こんにちは。

当記事を訪問下さり、誠にありがとうございます。

今回は、「自己管理の重要性と阻害要因」について書きます。

聖書を読んで真理を知ることは、人(自分)の本質を知ることに繋がっていきます。

現在の生き方に課題を感じている場合には聖書を読み、残りの人生を聖書の教えに倣って生きていかれることを切にお勧め致します。

聖書を読めば、紀元前の古代イスラエル人(日本人の起源である可能性が非常に高い)の様子、主イエスの御功績や主イエスに関わった人々の言動、人類がなすべきこと、終末預言が説明されており、分かる方には架空の話ではない事がわかって人生観がかわります。ただ知って終わらすのでは意味はなく、聖書の教えと自分自身を比較して、自分を正しく認識したうえで改善するという努力も必要です。

残念ながら、現在の多くの人は、聖書を読まない状態にも関わらず真理を拒絶しており、現代人はそれだけ時間的な余裕や心のゆとりが持てなかったり、仕事や娯楽等、別のことに興味を持たされている環境下にいるという裏付けでもあります。時間的な余裕の無さや過酷な労働や人間関係により、心のゆとりを持ちにくい世相の上、嘘、偽りの教え、娯楽が蔓延る世の中故に、楽な考えへと流れてしまい、聖書の真理を見出すことが困難な世の中です(本来はネットで情報をとれるので、過去よりもその真理を見出すことは簡単といえる)。しかし、困難だからといって、聖書が伝える事実(パウロ書簡の一部を除く)を見て見ぬふりをしたり、一般的に普及されている偽りの聖書解釈に傾倒したところで、世が益々悪化する厳しい現実、及び自身の人生が好転することも改善することもありません。実際に、太陽暦二千二十年にコロナ犯罪が起こって以降、世相が好転したと思われることは何もなく、むしろ、増税、物価高をはじめ、その他、国民の意志を聞かない政治家達の偽善や悪政はますます増長しています。現在、太陽暦二千二十四年七月七日の都知事選を控え、都内では蓮舫氏や石丸氏に投票をお願いしますと叫ぶ宣伝車が走り回り、そんな東京都では以下のように、問題ばかりの太陽光パネルの住宅への設置義務化が始まろうとしています。

 

 

これまでの実績として見れば特定の施政者を頼ったところで、国民の生活が改善されたことはありませんし、税金も増え益々この先食べていけるかどうかは自己責任の考えが常態化しており、今までと同様、国民が施政者を野放しにしていれば、普通に生活することが困難になる一方でしょう。

むしろ施政者を含め内部関係者が犯罪を犯している事実を知り得ているのなら、組織健全化の為、社会適正化の為、人間を恐れず、自らの保身を考えず、躊躇せずに告発をするべきと書かれています。畏れるべき者 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

悪人を黙って見過ごすことは、組織内で後ろ指をさされたり、不当な処分を下されるのが怖いという保身の理由で、間接的に悪事に加担することになります。なので自身が持つ課題を認識し改善を図りながら、社会的な問題の周知は積極的にやるべきだと思います。するべきことは「聖書を正しく理解し、聖書の教えを守る」ということです。悪事を告発することも、上記の目的をもってやることで聖書の教えを守ることとは相反しないことです。悪事の告発に関して分からないことがあれば、是非ミカエル氏に質問してみてください。

ネットが普及した現在、世の悪事を知ることはそれほど難しいことではありませんが、世の悪事を知ったとて、聖書の教えを守ろうとはしない、したくないのは、欲や自我が邪魔をして世俗と調和を保とうとすることで、聖書の教えの実行を大変に難しくさせるからです。

人生でなすべきことは、聖書を正しく理解し、聖書の教えを守り、神の義を体現することです主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ六章三十三節)と仰いました。そのためには聖書の内容理解が大前提にあり、次に神の義の実践の大きな阻害要因であり、罪の原因となる自己愛を知り、自分を捨てて神の教えを守るという行いが出来るか(一発屋ではいけない)にかかっていると考えます。唯一の真理を説く聖書の教えは、自己愛の否定を説いており、最も重要な第一の掟は、心を尽くして精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること、第二に、隣人を自分のように愛すること(マタイ二十二章三十七節~三十九節参照)であり、神を愛するとは神の掟を守ること(ヨハネの手紙一 五章三節参照)であり、神の掟なる律法を守るにあたり、自己を愛することの優先順位は神を愛すること、次に隣人を愛する事に次ぎ、低いものと承知しています。従い、その道は決して平坦ではないと言えますが、歩むための手引きは、自我との戦い | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)に簡潔に書かれていますので、読んで理解されたら、実践し続けることをお勧め致します。生半可な気持ちで実践することは、途中で脱落する危険性もあり、お勧めしませんが、主イエスが律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている(マタイ二十二章四十節)、はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない(マタイ五章十八節)と仰せの通り、モーセの律法の内容そのものが神への愛と隣人愛を表すための掟であり、その掟の数々は、神が人類を御造りになって以降、廃れることなく現在も有効に存続し、人種・性別如何を問わず、守らなければいけないことは疑いようのないことだからです。反対に、未だ進化論というフリーメイソン人脈を持っていたダーウィンが提唱した猿から人間に進化したという嘘や、神に対する信仰には行いは不要であるという偽善的な大嘘を信じて疑わない状態であれば、その具体的根拠が何かを今一度、冷静になり、自分で調べたり、考えてみることを勧めます。「そう教えられてきたから、そう思う」という状態のままでは赤子と同じであり、権威主義者で、世の報道に嘘が多いことを知らず、自分で論理的に考えることはしないと自称しているようなものです。周囲が進化論を信じているから同じように信じるとか、多くの人が神の律法を知らないから守らないでもよいとか、神の律法を守ることは、現代人には出来るはずがないから守らないでもよいとすることは、本質的には他人の考えに人生を委ねているということになります。

