アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161222
【晴】
小林のおばさんは拝み屋という仕事で、元町を中心に沢山の家に出入りして、色々な悩みの相談相手になっていた。
我が家にも月に一度は必ず訪ねて来て、カスタネットのような道具と粒の大きな数珠を使って独特の音を出しながら、まるで何かが乗り移ったかのような奇妙な身振りと共に、外の道を通る人にも聞こえるほどの大声で祈った。
早い時で15分、遅くとも30分位でトランス状態に入り、やがて全身を痙攣させてバタッと倒れると、しばらくの間タタミの上をゴロゴロと転げ廻り、ふいに正座をして話し始める。
私はそんなおばさんを、少し薄気味悪いと思ってはいたが、なぜか来る度に、その一部始終を見ずにはいられなかった。
いつだったか私が悪い風邪をひいてなかなか治らない事があり、母はそれを心配しておばさんに拝んでもらった事があった。
おばさんは私の両手を合掌させると、いつものように拝み始め、やがて物凄い顔で母に向かってこう言った。
「この子には死んだ猫の霊が乗り移っている。多分この子が殺したか、殺されるのを黙って見ていたのだろう。早くお浄めしないと大病を患う事になるぞ」
私はそんな事があったろうかと必死になって考えたが、どうしても思い当たらない。
ただ学校の帰りに車に轢かれて死んだ猫のそばを通った事が、一ヶ月ばかり前にあったのを思い出し、それを母に告げると、おばさんは即座に「それだ。その猫がこの子にとりついたんだ」と言ったが、私は正直なところ変だなと思った。
なぜなら、その猫の近くを通ったのは私以外にも多勢いたし、中には面白そうに棒で突付いた奴さえいた。
とりつくのなら、そんな奴にとりつくのが先だろうと言いたいのだ。
第一私には自分の中に猫の霊がいるという実感がまるで無いし、もしも、そんな手応えがあるのならかえって面白いから、何も無理して追い出してもらいたくなんかなかった。
それよりも私は、一向に下がらない熱と体のだるさを、早く何とかしてもらいたい気持ちでいっぱいだった。http://www.atelierhakubi.com/
小林のおばさんは拝み屋という仕事で、元町を中心に沢山の家に出入りして、色々な悩みの相談相手になっていた。
我が家にも月に一度は必ず訪ねて来て、カスタネットのような道具と粒の大きな数珠を使って独特の音を出しながら、まるで何かが乗り移ったかのような奇妙な身振りと共に、外の道を通る人にも聞こえるほどの大声で祈った。
早い時で15分、遅くとも30分位でトランス状態に入り、やがて全身を痙攣させてバタッと倒れると、しばらくの間タタミの上をゴロゴロと転げ廻り、ふいに正座をして話し始める。
私はそんなおばさんを、少し薄気味悪いと思ってはいたが、なぜか来る度に、その一部始終を見ずにはいられなかった。
いつだったか私が悪い風邪をひいてなかなか治らない事があり、母はそれを心配しておばさんに拝んでもらった事があった。
おばさんは私の両手を合掌させると、いつものように拝み始め、やがて物凄い顔で母に向かってこう言った。
「この子には死んだ猫の霊が乗り移っている。多分この子が殺したか、殺されるのを黙って見ていたのだろう。早くお浄めしないと大病を患う事になるぞ」
私はそんな事があったろうかと必死になって考えたが、どうしても思い当たらない。
ただ学校の帰りに車に轢かれて死んだ猫のそばを通った事が、一ヶ月ばかり前にあったのを思い出し、それを母に告げると、おばさんは即座に「それだ。その猫がこの子にとりついたんだ」と言ったが、私は正直なところ変だなと思った。
なぜなら、その猫の近くを通ったのは私以外にも多勢いたし、中には面白そうに棒で突付いた奴さえいた。
とりつくのなら、そんな奴にとりつくのが先だろうと言いたいのだ。
第一私には自分の中に猫の霊がいるという実感がまるで無いし、もしも、そんな手応えがあるのならかえって面白いから、何も無理して追い出してもらいたくなんかなかった。
