アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草 -11ページ目

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161229

 【雨のち雪】《28日の続き》
 みんな何となく気抜けしたような感じで帰路についたが、歩きながら誰からともなく、「あのさあ、ここにいる奴らの家でさあ、戦争に全然関係のねえ家ってあるのかなあ」という話になった。

 考えてみると我が家でも私の一番上の兄が、船舶工兵として戦いの日々を過ごし、最後には広島で、あの惨状を体験している。

 そして勇三叔父さんは憲兵として満州で戦い、金四郎叔父さんはシベリアに抑留され、亀六叔父さんは台湾で戦病死した。

 父も終戦直前に召集されたが、内地を一歩も出ずに帰って来た。

 同居以外の親族まで辿ると、文字通り枚挙のいとまがない。

 隣近所の大抵の家が我が家と似たり寄ったりだったし、二人以上の戦死者がいる家も珍しくなかった。

「うちは父ちゃんが戦争に行ったけど帰って来た。でも、父ちゃんの弟は特攻隊で死んだ」

「俺んちは父ちゃんが戦車隊だった」

「清水の彰子の父ちゃんは狙撃兵で何度も撃たれたらしいぞ」

 結局、戦争に無関係の家は一軒もなかった。

 私達は戦争とは無縁の世代のつもりでいたが、そんな話をしている内に、どうもそうではないような気がした。

「やっぱりよお、民主主義だよな。戦争より平和だよな。俺大人になった時に戦争に行きたくねえもんな」

「でもよお、俺達が大人になる頃には、またでかい戦争が起って、今度は俺達が戦争に行くかもしれねえって、この間家に来た人が、父ちゃん達とお茶飲みながら話してたけど」

「やだな、そうなったら。俺やだな、戦争なんかで死にたくねえよ」

「そおだよな、俺もやだな」

 校庭を出るまでの間に、どうやら皆の意見がひとつに結まり、どうやら今回の討論の決着がついた。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161228

 【晴】《27日の続き》
 山本と宮内の口論は周囲も巻き込んで、その後数日間続いたが、このままでは埒があかないので、最終的には先生に訳を話して、どちらが正しいのか結めてもらおうという事になり、私達は放課後職員室に行った。

 担任の川島先生の机のまわりに立った私達は代る代る事情と説明をすると、川島先生だけでなく、周囲の先生達も集まって来て話を聞いてくれた。

 私達が話し終わり、「先生どっちが正しいのか教えて下さい」と言うと、先生は「ウーンこりゃまたえらく難しい話を持ち込んで来たもんだね」と頭を抱えながらも、少し嬉しそうだった。

 川島先生をはじめ、何人かの先生方が質問に答えてくれたが、その中には実際に戦争に行っていた先生も少なくなかった。

「確かに民主主義や自由主義は決して完璧ではないし、多くの問題点を持っているのも確かだろうな。しかし、これだけははっきりしている事がある。それは今の日本と世界の平和は、日本だけでも四百万人以上、世界中では数千万人という人の尊い犠牲の上に礎かれたものだから、この平和だけは、死んで行った人達のためにも、絶対に守っていかなければならないのだから、もう二度と戦争はしないという強い信念を守り育てる事が何より大切だという事だ。時代が変わって、世の中が少し狂い始めて来ているのも事実だろうが、戦後の良識ある国々は、大抵は自由平等を掲げた民主国家をめざしている以上、日本もそれにならって進む以外に道はないのだと思う。軍国主義や独裁主義に陥った事の深い反省と、戦後の新しい国作りへの堅い決意を、亡くなった多くの人達へ捧げる事が、生き残った人のつとめかもしれないな」

 先生方の助言は、大体こんな内容だった。

「でもな、こういう問題を話し合う事は、とても大切な事なんだぞ。お前達はえらい。いつも悪さばかりしているだけじゃないって事が分かって、先生も嬉しいよ」

 私達は思っていた以上に話が大きくなってしまい、何だかうしろめたい気持ちで職員室を出た。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161227

 【晴】《26日の続き》
 事の起りは4時間目の授業の時に、「最近の日本は以前に較べて相当に乱れて来ている。犯罪も増えて来ているばかりではなく、普通の人達も昔のような礼儀を失っている人が多いのは残念だ」と先生が話したのを聞いて、山本が「それは民主主義のせいだ」と宮内に話したところから始まったのだそうだ。