主イエスは、わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。(ヨハネ八章四十六節~四十七節参照)と仰いました。聖書について積極的に知ろうとしなかったり、聞く耳を持たない、また神の教えに従わないということは、神の味方ではなく、この世の神であるサタンが支配する世俗に属する他人に委ねているということは疑いようのない事実です。ですから、まず、知らないことは知ろうとする、新しく知ったことが正しいのかを考えてみる、という謙虚な思いと行いが人として、そして個人の人権の大切さを知り守る為にも必要です。何人も他者に対する行動の強制は出来ませんが、各人が人としてあるべき思考、行いとして正しい方を選択するべきだと思います。

また、聖書やミカエル氏のブログを読んだら、聖書の教えと自身の乖離を理解し、乖離を埋めるために諦めずに行動に移していくことと、世相を悪化させている人達を敵として憎むのではなく、愛をもって接する(ただそ、なんでもかんでも許容することは愛ではない)ことが大切です。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け(マタイ七章五節)、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ五章四十四節)と主イエスが仰ったことを実践していく必要があるからです。

ただ、聖書の教えの実践について一人では難儀することもあります。途中でだらけてしまったり、自分自身の考えに固執したり(人は一般的にも年を重ねる程、頑固になりやすいと言われている)、あらゆる欲望に負けそうになったり、課題認識や解決を全て自分で行う必要があったり、また、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(ヨハネ十五章十二節参照)いう主イエスの掟を達成することも、困難になるおそれもあります。それ故、信仰において障壁となる問題の数々の解決の糸口となることを、先に記事を紹介したミカエル氏をはじめ、教会員の方々が記事を継続して書き上げ、そしてキリスト者と共に集うことを呼びかけています。

神のイスラエル教会 / お問い合わせ | キリスト道 (themedia.jp)

自身も聖書や各員の記事から、やるべきことを学び、自己の内面的な弱点を理解した上で直視し、罪を犯さぬように具体的な手段を講じて自己管理せねば、まず死ぬまで神の掟を守り通すということは成し遂げられないと強く感じているので、是非ともやる気のある方は聖書とその教会員の方の記事を繰り返してお読みになり、日々の生活に活かして頂くことを勧めます。

なぜここまで強く勧めるのかは、コヘレトの言葉十二章十三節にすべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れて、その戒めを守れ。」これこそ人間の全て。と書かれているように、聖書を知り、神の掟を守ることこそが人に与えられた本分であるということは、実際にその経験をした人にしか真にその意味を分かり得ないことで、単に当人の食わず嫌いで終わらせては非常に勿体ないし、また神の掟を守らないことで生じる影響は当人の問題だけではないと考えられるからです。食わず嫌いになるのは、目先の課題や短期的な快楽に傾倒しすぎであり、今の生活を手放したくないからで、その生き方が常識化しているので全ての人が罪人である、この世は仮住まい故に、神を畏れて神の戒めを守ることが幸いに至る道という認識を難しくさせるからです。しかし、人間と動物を明確に分けるものは、愛、理性、知性、善悪の判断があること、それらの備えられた要素によって各種の欲望や生き方を自身で自制したり改善できる点ということは、否定できない事実です。文字を読んだり、言葉を聞く等の手段で、人としてあるべき基準、人としてやってはいけないことを理解する知性や欲望を抑える理性を供えることが出来ている(実際は神から知性や理性を授かっている)からだと思います。実際に人間と動物では神から与えられた知恵、分別が異なることを示す例が聖書に書かれているので紹介します。

 

駝鳥は卵を地面に置き去りにし、砂の上で暖まるにまかせ、獣の足がこれを踏みつけ野の獣が踏みにじることも忘れている。その雛を自分のものではないかのようにあしらい、自分の産んだものが無に帰しても平然としている。神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。だが誇って駆ける時は、馬と乗りてを笑うほどだ。

