アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草 -10ページ目

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170105

 【晴】
「あのさあ、松の内までは正月だよな。3日間で終わっちまう訳じゃねえよな」

 工場の庭で遊んでいる時、三田の奴が急に言い出したので、「松の内が終わっても、まだ正月は終わってねえよ。今月いっぱいは正月だよ」と言うと、「そうだよな、正月が3日で終わっちまうなんて、もったいねえもんな。あ〃よかった。これで損した気がしなくなった」と、凄く嬉しそうに話した。

「本当の事を言うと俺もそう思ってたんさ。大晦日とか元旦はいいんだけど、段々正月が終わっていくようで、何だか淋しかったんだ」

 そう言って小野寺も三田に同意すると、「俺も」「俺も」と結局全員が同じ気持ちだった事が分かったのだ。

「だけどよ、正月ってのは日本だけじゃなかんべ。アメリカとかイギリスとか外人の国にも正月はあるんかな。やっぱり初詣に行ったり雑煮食ったりするんかな」

 仁田山の疑問は皆の疑問でもあったので、学校一の秀才で英語もペラペラの服部に聞いてみる事にした。

「あ〃、アメリカにも正月はあるよ。だけど日本みたいに仕事が休みになったり里帰りしたりなんかしないよ。家によっては普段より少しご馳走を食べてから、いつものように仕事に行くか、クリスマス休暇が残っている人は、旅行したり遊んだりしているよ」

「へえー、やっぱりあるんだ。だけど外国の正月って何だかつまんねえよな。だって外国には神社もねえし、お寺もねえんだろう。それじゃあ浄夜の鐘もねえし、初詣もねえじゃねえか。初日の出を見に暗い内から起きて山に登ったりもしねえんだろう。あ〃俺ぁ外人に生まれねえで本当によかった」

 そう言いながら両手を頭のうしろに組んで喜ぶ家住を見ながら、(あ〃、こいつバカだな)と顔に書いて、服部は笑った。

 私は物凄く頭が良くて、何でも知っている服部も大した者だとは思うけれど、少しぬけていても言う事が分かりやすい家住の方が、服部には悪いけれど数倍好きだった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170104

 【晴】《3日の続き》
 仲間内で一番バチさばきが上手と、自他共に認める大屋の奴が、よせばいいのに本格的な樽を教室に持ち込んで、先生に見付からないようにうまく隠してあると言うのだ。

 あんなデカいものを、いったいどうやって持ち込めたのか不思議だったが、実は前の日の夕方に何人かの手伝いを使って教室に忍び込んだのだそうだ。

 あの頃の学校は、夜になると宿直の先生が一人いるだけで、校内も校舎も鍵などかかってないから、入る気があれば自由に出入りが出来たのだ。

 今では全く考えられない事だろうが、学校という場所は、人が己の我欲のために犯してはならない聖域のひとつだったのではないだろうか。

 私達は大屋の勇気ある行動に、皆で最大限の賞賛を送った。

 その日の昼休み、私達は満を持して腕も折れんとばかり樽を打ち鳴らし、喉も破れんとばかり唄い、教室の中はおろか、廊下をうめて舞い踊った。

 これには他の組の連中もびっくり仰天して廊下に飛び出し、ぽかんと大口をあけて四組の方を見るだけであった。

 その様子を肌で感じた私達は、四組が勝ったのを確信すると、興奮のあまり頭のどこかが切れてしまったのか、「ウオーッ」と叫びながら樽を打つ音に合わせて床を踏み鳴らし、廊下を踊りまくった。

「コラーッ、何やってるんだ。その樽どこから持って来た。お前らいい加減にしないか。この馬鹿共が」

 顔を真っ赤にしながら階段を駆け上って来た石黒先生は、近くにいる奴の頭を手当たり次第に小突きながら教室に入って来ると、樽の前でバチを握っていた大屋の両耳掴んで、思い切り上に引っ張り上げた。

「大屋、この馬鹿が。やるに事をかいて樽を持ち込む奴がどこにいる」

 その日私達は職員室に連れて行かれると、嫌というほど叱られて、もう二度と校内で「八木節」をやらない事を誓わされ、外が暗くなる頃に、やっと解放されて帰路についた。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170103