 山本も宮内も言っている事は全部大人の受け売りだし、だからこそ自分の意見を否定されると、よけいムキになってしまうのだろう。

 近所に来る焼きそば屋のおじさんなんか、「日本はあの時無条件降伏なんかしなきゃ良かったんだ。アメ公の野郎が上陸して来たって、武器がなきゃあ、その辺の薪だっぽ持って頭叩き割るか、かまことねえからマサカリでどてっ腹かっつぁばいてやりゃいいんだ。一人がオメエ一人のアメ公をぶっ殺せば、あんな畜生奴らが何百万上陸して来たって、どうって事ありゃしなかったんだ。それがオメエ、こちとらが戦地で死ぬか生きるかって戦争をやっている時に、降伏なんかしちまいやがってよ。だから今の日本がこんなになっちまったんだ馬鹿畜生め」と、いつもこんな調子で私達に喋りまくっていた。

 私達はそれが妙に面白くて、そのおじさんが来ると、皆おじさんに議論を吹っ掛けたものだった。

「日本も早く再軍備しなきゃ仕様がねえっていうのに、政府の馬鹿奴らいったい何考えてんだ全く」

「でもおじさん、戦争はもう二度としてはいけないって先生が言ってたよ」

「こっちがしたくなくったって向こうが仕掛けて来れば、戦わねえ訳にはいかねえだろうが。それとも黙ってやられっぱなしでいろっていうんかよ」

「そうならないように努力するのが、平和国家の務めなんだって学校で教わったけど、ちがうの?」

「べらぼうめ、そんな甘っちょろい事ほざいてるから見ろ、今の日本はなめられっぱなしじゃねえか」

 という感じで、おじさんと子供達の会話が続くのだ。

 昭和20年代は、まさに前時代と新しい時代が交叉する、混沌の時代だったのかもしれない。

 旧軍服を普段着にしている人達が、まだ沢山いた時代の師走は今よりもずっと寒かったが、今よりもずっと師走らしかった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161226

 【晴】
「ちがうもん、日本が戦争に負けて民主主義になったから駄目なんだって父ちゃんが言ったもん」

 山本が口を尖らせて宮内に食って掛かっていた。

「そんな事ねえよ、日本は今は自由になったから、みんな思った事が言えるんじゃねえか。戦争中は自由なんてなかったんだぞ。それがなんで民主主義が悪いんだよ」

 宮内も負けてはいない。

「自由自由って、何でも自由だからって良いもんじゃねえぞ。世の中にはきまりってもんがあるんだから、きまりも守らねえでみんなが好き勝手な事やってたんじゃ、何にもまとまらねえって父ちゃんが言ってたぞ」

「誰が好き勝手が自由だって言ったよ。それはただの自分勝手じゃねえか。おめえの父ちゃんは自由と自分勝手の区別もつかねえんかよ」

「ヘン、そんな事知ってるね。だけど何でもかんでもアメリカの真似してると、今に日本は駄目になるってみんな言ってるもん」

「みんなって誰だよ」

「近所の人達みんな言ってるし、うちのおばあちゃんだってそう言ってるもん」

「何だ、たったそれだけじゃねえか。おめえ、今いっぱいいるって言ったじゃねえかよ」

「うるせえ、テメ馬鹿。テメなんか死んじまえ」

 山本は涙声になって宮内に食って掛かると、やがて顔が真っ赤になり、うわーっと泣き出した。

 これが出ると次は手がつかない程暴れ回るので、この議論は中断して山本から逃げた。

「いったい何の話してたんだよ。宮内おめえ少し理屈っぽいから駄目なんだよ」

「そうじゃねえって、何も俺が先に言い出した訳じゃねえし、向こうが先に吹っ掛けて来たから、俺は思ってる事を正直に言っただけだよ」

 12月は太平洋戦争が始まった月で、山本の父ちゃんにとっては特別の月なのを、私だけでなく皆知っていたのだ。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161225

 【晴】《24日の続き》
 聞くとはなしにお姉さんの話を聞いていると、そばで兄の充夫がチャリを入れてふざけている。

 話の様子では、電話の相手と一緒にどこかに出掛けるための打ち合わせなのか、何となく浮き立つ気持ちが、私にも伝わって来た。

「ハイまいど…」

 外に止った自転車から、白い割烹着に白い帽子の柾木屋の人が、大きなおかもちを持って降りて来た。

「こっちじゃなく母屋の方にお願いしたいんだけど…」
母は出前の人に声を掛けながら土間に降りると、自分も手伝って母屋の方へ歩いて行った。

 今日はお客もいないのに、なぜ柾木屋が出前に来たのか、私は不思議に思ったが、自分には関わりのない事だろうと決めつけて、ストーブに当りながらお姉さんの話に耳を寄せていた。

 すると兄が私を突付いて目配せをする。

 私は何の事か分からずにポカンとしていると、兄は再び私を突付き袖を引っ張って外に連れ出すのだった。

 私はまだ事の次第が飲み込めずにいると、兄がそっと耳打ちした。

「今夜はクリスマスのごちそうだぞ」

 それでも私にはまだ事情が飲み込めずにいたが、今度は直ぐ上の姉が母屋からやって来て、闇の中から手招きをしている。
(何だろうな今夜は)