(ヨブ記三十九章十四節~十八節参照)

 

上記の聖句が示すような、駝鳥の知性や身体能力についてはこちら(gentosha.jp)こちら (youtube.com)で確認可能です。駝鳥は自分の家族の顔を識別できないが、時速六十キロメートル以上で一時間以上も走ることが出来る身体能力(馬も競走馬となると最大速度では六十キロメートル程の時速のようですが、持久力が無い)を持っていると書かれています。その知性や身体能力は、ヨブ記が書かれた旧約時代から現在に至るまで、進化した様子はなく、聖書の記述が正しいことを裏付けています。

全ての動物が駝鳥のような知性や身体能力ではないものの、人が動物と一線を画すことは、自分の頭で考えることが出来る知性、ある種の行動への歯止めをかける理性の程度が全く異質であるという点は誰もが理解するところです。それは、万物の造り主である神が、お決めになったためです。また人も各人の能力が均一ではなく、異なるのも、神が各人を御覧になり、お決めになられているためです。しかし、各人の能力が異なるからといって、人が罪を犯してもよい理由とはなりません。神の律法に反する罪を犯さないことは、主イエスが、これからはもう罪をおかしてはならない。(ヨハネ八章十一節参照)と要請されたように、常に神を第一に考えて律法を守り続けていれば、品性が改善していき、神の律法を達成しうるということだからです。真理である御方が仰ることに嘘偽りはなく、人が絶対に達成不可なことを要請されるはずはありません。

達成不可のように思えるのは、罪を犯さぬように人が保持しているべき理性が、過酷な仕事、娯楽、世に蔓延る偽りの情報等、外部から様々な手段によってされ続けており、その攻撃に打ち負かされることで、短期的な快楽を得るための行動を好むようになるからだと思います。各種の誘惑に打ち負かされる者は、罪を犯す者は罪の奴隷である(ヨハネ八章三十四節参照)と主イエスは仰っているように、律法で規定された罪を犯す人生の方をより好み、やめることができません。自分は大丈夫等とは思わないことが大切です。過去の罪の記録は、今後の余生で行いを悔い改めていかない限りは残ると書かれています。罪を犯し続けて律法を守らず悔い改め未完のままでは、地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。(ヨハネの黙示録十三章八節参照)という預言の通り、「獣の刻印」が押印され、その名の通り、人間が獣と同等にまで堕落し回心不可になることを意味します。

神なる主イエスが人それぞれの歩みをお決めになっていますが、人として出来ることは、罪を犯す要因、自分の弱点を知り、現実逃避せず、どう改善するかを考えて実行することです。そこで具体的に罪を犯す大きな要因について、見ていこうと思います。

 

〇お金や異性関係に対する欲望に十分に注意する

 

皆、それぞれ世俗的なことで何に好みがあるかは夫々ですが、多くの人が金銭や異性関係におけることで人生に多くの時間を費やしています。

人が理性を失う要因としても、以下でも紹介されているように、金銭と異性関係が大きいと話されており、個人的な実体験からも同意するところです。

お金が絡むと人は理性を失う ショート (youtube.com)で投資金運用家が「理性を失う要因は金銭と異性関係が大きい」、「お金が絡むと冷静に行動がとれなくなる。お金というのはそのような性質を持っているということを知っておかないといけない。」「メンタル(精神)と練習というのは両輪なんです。」という点について述べており、投資活動による金銭受領は不労所得になる為、キリスト者を目指す人は行うべきではないものの、伝えている内容は真っ当です。また、こちら (toyokeizai.net)では、元外交官の佐藤優氏が、お金はいくら稼いでも満たされた感覚を得られないこと、人間の金銭欲には際限が無いこと、自然界にあるものには、ある程度得られれば満足するものだが、物々交換の手段として作りだされたお金にはそれがあてはまらず、自分が好きな交換対象を買えるが故に、あればあるほどいいと考えてしまうこと、ソ連では、陽暦千九百九十一年一月のある日に本日二十四時で五十ルーブル、百ルーブル紙幣が使えなくなるとアナウンサーが読み上げたこと等という趣旨が書かれており、金銭に関わる人の欲望の際限の無さと突如金銭価値がなくなったことについて触れられています。

金銭と異性に関する警告については、聖書にも度々書かれており、人があるべき道を踏み外す大きな原因であることを裏付けます。

 

はっきり言っておく。金持ちが神の国に入るのは非常に難しい。(マタイ十九章二十三節)

 

金銭欲は、諸悪の根です。(テモテへの手紙一 六章十節)

 

富んでいる者は草花のように滅び去る。(ヤコブの手紙一章十節参照)

 

愛する人たち、あなた方に勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのだから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(ペトロの手紙一 二章十一節)

 