それよりも私は、一向に下がらない熱と体のだるさを、早く何とかしてもらいたい気持ちでいっぱいだった。http://www.atelierhakubi.com/
アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161221
【晴】
前の晩の冷え込みがやけに厳しいと思ったら、朝起きてみると、外は30cmにもなるかという大雪で、まだ盛んに降り続いていた。
家の前の道を通る人達の声も、いつもとは違って浮き立っているだけではなく、余分な汚れを洗い流したかのように澄み切って聞こえるのが不思議だ。
家の軒先から直ぐに積もる雪の厚さは、外に歩き出すのが怖いほどの迫力だった。
こんなに朝早くから、もう誰か訪ねて来たのか、道から庭を通って玄関先まで足跡がついている。
向かいの柳田鉄工所の屋根が、真っ白に雪化粧して目の届く限り続いているのが美しい。
私は寒さも忘れて、じっと雪景色に見とれていた。
「何をしてるの、寒いから戸を閉めなさい」
いつの間に台所から出て来たのか、前掛けで手をふきながら、母が私に言った。
「ウン」と返事をして戸を閉めると、全身が冷え切っているのに気付いて、思わず身震いした。
今日は珍しく朝風呂があるらしく、玄関の土間奥の焚き口に火が入っている。
その前に座って、叔父の清ちゃんがゆったりと火の番をしていた。
薄暗い土間の床に、風呂釜の焚き口から漏れる火の光が赤々と映っている。
「ごはんの前にお風呂に入ってしまいなさいよ」
母の言いつけに、私は隣の京子ちゃんに声を掛けた。
「京子ちゃん、母さんがお風呂に入ってしまいなって」
「ハーイ、分かった今行くよ」
雪の日には、我が家はなぜか朝風呂が立つ。http://www.atelierhakubi.com/
前の晩の冷え込みがやけに厳しいと思ったら、朝起きてみると、外は30cmにもなるかという大雪で、まだ盛んに降り続いていた。
家の前の道を通る人達の声も、いつもとは違って浮き立っているだけではなく、余分な汚れを洗い流したかのように澄み切って聞こえるのが不思議だ。
家の軒先から直ぐに積もる雪の厚さは、外に歩き出すのが怖いほどの迫力だった。
こんなに朝早くから、もう誰か訪ねて来たのか、道から庭を通って玄関先まで足跡がついている。
向かいの柳田鉄工所の屋根が、真っ白に雪化粧して目の届く限り続いているのが美しい。
私は寒さも忘れて、じっと雪景色に見とれていた。
「何をしてるの、寒いから戸を閉めなさい」
いつの間に台所から出て来たのか、前掛けで手をふきながら、母が私に言った。
「ウン」と返事をして戸を閉めると、全身が冷え切っているのに気付いて、思わず身震いした。
今日は珍しく朝風呂があるらしく、玄関の土間奥の焚き口に火が入っている。
その前に座って、叔父の清ちゃんがゆったりと火の番をしていた。
薄暗い土間の床に、風呂釜の焚き口から漏れる火の光が赤々と映っている。
「ごはんの前にお風呂に入ってしまいなさいよ」
母の言いつけに、私は隣の京子ちゃんに声を掛けた。
「京子ちゃん、母さんがお風呂に入ってしまいなって」
「ハーイ、分かった今行くよ」
雪の日には、我が家はなぜか朝風呂が立つ。http://www.atelierhakubi.com/
アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161220
【曇】
男勝りの京子ちゃんは、大抵の事を男と一緒にこなしたけれど、竹馬だけはあまり得意ではなかった。
竹馬遊びは何といっても冬が一番多かったのは、材料の竹を採るのが冬だったせいだろうか。
長さを揃えるために切り捨てた先の方は、子供でも買えるほど値段が安く、二本を並べて節の間隔が出来るだけ合っているのを選ぶのが、良い竹馬を作る一番大切な事だ。
足を乗せる台は、どこの家にも沢山あった薪の束の中から、なるべく太さの揃ったものを選び、一方の端を針金で縛り、もう一方で竹をはさみ、少し斜めになるような角度で、針金を十文字にかけて固定すると出来上がりである。
上手に乗りこなす自信のない奴は素足で、得意な奴は靴のまま乗った。
