと嘆いても意味がありません。嘆くのではなく、あなたが神を信頼し、神の律法、掟、戒めを日頃から守って神の御心を行い、主イエスに祈るべきです。それ以外にすることはありません。神の御心ならば、今は信じない人たちも大艱難前に信じるようになるかもしれません。そのためにも私たち自身が揺るがない信仰を持たねば、その祈りが神に聞き入れられることはありませんし、神の御計画外でも同様です。しかし、ロトの真似をしてはいけません。彼は神から憐れみを受けて助けられましたが、彼の行動はアブラハムほどに素直ではなく、ためらっていました(創世記19:16)。ぐずぐずせずに、早く行動する方が良いでしょう。ロトのためらいがなければ、彼の妻が振り返ることもなかったかもしれません。

 

漁師だったペトロも兄弟のアンデレも、主イエスに「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われすぐに網を捨てて従ったと書いてあり、ヤコブとヨハネもすぐに、舟と父親を残してイエスに従ったとも書いてあります。

以上に述べたように十二使徒達やアビガイルの行動やロトの迷いから、聖書では聞き従うに早いことの大切さが聖書の各所でうたわれています。

 

記事の前半で世相の悪化について述べたように、自由な行動が出来るのはあとわずかかもしれません。そのため、信仰に入る英断と行動は早い方がよいということを最後に述べて終わりに致します。拙記事ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。