不幸な者たちだ。彼らは「カインの道」をたどり、金儲けの為に、バラムが犯した過ちをたどり、「コラの反逆」によって滅んでしまう。(ユダの手紙 十一節参照)

 

全て世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからだ。(ヨハネの手紙一 二章十六節参照)

 

御覧の通り、主イエス、ヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダ、パウロが金銭欲や富については、非常に厳しい言葉で戒めていることがわかります。現実的にも金銭を多く持ったり、異性に没頭して何の違和感もない状態であれば、快楽や欲求を満たすことがその人の優先事項となり、神を畏れること等できない現実があることから、上記の聖句は真実であるということになります。

聖書の警告や、現代に生きる人々が理解しているように、金銭そのものが問題ではなく、金銭や夫婦関係にない異性という偶像を欲してしまう人間の際限ない欲望に問題の根源があるので、各種の欲望を持たない生活様式へと切り替えるべく準備していくことが、人が出来うることです。そのために極力世俗のことに関る時間を少なくすることが一つの解決策だと言えます。ただそれも相次ぐ増税、物価高、不当な社会的制約等から、仕事をある程度する必要もあり、達成に難儀する現状がありますので、キリスト者が苦しむ機会も増えています。それはこれからも変わらないどころか、増える一方でしょうから、その意味でもキリスト者同士が知恵を持ち寄り、励まし助け合う必要もあると強く感じます。

それと、佐藤優氏が、ロシアの事例でルーブル紙幣が使えなくなったという過去の歴史を説明されていますが、終末預言によれば、世界的に金銀が無価値になると神がお決めになっているので、現在各国が持つ通貨という、生活必需品との交換手段が無に帰すことは、一国の問題に留まることではありません。世界的な拝金主義、偶像崇拝に対する報いを神がお与えになるということです。

 

彼らは銀を外に投げ捨て、金は汚れたものとなる。

主の怒りの日には、銀も金も彼らを救うことが出来ないからだ。

銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず、腹を満たすこともできない。

かえって、それは彼らをつまずかせ罪を犯させた。

彼らは美しい飾りを驕り高ぶるために用い憎むべき忌まわしい偶像を作った。

(エゼキエル書七章十九節~二十節)

 

この聖句で言われる金銀とは、現代でいう紙幣であったり、その名の通り、金銀といった物質であったり、仮想通貨(または統一通貨の可能性もある)のことを意味していると思いますが、それらが人が高慢となる罪の要因となったことと、そして飢えの解決策にはならない終末がくることについて述べられています。まさに、聖書の通り、また佐藤氏が指摘する通り、現代に生きる多くの人は、「金銭」そのものを絶対的権威として看做して、あればあるほどいいという金銭欲を持って生きており、それらが将来的には無価値になるという認識がない人が多いと思います。また、多少の危機感を持ったとしても、周囲が普通に働き、給与をもらっている生活をしているのを見て安心してしまうこともあります。

しかし、それでも将来的に無価値になる金銭を稼ぐことに対して、必要以上に没頭したり、金銭を持つことで、自己満足したり、周囲を見下したり、偉そうにしたり、他人を服従させるための道具としようとすることをやめるべきです。勿論、生活の糧の為に働く必要はありますが、度を越した金銭は不要であり、それらを欲することもこの世を愛する原因となったり争いの種になるので不要であり、信仰を第一優先にするのならばやってはいけないことです。そのために、それらが終末時代には何の役にも立たなくなると預言されているのであり、お前の行いにしたがって裁き、忌まわしい全てのことをお前に報いる(エゼキエル書七章九節)と書かれている通り、過去の行いは記録され、過去の行いの数々に対しては、神からの報いがあるからです。やるなと言われたことをやっていたのなら、厳しい報いがあると覚悟してやり続けるか、それらの行いから身を引く準備を整えて行っていくかの二者択一です。金銭や世俗的な成功の達成に必要以上に夢中になる結果、外部に口に出さないまでも内心で誇り高ぶったり、偶像崇拝等の罪の原因になることは事実です。

偶像崇拝について、ミカエル氏がキリスト者の成長に必要なこと | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)で書かれていることを、改めて紹介致しますので、参考にされてください。

もっと冷静になり、自制せい。遊技に限らず、酒にしろ、煙草にしろ同じことです。度を超えて世のものに依存するなら、それは神の律法で禁じられてる「偶像崇拝」に当たるからや。