全く乗れないミソッカスは、足乗せを一番下までおろし、ペタンと地べたにくっつくようにした竹馬に乗って、気分だけを味わっていたが、その姿は何ともぶざまで情けなかったので、皆の笑い者になった。
何でも器用にこなす京子ちゃんの竹馬が、このペタンコ竹馬だったから、乗るのに塀の上からでないとダメなほど、高く乗れた私には、ペタペタと地面をずって行く京子ちゃんを上から見下ろしては、薄ら笑いを浮かべながら、何とも言えない優越感を味わった。
その態度が気に入らないと怒った京子ちゃんは、私の竹馬の足を思い切り蹴っ飛ばしたので、私はもんどりうって地面に転げ落ち、目から星が出るほど痛い目にあったからたまらない。
全速力で逃げる京子ちゃんを追い駆け、土足のまま家に駆け込んだのを、私も土足のまま飛び込んで追い詰めると、びっくりしている叔母に構わずに2つ3つぶっ飛ばし、ウワンウワン泣いたところで逃げ出した。
取っ組み合いのケンカをしても、どうせ明日はまた一緒に遊ぶのだから、叔母も母も、どっちが泣こうが喚こうが、一向に気にする事はなかった。http://www.atelierhakubi.com/
男勝りの京子ちゃんは、大抵の事を男と一緒にこなしたけれど、竹馬だけはあまり得意ではなかった。
竹馬遊びは何といっても冬が一番多かったのは、材料の竹を採るのが冬だったせいだろうか。
長さを揃えるために切り捨てた先の方は、子供でも買えるほど値段が安く、二本を並べて節の間隔が出来るだけ合っているのを選ぶのが、良い竹馬を作る一番大切な事だ。
足を乗せる台は、どこの家にも沢山あった薪の束の中から、なるべく太さの揃ったものを選び、一方の端を針金で縛り、もう一方で竹をはさみ、少し斜めになるような角度で、針金を十文字にかけて固定すると出来上がりである。
上手に乗りこなす自信のない奴は素足で、得意な奴は靴のまま乗った。
全く乗れないミソッカスは、足乗せを一番下までおろし、ペタンと地べたにくっつくようにした竹馬に乗って、気分だけを味わっていたが、その姿は何ともぶざまで情けなかったので、皆の笑い者になった。
何でも器用にこなす京子ちゃんの竹馬が、このペタンコ竹馬だったから、乗るのに塀の上からでないとダメなほど、高く乗れた私には、ペタペタと地面をずって行く京子ちゃんを上から見下ろしては、薄ら笑いを浮かべながら、何とも言えない優越感を味わった。
その態度が気に入らないと怒った京子ちゃんは、私の竹馬の足を思い切り蹴っ飛ばしたので、私はもんどりうって地面に転げ落ち、目から星が出るほど痛い目にあったからたまらない。
全速力で逃げる京子ちゃんを追い駆け、土足のまま家に駆け込んだのを、私も土足のまま飛び込んで追い詰めると、びっくりしている叔母に構わずに2つ3つぶっ飛ばし、ウワンウワン泣いたところで逃げ出した。
取っ組み合いのケンカをしても、どうせ明日はまた一緒に遊ぶのだから、叔母も母も、どっちが泣こうが喚こうが、一向に気にする事はなかった。http://www.atelierhakubi.com/
アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161219
【晴】
「いちれつらんぱん(意味不明たぶんでたらめ)破裂して、にいちろおせんそお(日露戦争)始まった、さっさと逃げるはロシア人、死んでも戦う日本人、クロパトキンの首を取り、東郷元帥万々歳」
京子ちゃんとさや子ちゃんが、物凄く古い歌を歌いながら、器用にお手玉をやっている。
この歌に限らず年が一つ上だけなのに、京子ちゃんの知っているわらべ歌には、信じられないほど時代遅れのものが多かった。
多分日露戦争のわらべ歌も、本当は手まり歌なのを、お手玉に応用しているのだろう。
「セッセッセーのヨイヨイヨイ、オチャラカオチャラカオチャラカ、ホイ、オチャラカ勝った(負けた)よオチャラカ、ホイ」はオチャラカじゃんけんの時に歌うはやし歌で、オチャラカホイのホイの時にじゃんけんをして、負けた方はおじぎ、勝った方はバンザイをする。