 【晴】
 正月の行事で「八木節大会」があったあと、学校ではしばらくの間八木節ブームが続き、休み時間には教室毎に「チャンチャンチャンチャカチャン」と対抗意識丸出しの競演が繰り広げられた。

 いくら郷土を代表する民謡とはいっても、中には嫌いな奴だっていたろうから、そういう連中には迷惑な事だったろう。

 特に昼休みには校舎が揺れ動く程の大騒ぎだったから、女子のほとんどは、私達を気違い集団のような目で見ていた。

 私達の四組には飛び抜けた名人という奴はいなかったが、チームワークだけは他の組に負けなかったので、太鼓の方は相当なものだった。

 教室では太鼓の代りに机を手の平で叩いて調子をとったから、どこかの組が始まると、待ってましたとばかりに他の組が次々と参加して、本当に校舎全体がドンドコドンドコと反響するのだ。

「お前ら何やってるんだ。毎日毎日気が狂ったみたいにバカバカ机引っ叩いて八木節みたいな真似して。いい加減にしないとお前ら廊下に立たせるぞ」

 石黒先生がこめかみに青筋を立てて飛んで来た。

 もう何度も先生に怒鳴られているのだが、一向に言う事を聞かないので、いつか大変な目に会うかもしれないという予感はしていたが、今のところはまだその心配はないようであった。

 ところが、ある日の出来事が事情を一変させ、それ以降私達は学校で「八木節」を出来なくなった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170102

 【晴】
 小学校4年生の元旦は、弟と共に雑煮を食べ過ぎて、登校する事が出来なかった。

 みかんとお菓子は桜木のより子ちゃんが届けてくれたが、なぜ休んだと聞かれても、本当の事は言えないし、言えば皆の笑い者になるだけだったので、少し風邪気味だと嘘をついた。

「それじゃあ明日の新年会は出て来られないね」

 より子ちゃんは意地悪そうな薄笑いを浮かべて、上目使いで私を見ながら言った。

「明日はもう大丈夫だよ。絶対行くから」と私は慌てて答え、内心しまったと舌打ちしたが、もう間に合わない。

「へえー、ずいぶん都合の良い風邪だね」

 より子ちゃんは私の嘘をその場で見抜いていたのだ。

 二日は緑町子供会の新年会で、餅入り茹であずきの大きな鍋が出され、食べ放題の大盤振舞だったから、よほどの事がない限り欠席など出来るはずがない。

 その日朝飯は何も食わず、いつもの奴らと一緒に会場へ駆け付けると、町内の役員の人達や宮司の桜木先生の話が早く終わるように一心に祈りながら時を待った。

 長ったらしい話が終わり、いよいよ新年会が始まると、皆は先を争って鍋のまわりに群がり、係のオバさんが渡してくれるお椀を受け取った。

 最初の一杯は夢中で掻き込み、おかわりを貰いに鍋の前に並ぶ。

 二杯目も最初と同じ位の速さで食べ、三杯目あたりからやっと人心地ついて、皆ゆっくりと箸を運んだ。

 四杯目になると、さすがに食傷気味になり、全員惰性で口を動かすだけになる。

 そして最後は、もう二度と茹であずきは食べないぞと心に誓いながら会場をあとにした。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170101

 【晴】
 前の日の大晦日で少し遅くまで起きていたのに、元旦はいつもより早目に起きなければならなかった。

 年始客がたて込む前に、子供は食事を済ませておかなければならないからだ。

 普段は昼食を除き、大抵家族全員が揃って食事を摂るのだが、元旦はなかなかそういう訳にはいかず、皆めいめいに食卓につき、おせち料理と雑煮を味わったあと、私達は学校に登校した。

 あの頃の元旦は登校日になっていて、全員が講堂で校長の年頭の挨拶を聞いた後に教室へ戻り、休み中の近況を確かめ合い、最後にみかん一個と紅白のお菓子を貰って帰宅した。

 家に戻ると、私達は期待に胸をふくらませて、親や大人達からのお年玉を受け取り、勇んで近所の仲間がたまっている場所に急いだ。

 お互いのお年玉を見せびらかし合うためだったが、時には信じられない金額を見せつけられて、シュンとした事もあった。

 正月の遊びは歌に歌われた通り、コマ廻し、タコあげ、羽根つき、そしてカルタとりに福笑いが中心だった。

 あの頃は大晦日の夜に、正月の晴れ着と下着靴下まで新調してもらい、次の朝起きぬけに着るのが楽しみで、子供ながら身も心も引き締まる気がした。

 正月の晴れ着はその年の前半のよそ行きとなり、新しい服の感触を楽しめるのは三が日までだったと思う。

 あとは普段着に着替えさせられ、何となく拍子抜けがしたものだった。

 それでも正月は元旦に始まり、三が日、松の内、小正月、どんど焼き、鏡開きと、途切れながら一月いっぱい続いた。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161231