神の律法に違犯することの根本は、すべて自制でけへんことに直結してる。罪を憎まず、罪を愛してるから律法で禁じられた悪い行いをしたり律法に従わずに違犯するんやろ、偽使徒パウロの信者どもよ。罪に限らず、様々な悪い行いは自制でけへんことと関係してる。例えば、酒がやめられへんアルコール中毒者は、自制がでけへん故に他のことを犠牲にしてまでも酒を求め続ける。煙草がやめられへんニコチン中毒者は、自制がでけへん故に熱心に煙草を求め続ける。甘い物の飲食をやめられへん砂糖中毒者は、自制でけへん故に甘い物を食べ続け病気になる(過去に書いたとおり、精製白砂糖は有害であり薬物や)。賭博がやめられへんドーパミン快楽中毒者は、自制がでけへん故に借金してでも賭博し続ける。薬物もそうやけど、一度でも手を出したら歯止めがきかず、人生終了ってこともある。薬物以外であっても実質的に人生終了状態になってる人が多いさかい、これらには厳に注意すべきやで。何事も軽く考えるな。はまる危険性が分かってるのなら、最初から手を一切出すべきではないというこっちゃ。「君子危うきに近寄らず」や。

上記は偶像崇拝の定義について、よく理解いただけるものと思い、引用しております。

実際に死に際して、金銭や快楽、その他世俗の物事に囚われ続け偶像を好み、自分の人生を振り返った時に、幸せだった、人生に悔いは無いと言えるのか、そんな先のことを今考えても分からないとか、仕方ないとか、今さえよければいいと思って考えないようにしていないか、今一度考え直して、やらない方がよいと思うことは、控えるべきだと思います。悪魔は、人が好むものを知り尽くしている為、その誘惑に乗ることが、果たして幸せなのかということを再考頂き度思っています。目に見えないものは信じないと言う人は、手の施しようはありませんが、この世の評価基準では、「理性」や「身の程を弁える」といった要素が加味されることは少なく、あくまで「額面上の数字の大小」や「欲望の充足」といった考えが、他者との競争を間接的に促し、人の行動を支配する道具になっていることはサタンの悪しき思惑によるものと考えることはできるからです。ですから、そのような策略に気付いたら、過度に入れ込まないようにするべきです。人間が才知を尽くして苦労するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからということも分かった。これまた虚しく、風を追うようなことだ。(コヘレトの言葉四章四節)とも書いてあります。実際、金銭の他にも学校や進学、就職における偏差値とか、人事評価とか、利益目標とか、数字で管理され競争心が生まれる構造がありますね。これらが高いと人から評価され、待遇面で優遇されることを知ると、過剰な学歴信仰になったり、利益追求第一主義になり他人を慮ることが少なくなります。また、書店には世俗的な成功を目指すための本が多数並んでおり、射幸心を煽る本が売れることが分かりますが、購入する人もその誘惑に乗って、他人との比較の中で、自分自身の成功を夢見て購入するのだと思います。自身もそのような類の本を購入してしまい読んだこともありますが、正直今でも内容を覚えていて、身になったな、読んでよかったなあと後から思えた本はほとんど無かったと記憶しております。なぜなら、実際に人夫々置かれている環境やその人の性質は異なる故、万人に対して適用できる書物は、この世に聖書を除いて他に存在しないだろうからです。

主イエス御自身は、「わたしは自分の栄光は求めていない。」(ヨハネ八章五十節)と仰り、神なる御自身が金銭、名誉といった類の世俗の成功とは無縁な状態にあることを公に言い表して、それを死ぬまで体現なさいました。それも、神の義の為、人間を思っての行動である偉大な御功績にこそ着目して、人も主イエスを模範として生きていくべきです。主イエスの思想、行動とは反対に、この世で絶大な富を持つ者であり、悪魔崇拝者たちが、人知れずどのような悪事を計画して遂行してきたかは、先にも述べましたが、ミカエル氏のブログやキリスト道を最初から通読し事実を知ることで、気付けるはずです。聖書の終末預言 三 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)で、マタイによる福音書二十四章三十二節〜四十四節の聖句から、主イエスがいちじくの木の実の例を出して、終末時代の兆候を読み取るようにお教えになったことから、現在の世の状況に無頓着であるという状態ではいけないということも説明されています。そして彼らの悪事を知れば、富裕層と同じように拝金主義であることや、彼らと同じ風習に倣うことが、本当の神を忘れさせ、偶像崇拝者となり人の品性を堕落させる主因たることがよくわかるはずです。

 

画像引用元:聖書の終末預言 五 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)

 

富裕層の悪事までいかずとも、更に分かりやすい例を出せば、金銭絡みのトラブルが原因となって殺害事件に発展する等はよく耳にします。極端な例だと思うかもしれませんが、大げさな話ではなく、ミカエル氏の記事を引用したように、悪い行動の全ては自制できない、または足りないことに起因しており、人はいざという時、自分の身が危うくなったときには、我を忘れ理性を忘れ、悪事に手を染める性質を持ちます。主イエスが悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。(ヨハネ八章四十四節参照)と悪魔について形容された通り、人間も悪魔に唆されて犯した過去の罪を悔い改め、慎んでいなければ悪魔と共に地獄に行くことは免れないと思います。