あいこの時は、オチャラカあいこでオチャラカ、ホイでもう一度やった。
たったそれだけの遊びなのに、何度も何度も飽きずに繰り返し、いつの間にかあたりが夕闇に包まれていた事もあった。
集った人数を二つに分けて、お互いに相手の中から味方に引き入れたい相手を決めると、手を結んで向かい合い、「花いちもんめ、◯◯ちゃんが欲しい花いちもんめ」と言いながら前進する。
相手はそれを受けて「◯◯ちゃんが欲しい花いちもんめ」とはやしながら前進して来る。
お互いに相手から指名された者がじゃんけんをして、勝った方は「勝ってうれしい花いちもんめ」とはやすと、今度は負けた方が「負けてくやしい花いちもんめ」とはやし、仲間を相手方に引き渡す。
これを延々と繰り返して、時の経つのを忘れるほど夢中だった。
通りゃんせも、うしろの正面だあれも、京子ちゃんが仕切って皆が遊んだが、どういう訳か毎日必ず誰かが泣いて家に駆け戻って行った。
そんな時は遊びを一時中断してその子の家に行き、庭先から全員が「◯◯ちゃんあそぼ」と声を合わせて繰り返すのだ。
それでも相手が出て来ない時には、「◯◯ちゃんごめん」と大声で呼び続ける。
すると相手は、いかにも哀しいというポーズで外に出て来る。
うつむいて近付いて来た相手を、京子ちゃんを頭に何人かの女の子が相手の肩や背に手を廻して、さも親切そうに慰める。
こうして再び遊びが再開されるのだ。http://www.atelierhakubi.com/
「いちれつらんぱん(意味不明たぶんでたらめ)破裂して、にいちろおせんそお(日露戦争)始まった、さっさと逃げるはロシア人、死んでも戦う日本人、クロパトキンの首を取り、東郷元帥万々歳」
京子ちゃんとさや子ちゃんが、物凄く古い歌を歌いながら、器用にお手玉をやっている。
この歌に限らず年が一つ上だけなのに、京子ちゃんの知っているわらべ歌には、信じられないほど時代遅れのものが多かった。
多分日露戦争のわらべ歌も、本当は手まり歌なのを、お手玉に応用しているのだろう。
「セッセッセーのヨイヨイヨイ、オチャラカオチャラカオチャラカ、ホイ、オチャラカ勝った(負けた)よオチャラカ、ホイ」はオチャラカじゃんけんの時に歌うはやし歌で、オチャラカホイのホイの時にじゃんけんをして、負けた方はおじぎ、勝った方はバンザイをする。
あいこの時は、オチャラカあいこでオチャラカ、ホイでもう一度やった。
たったそれだけの遊びなのに、何度も何度も飽きずに繰り返し、いつの間にかあたりが夕闇に包まれていた事もあった。
集った人数を二つに分けて、お互いに相手の中から味方に引き入れたい相手を決めると、手を結んで向かい合い、「花いちもんめ、◯◯ちゃんが欲しい花いちもんめ」と言いながら前進する。
相手はそれを受けて「◯◯ちゃんが欲しい花いちもんめ」とはやしながら前進して来る。
お互いに相手から指名された者がじゃんけんをして、勝った方は「勝ってうれしい花いちもんめ」とはやすと、今度は負けた方が「負けてくやしい花いちもんめ」とはやし、仲間を相手方に引き渡す。
これを延々と繰り返して、時の経つのを忘れるほど夢中だった。
通りゃんせも、うしろの正面だあれも、京子ちゃんが仕切って皆が遊んだが、どういう訳か毎日必ず誰かが泣いて家に駆け戻って行った。
そんな時は遊びを一時中断してその子の家に行き、庭先から全員が「◯◯ちゃんあそぼ」と声を合わせて繰り返すのだ。
それでも相手が出て来ない時には、「◯◯ちゃんごめん」と大声で呼び続ける。
すると相手は、いかにも哀しいというポーズで外に出て来る。
うつむいて近付いて来た相手を、京子ちゃんを頭に何人かの女の子が相手の肩や背に手を廻して、さも親切そうに慰める。
こうして再び遊びが再開されるのだ。http://www.atelierhakubi.com/
アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161218
【晴】《17日の続き》
前編の「花の巻」は何とか観ていられたのだが、後編の「雪の巻」に入って間もなく、どうしても起きていられずに、いつの間にか眠ってしまった。