 【雪】
 大晦日は朝から夜遅くまで、絶え間なく人が出入りしていた。

 そのほとんどは年末の勘定取りの人達で、支払いの大半は盆の前と大晦日の年2回だったから、細かい所は近所の魚屋や八百屋など、大きい所は石炭屋や染料屋さんなどの原料屋さんだったと記憶している。

 そば屋うなぎ屋などの食べ物は、その頃から毎日勘定になっていたのだろうか、支払い金額も大した事はなかった。

 父や兄は朝早くから取引先への集金に出掛けて行き、午前中に1~2回、午後に数回集金のお金を届けては、また出掛けて行くのだった。

 集金先は市内だけでなく、佐野市や太田市、そして小泉町と、結構広範囲なのだ。

 兄の運転するオート三輪の助手席に父が乗って遠出をするのに合わせて、集金を任せられた何人かの職人さんも、手分けして市内の集金先を走り廻っては帰って来る。

 母は工場のギリ場に面した板の間に陣取って、次々に訪れる勘定取りの人への支払いを一手に引き受けていた。

 はっきりと数えた訳ではないけれど、年2回の節季勘定と月勘定、そして年1回の漬物用の白菜や大根などの特別な買物の支払いなどを合わせると、おそらく50人以上の人達が入れ代り立ち代り出入りするのだから、それは賑やかなものだった。

 ギリ場のダルマストーブで沸かす湯だけでは、来る人達に出すお茶が間に合わないので、工場の台所では休みなしに湯を沸かしていた。
酒はこもが置かれて飲みたい人は手酌で飲み、上り框に置かれた煮物や漬物に手を伸ばし、多い時には15~16人の人達がギリ場にたまってワイワイガヤガヤとやっているのだ。

 母屋は祖母が陣取って客の応待をしていたが、大抵は泊り掛けの親戚が何人かいるので、何とか手は足りていた。

 そんな状態で大晦日の夜は深けて行き、やがて浄夜の鐘がいんいんと深夜の闇に広がって行くのだ。

 テレビも携帯もゲームもない時代の話である。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161230

 【晴】
 暮の大掃除は工場と母屋の両方を、二日掛けて片付けるのが毎年の事だったが、実際にはその数日前から、手の空いた者が少しづつ気が付いた所に手を入れておかなければ、とても二日間では終わらなかったのを憶えている。

 工場の方は職人さん達が中心になって要領良く掃除していき、母屋は前の日に早朝から手伝いの人達も来て、まるでお祭りのような騒ぎだった。

 特別に大きな家でもないのだが、あの頃の大掃除は、とにかく大変な大仕事だったのだ。

 まず家中の畳を上げて天日に干し、ススを払ったあとの木部は、柱だけでなく天井も乾拭きするのだ。

 障子は全部外して川に持って行き、しばらく水につけてから紙を剥すのだが、これは私達子供の役目だった。

 紙を剥して、少しノリの残った所はタワシできれいに落とし、乾いた布で水気をぬぐったあと乾燥させ、新しい障子紙を張るのだ。

 古いフスマを剥し、新しい柄のフスマ紙を張り替えるのを見ていると、まるで魔法のようだった。

 そんな手間ひまを掛ける大掃除だから、本当に大変だった。

 お昼は大抵がおにぎりかうどん、それも山盛りで出されたので何だか気分が浮き浮きして楽しかった。

 大掃除に合わせて畳が張り替えられる事もあったが、私は新しい畳の匂いがあまり好きではなかったから、それがない年はホッとした。

 古いながらもピカピカに磨かれた家の中には、新年を迎えるピンとした空気が張り詰めて、匂いまでが新鮮だった。http://www.atelierhakubi.com/