主イエスをサタンがこの世の繁栄を手に入れさせることを交換条件にサタンにひれ伏すよう誘惑したように、金銭への執着はサタンの支配下にあることを意味しており、主イエスは神の戒めをもってその誘惑を退けましたが、一般的には金銭に対する誘惑は、人が食にありつけるか否かの問題でもある為、非常に強力だと思われ、多くの人が世の終末に至っても金銭への執着を捨てられないことがヨハネの黙示録九章二十節にも書かれています。

 

これらの災いにあっても殺されずに残った人は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで作った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、きくことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。

 

非常に苛烈な災いの内容がヨハネの黙示録九章に言及されており、ここではその災いの内容の記述は割愛させて頂きますので御自身で読んでみてください。その過酷な災いを受けてなお、人々が悔い改めることがないということは、既に獣の刻印が押印され、自らの生死に関わる為に罪深い行為を行わざるを得ないと考えてのことか、または、過剰な世俗への執着があり、自分を捨てられない為であろうと考えざるをえません。現時点では、この日本においては、神の律法を守り罪を犯さない生活を送ることで、逮捕、迫害されるなどの当人の生死に関わる問題は生じていないことから、多くの人はあなたがたは罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません(ヘブライ人への手紙十二章四節)の状況でもあると思われるので、罪の原因となる、金銭、世俗への執着をやめ、自分自身の欲望と行動とを自制し、他者への愛を示していくことに努めていくべきと思います。今から鍛錬しておかねば、迫害に際して自分の命を惜しんで、神を愛して律法を守ることを優先するというキリスト者たる行動は出来ないと思うからです。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ない内に。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらない内に。月や星の光が失せないうちに。雨の後にまた雲が戻ってこないうちに。(コヘレトの言葉十二章一節~二節)の通りで、本格的な苦しみの日々が到来していないまだ悔い改めの機会が残されている今、自身も神を見出すように努め、自己愛と戦い、祈り、日々の行いで示していくつもりです。

 

また、上記で紹介したエゼキエル書七章十九節~二十節聖句の注目するべき点は、金銭が罪を犯す原因となったことに加え、金銭をいくら保有していたとしても、飢えをしのぐことが出来ない時代が到来することです。この聖句は、金銀をいくら持とうともまともな食事にありつくことに労することと、アモス書八章十一節に書かれている、真の聖書福音と述べ伝えるキリスト者がこの地からいなくなることによって、聖書の正しい解釈を知ることが出来ない、主の言葉を聞く事ができぬ飢えと渇きの両方を指していると考えられます。

まともな食にありつくことが困難な時代の到来について、多くの人が危機意識が無いものと見受けられますが、日本の食糧自給率は先進国の中でも非常に低く、諸外国が日本の食を支配しているといって過言ではない状況です。【討論】壊滅に進む日本農業-危機の食糧安保[桜R5/9/8] (youtube.com)でも討論されているように、日本の穀物自給率は英米仏露支那の連合国常任理事国と比して壊滅的であり、日本が英米支配層の言いなりになってきた結果、食糧自給率を低くされ、また、多くの日本人が現在の平和な状況を当然かのごとく享受し、有事の際には立ち行かなくなる状態にさせられています。  

ミカエル氏の記事律法の食物規定について | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)は、旧約時代に定められた食物規定に関する律法の更新が主題なるも、政府により、不健全な食品が推進されている事実、昨今、不自然な畜舎の火災が起き、人工的な代替食の推進等で、まともな食品の価格が高騰して、健康的な食生活を送りづらくなっている意味で飢饉といえる事実がわかります。また、真氏の記事日本人に残された時間はあと僅か | 主イエスこそ真の道である。 (ameblo.jp)においても、申命記二十二節に規定された具体的な農作物の病害に触れ、既に麦の赤カビ病や、サトウキビの黒穂病に関する報道がなされており、神による契約違反の罰の可能性があると指摘されています。他にも梅やキャベツの取れ高の減少にも触れられていますので、是非ご覧ください。

尚、まともな食の飢饉に関連して気を付けるべきは、必要以上に食の品質に気を付けたり、備蓄にばかり気を囚われても、現代社会において完全に難ある食品を避けるのは困難であり有事の際には何が起こるかは人には予め分かり得ず、主イエスが仰った「すべて外から人の中に入るものは、人を汚すことがでけへんことをあんた方は理解してへん。」(マルコ七章十八節ミカエル氏訳/律法の食物規定より引用)や、神は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか。」と言われた(ルカ十二章二十一節)と書かれている通り、度を越した健康思考や備蓄思考になるのも考えものだと思います。人を汚すのは、あくまで人の中から出る悪い思いや性質であるためです。また、アモス書が伝える主の言葉を聞く事の出来ぬ飢えと渇きについて、現時点での状況とを比較して見てみれば、真の聖書福音を述べ伝えるキリスト者の数も、この先劇的に増えることは無く、聖書の内容に共感してキリスト者を助ける人もほとんどいないと思われるので、この預言も実現するであろうと理解します。ただ個人的には、主イエスの御招きによりミカエル氏や教会員の肩の呼びかけに共感され、ブログやSNSを通じて発信されている方が少数ながらいるのを拝見しているので、嬉しく思います。