山場に差し掛かる度に場内が騒然となるので、その時はハッと目を覚まして、少しの間画面に目を向ける。
そして直ぐにまぶたがくっついてしまい、結局終盤の討入りまでの時間を、ほとんど寝て過ごしてしまった。
しかし、いざ吉良の屋敷に討入るというあたりには、さすがに目が冴えてシャキッとして画面を凝視した。
場内は感嘆と賞賛のざわめきが続き、最後の「終」の文字が出るまで消えなかった。
幕が閉まり、場内の照明が明るくなると、ブーというブザーの音が客の背中を押すかのように鳴り渡る。
いつもの事だが、映画が終わって場内が明るくなる時の気分は、何か物淋しくて切ない。
「アアー、本当に良かった。サア帰りましょう」
母の声に皆ゾロゾロと席を立って外に出ると、ロビーは中より少し寒かった。
売店で勘定を済ませている母を待っている私達の脇を、今夜の観客が列をなして通り過ぎて行く。
板張りの床が、人達の踏足でドカドカと賑やかな音を発てる。
母がこちらに向かって来るのをみとめた私達も、列に乗って劇場の外に出ると、兄達や他の人達が入場券売場の前で待っていた。
父のそばに行って顔を見ると、明らかに涙の跡がある。
私は父の涙を見た事がないので、その時は何か見てはならないものを見てしまった気がして、急いで父のそばを離れた。
外は強い空っ風が吹いていて、体の芯まで凍えるほど寒かった。http://www.atelierhakubi.com/
前編の「花の巻」は何とか観ていられたのだが、後編の「雪の巻」に入って間もなく、どうしても起きていられずに、いつの間にか眠ってしまった。
山場に差し掛かる度に場内が騒然となるので、その時はハッと目を覚まして、少しの間画面に目を向ける。
そして直ぐにまぶたがくっついてしまい、結局終盤の討入りまでの時間を、ほとんど寝て過ごしてしまった。
しかし、いざ吉良の屋敷に討入るというあたりには、さすがに目が冴えてシャキッとして画面を凝視した。
場内は感嘆と賞賛のざわめきが続き、最後の「終」の文字が出るまで消えなかった。
幕が閉まり、場内の照明が明るくなると、ブーというブザーの音が客の背中を押すかのように鳴り渡る。
いつもの事だが、映画が終わって場内が明るくなる時の気分は、何か物淋しくて切ない。
「アアー、本当に良かった。サア帰りましょう」
母の声に皆ゾロゾロと席を立って外に出ると、ロビーは中より少し寒かった。
売店で勘定を済ませている母を待っている私達の脇を、今夜の観客が列をなして通り過ぎて行く。
板張りの床が、人達の踏足でドカドカと賑やかな音を発てる。
母がこちらに向かって来るのをみとめた私達も、列に乗って劇場の外に出ると、兄達や他の人達が入場券売場の前で待っていた。
父のそばに行って顔を見ると、明らかに涙の跡がある。
私は父の涙を見た事がないので、その時は何か見てはならないものを見てしまった気がして、急いで父のそばを離れた。
外は強い空っ風が吹いていて、体の芯まで凍えるほど寒かった。http://www.atelierhakubi.com/
アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161217
【晴西の風】《16日の続き》
夜の部は6時半から、まず内外のニュースと次回の予告編の上映から始まった。
午後7時頃に本編がスタートすると、私の隣にいた母は、「サア始まるよ」と、誰にともなく言いながら居ずまいを正した。
場内に緊張と期待を込めた「フウー」というざわめきが湧いて、待ちに待った大「忠臣蔵」のオープニングである。
父も母も、そして兄達や他の人達も、画面を見ながらいちいち「ウーン」とか、「チキショーめ」とか、「テメエ引っ込め」とか、うるさくて仕方がない。
ヒロやんは怒るだけでなく、「オーン、オーン」と声を殺しながら泣いたり喚いたりで、私は恥かしくて仕方がなかった。
姉達はそんな私達とは遠く離れて、まるで関係のない人間のような振りをしている。
上映中ほとんど間なく、物売りの人が通路を行ったり来たりしながら、「おでんに焼きイカ、アンパンにキャラメル、オセンベはいかがですか」と声を掛ける。