 私は少し薄気味悪くなったが、とにかく兄達と共に母屋に向かった。

 着いてみると、玄関奥のコタツの上に、鳥のモモ焼きやお寿司、果物と見た事もない大きなケーキなどが、文字通り山のように並んでいた。

 私はまるで映画の場面の中に入り込んでしまったかのような、信じられない気持ちでいっぱいになった。

「何、どしたの、今日は何の日?」

 私は誰に言うとなく大声で叫ぶと、あまりの嬉しさに我が身の置き所を失ってしまった。

 生まれて初めてのクリスマスの夜が、こうして始まった。

 昭和26年、小学校3年生の冬の事だった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161224

 【晴】
 午後から降り出した雪が夕方になると激しさを増して、まだ6時を少しまわったばかりだというのに、外はもう深夜のような静けさの中にあった。

 早目に仕事を終えて僅かに残った職人達が、土間のダルマストーブの周りに立って寛いでいる。

 NHKのラジオが、クリスマスイブの特別番組で、ベツレヘムの宿屋の家畜小屋を舞台に起った出来事を、厳かな音楽と共に放送していた時だった。

「こんばんは、すみませんが電話を貸して下さい」

 母屋の隣の柿沼のお姉さんが、傘に積もった雪を落としながら、入口の外に立って声を掛けて来た。

「あら◯◯子ちゃん、早く中に入って暖まりなさい。電話ならいつでも使ってちょうだい」

 母が入って来たお姉さんにお茶を入れながら答えると、「ハイ、すみませんおばさん。これ相変らずの物ですがどうぞ」と茶色の袋に入ったせんべいを差し出した。

 私は内心しめたと思ったが、それを口に出したり、ましてや態度に出したりはしなかった。
そんな事をすれば、あとで必ず叱られるからだった。

 柿沼の家は、おじさんとおばさんがせんべいを作っていて、それがとても美味しかったのだ。

「いつもありがとうね。でもあまり気を使わないようにね」

 母はそう言ってせんべいを受け取ると、お姉さんにお茶とお菓子をすすめ、「電話いつでもどうぞ」と言ってその場を離れた。

 お姉さんは手帳を手に電話台の前に立つと、箱の横についたハンドルをグルグルと2~3回廻し、受話器を耳に当てた。

「もしもし、4523番願います…こちら2100番の乙です」

 しばらくすると相手方に通じたのか、「もしもし◯◯さん、柿沼ですけど××さんお願いできますか。…すみませんお願いします」

 きっと先方にも電話が無いのだろう。多分近所で電話のある家に呼び出しを頼んだのだ。

 しばらくすると相手が着いたのか「もしもし××さん柿沼だけど…」と会話が始まった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161223

 【晴】《22日の続き》
 拝み屋のおばさんは、私の家族の具合が悪くなると、殺した蛇が祟っているとか、昔飼っていた犬の霊が悪さをしているとか、何でも祟りのせいにして憑き物落としの祈祷をするのだったが、私は子供ながら変だなと心の中では思っていた。
しかし、それを口にすると叱られるから親には黙っていた。

 私の知っているだけでも、我が家にいた犬や猫が何匹か死んだけれど、皆とても可愛かったし、気立ても良かったから、私達を守ってくれても、決してとりついて悪さをするとは思えなかったし、第一そんな事でいちいち祟られてたら、サンマやマグロ、牛やブタ、ニワトリやイワシの霊に祟られた人で、町中がいっぱいになってしまうのではと真剣に考えた。

 父は無論の事、母だって本当のところは心の底から信じていた訳でもないらしく、言わば近所付き合いのひとつとして受け入れていたようであった。

 拝み屋のおばさんは、黒くてまん丸なドンチャン眼鏡をかけて、もんぺ姿に白い袖なし羽織を着ていた。

 家は直ぐ近くだったので、私は学校帰りに時々おばさんの家の前から中を覗いて、大きな祭壇や沢山の供物など、およそ普通の家とは違う異様な雰囲気に、何となく薄気味悪い気持ちになったものだった。

 ある時おばさんは自分がガンになった事を知ると、医者の治療を一切断り、怖れ気もなく自分の祈祷力で治してみせると公言して、昼夜を問わない祈祷三昧に入った。

 しかし、おばさんは日に日に痩せ細って、水を口にしてさえ吐くようになってしまった。

 おばさんを気遣った母は毎日のように見舞いに行ったが、おばさんは「カツ丼とうな丼が食べられたら、もう何にもいらない。ラーメンとかけそばが食べられたら直ぐ死んでもいい」と、口から出る言葉は食べ物の事だけだったそうだ。

 おばさんの祈祷の力は、ガンには勝てなかったようだ。http://www.atelierhakubi.com/