一部の人は、世の危機が迫り一向に改善されない中、危機意識をもって行動しております。ノアの時代のように悔い改めを勧告され続けながら、何もしなかった報いを刈り取る羽目にならない為にも、神の罰と思われる事態が迫る中、なおも神の律法を守ることなど、知らぬ存ぜずといった態度があるべき姿かどうか、今一度再考抱くことをお勧め致します。勿論何人たりとも、信仰は強制は出来ないと弁えた上での提言です。

 

目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。だから、どのように受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところに行くか、あなたには決して分からない。(ヨハネの黙示録三章二節~三節)

 

この聖句からも分かるように、キリスト者は失われた羊たち(キリスト者)を探し勇気づけることと悔い改めることが勧告されており、そしていつ悔い改めが出来ない状態となるかは、当の人間には決して分からないというものです。キリスト者と迎え入れる人が弁える事 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)では、聖書の内容を元に、以下のように呼び掛けておられます。

真の聖書福音を実践すると共に伝道してください。世の終わりを目前にし、なおもこの世で贅沢したいとか、この世を楽しみたい等と愚かな事に時間や労力や金銭を使うのはやめなはれ。真のキリスト者は今一度主イエスの教えを見直して実践し、真のキリスト者を迎え入れる人はきちんと上述した内容を弁え、相応の対応をしてください。あんた方の一つ一つの言葉や行動が各自の永遠の運命を左右する。

ここで述べられている内容は、上記ヨハネの黙示録三章の内容や、ヨハネの手紙一 二章十五節~十六節にある世も世にあるものも愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にはありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。と聖書に書かれていることと一致しています。

聖書が書いてある主イエスや十二使徒達の教えを一つ一つをつぶさに実行していかない限り、どこかに漏れがある限りは真のキリスト信仰者にはなりえずいつの間にか脱落する羽目になるのだろうと思いますし、自分自身もその認識でおります。

故に、ただただ実直に聖書に書かれたことを実践し、またその実践する過程でつまずいても学びを得ながら、また信仰の兄弟と交流をはかりながら、改善に向けて努力するという行動が大切です。

 

〇この記事の最後に(この世は嘘で溢れており、人は実態として嘘を好みやすい)

本記事では、自己管理の重要性と主にそれを阻害する大きな要因として金銭欲について述べて参りましたが、金銭欲という欲望だけではなく、この世にある嘘や偽善を見分けて、自らがそれらから遠ざかり、馴染まないようにしなければいけません。でなければ、世に属することにもなりかねません。嘘を見極める目をもち、偽善になびかず、必死に聖書と照らし合わせて悪い自我を理解して本質的な面で改善されにくい点を改善する為にはどうするべきかという点に心血を注いでいく必要はあります。神の律法を守らなくても救われる、皆律法を守っていないから大丈夫、これまで苦労してきたから自分の好きなことをして生きても大丈夫等の嘘は、本当に偽善であり、それらの嘘に惑わされ安心するようでは、悪魔の思う壺です。

世が好転しないことは聖書が伝えている通りであるので、腐らず、この世に対する希望を見出さず、世の事に対して極力没頭せず、主イエスの教えに従うことを第一として生きていくしか道は無く、常に自己愛という最大の敵と戦い続ける必要があると実感しています。

なぜ好転しないのかは、多くの人が厳しい現実から逃避し、嘘を好み、悪に染まりやすいためです。余談ですが、DUCKDUCKGOで「この世は嘘ばかり」で検索してみました。すると池田清彦氏の「この世は嘘で出来ている」という著書が、検索上位に表示されまして、その少し下にこの世は嘘ばかり。 | キッカ。のブログ (ameblo.jp)が出てきたので、拝読したところ、記事の内容から察するに、執筆主は心理相談家(カウンセラー)のようでした。LGBT人権活動家は嘘付きばかりとか、相談家としての立派な経歴を並び立てていても、過去の実績を見れば綺麗に体裁を整えているだけで、「悩んでいる方の支えになりたい」と述べる等、実質的には心ない嘘つきばかりであることを指摘されていました。また、立派なことを銘打つ目的は、人助けというよりも金集めの目的であり、厚労省や法務省等の人脈を持ちながらも、提供する講座に人が集まらないと、事業縮小し、いつの間にか自然消滅してしまうということも書かれていました。以下にも記事の内容を一部引用致します。

 

もう本当にみんな嘘つきなんですよ。

他人の心に寄り添う連中が何やってるんだ?って話です。

だからもうさ、こうやって最終的に嘘を塗り重ねようとする人のアクションはすぐわかる。ブログとかツイッター読んでてもすぐわかる。

絶対あやふやな内容になって全部文章で出るからね、

そういう人って。

今の世の中はみんな物質的価値観が一番だと思い込んでる人が多い。

オリンピックだってそうだと思う。

自分たちがメリットになるものだったら平気で誇大させてまでアピールする。だから賢い人間になる必要が急務だなと自分でいつも言い聞かせ、

常に日々知識教養を詰め込んでお勉強です。

皆さんも嘘つきは気をつけてくださいね。

この方がお気づきのように、本心と建て前が異なる嘘つきは世の中非常に多いです。

以上のような話は、実際に会社で仕事をしていた方や、特に事業を自分で実行しようと思った方ならば、業種は異なれど、よく共感出来る話ではないかと思います。実際に多くの企業や人が顧客満足第一という理念を掲げるものの、本心は自社や自分の利益第一主義という点は疑いようがありません。特に現在の政治や大企業が重視して宣伝する事業に、二酸化炭素削減に関連する偽善的な事業があるので、長期的な視点で考えて人類を苦しめるための売国事業の為、そういった事業にも加わるべきではありません。

キリスト道 (themedia.jp)の後段に「偽感染症騒動の次は気候変動詐欺や」の説明頁がありますので、二酸化炭素及び温暖化関連の嘘について興味がある方は、改めてお読みいただければと思います。以前から、牛のげっぷにはメタンが含まれているので温暖化の原因であるというのは、言われてきましたが、昨今、水田耕作が、温暖化の原因だと言われているのも、農作物を減少させるための口実であることは明らかです。日本人に伝えたい「稲作が温暖化促進」の衝撃事実 CO2の25倍の温暖化効果があるメタンを排出 | 環境 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)で、水田耕作の温暖化原因は、田んぼの土中に生息する嫌気性細菌によるものだと紹介されているように、この世の支配層が計画する温暖化の嘘を捏造し、実行部隊である政府が大々的に喧伝し、多くの大手報道機関が嘘を伝達する媒体となり、それを盲信して事業に参画すれば、売国事業に加担することになります。また、DXやAI等がしきりに取り沙汰され、費用削減の為に余計な自動化を進めて人手による労働を削減するサービスが売筋商品となっており、これらに関連する事業にも関わるべきではないとも思います。反対に農業や畜産業等の基幹産業はきつい割りに買いたたかれて労賃が安く、徐々に淘汰されていき、食糧危機が作り出されていくという算段です。農業や畜産業を営む人達が苦しみ、存続の危機に瀕する中、今ごはんが食べれているから、将来もそれが保障されているわけでは決してありません。

重ね重ね申し上げますが、聖書はこの世にある、ありとあらゆる宗教とは一線を隔します。そして不信仰のままで居続ければ、間違いなく、その報いはイスラエル人の末裔が存在する日本に及びます。ですから、機を逸せぬ内に、耳有る方は聞いて頂きたいと思います。

カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)も改めてお読みになり、聖書とこの世の宗教が全く異なることも御理解頂ければ幸いです。

聖書に書いている内容、主イエスの教え以外の所謂宗教と呼ばれるもの(カトリック、正教会、プロテスタント、統一教会、摂理、エホバの証人、モルモン教、神道、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教、幸福の科学、創価学会等、その他すべて)は嘘です。それらは教祖と呼ばれる存在を作り出し、崇める対象が人間若しくは偶像であり、また、人間でなくとも人を組織して階層(役職)を設けて、そのピラミッドの頂点が最も儲ける仕組み等を作っています。要するに、人々を洗脳して人を集めて、金儲けの手段にしたり(金銭欲)、彼らの名誉欲、支配欲を満たそうとしているに過ぎないのです。そして、何より一番おかしいと思わなあかんのは、「この世の幸せ」を追求しとることです。生きている意味というのを考えたことがあるやろか。そして、その意味について真剣に考えたことがあるやろか。殆どの人は無いでしょう。今が楽しければそれでいい、金があればいい等、まったく莫迦げています。

中略

所謂宗教において、特定の人間や偶像(人間が造ったあらゆる像を指す)を崇めたり、いくら金銭を貢いでも絶対に幸せにはなりませんし、救われません。それらに向かって祈っても無意味どころか罪です。所詮、その崇められた人間も偶像も結局は滅びる運命にあるさかい、滅びの存在を崇めるというのは拙者からすれば、愚かとしか言いようがないねん。人間自体が永遠に存在せえへんのと同様、人間が造ったものに永遠というものは存在せず、この世すら永遠に存続するのではありません。なぜなら、被造物たる存在であるからです。被造物というのは神(創造主)から作られた物を意味し、永遠なる存在、即ち、「初めであり、終わりである」(黙示録二十一章六節、二十二章十三節拙訳)お方は神しか居てません。

拙文ながら、お読みいただきましてありがとうございました。