どういう訳かタバコは売ってないので、切らした人は木戸に断って外に出て買って来る。
あの頃は禁煙ではなかったから、場内は多勢の人達がはき出す煙が充満し、それに映写機からスクリーンに投射される光線が当って、頭上は直線のオーロラのようだった。
「ネーネー、忠臣蔵ってどういう意味?」
少し飽きてきた私は、夢中で銀幕に見入っている母の袖を引っ張りながら尋ねた。
「うるさいね、静かにしてなさいよ、今一番良い場面なんだから」
母は私の質問など聞く耳を持たなかった。http://www.atelierhakubi.com/
夜の部は6時半から、まず内外のニュースと次回の予告編の上映から始まった。
午後7時頃に本編がスタートすると、私の隣にいた母は、「サア始まるよ」と、誰にともなく言いながら居ずまいを正した。
場内に緊張と期待を込めた「フウー」というざわめきが湧いて、待ちに待った大「忠臣蔵」のオープニングである。
父も母も、そして兄達や他の人達も、画面を見ながらいちいち「ウーン」とか、「チキショーめ」とか、「テメエ引っ込め」とか、うるさくて仕方がない。
ヒロやんは怒るだけでなく、「オーン、オーン」と声を殺しながら泣いたり喚いたりで、私は恥かしくて仕方がなかった。
姉達はそんな私達とは遠く離れて、まるで関係のない人間のような振りをしている。
上映中ほとんど間なく、物売りの人が通路を行ったり来たりしながら、「おでんに焼きイカ、アンパンにキャラメル、オセンベはいかがですか」と声を掛ける。
どういう訳かタバコは売ってないので、切らした人は木戸に断って外に出て買って来る。
あの頃は禁煙ではなかったから、場内は多勢の人達がはき出す煙が充満し、それに映写機からスクリーンに投射される光線が当って、頭上は直線のオーロラのようだった。
「ネーネー、忠臣蔵ってどういう意味?」
少し飽きてきた私は、夢中で銀幕に見入っている母の袖を引っ張りながら尋ねた。
「うるさいね、静かにしてなさいよ、今一番良い場面なんだから」
母は私の質問など聞く耳を持たなかった。http://www.atelierhakubi.com/
アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161216
【晴】《15日の続き》
今夜は仕事が終わるのに合わせて、手早く食べられるようにと、夕食はうどんだったから、多分映画が終わる頃には腹が減ってしまうだろうし、職人さん達は大抵大食いだったので、今夜の売店は我が家のメンバーだけでも忙しくなりそうだった。
おでんといっても、コンニャクやチクワなど串に刺して食べられるものがほとんどで、値段もかなり安かったから、映画を観ながら小腹を満たすにはちょうど良い食べ物なのだ。
クライマックスらしい音響が、合間に入る拍手の音と共に扉を通して外にもれて来る。
今はあまりないのだろうが、あの頃は映画の場面が、これぞという時には満場の拍手が沸いたり、「イヨッ待ってました」とか、「チキショー◯◯テメエなんか死んじまえ」とか、「◯◯テメエ汚ねえぞ」とか、物凄い勢いで画面に野次を飛ばしたりした。
「そうだそうだ」とか、「その通り、あいつが悪い」とか合の手も入って、結構賑やかな場内だった。
場内は多分討入りが大詰めに来ているのだろうか。
サウンド・トラックではない肉声が、「ワーワー」と途切れずに聞えて来る。
それでも私達だけでなく、次の上映を待っている客達は、誰一人として中に入ろうとはしない。
父や母、そして上の兄達は、今夜この場で知り合った人達と煙草をふかしながら、私には分からない忠臣蔵の難しい話を、時折冗談を交えて楽しそうに交している。
ハルさんとモトさんは売店の脇で将棋を指し始め、ヨッさんはそれを横で見物している。
唯一人ヒロやんだけは少しもじっとしていずに、下の階に下りたり、また二階に上がって来たりして目障りで仕方がない。
「ヒロちゃん、他の人達に迷惑だから少しじっとしていなさいよ」
兄嫁がたしなめても、ヒロやんは「ウン、ウン」と生返事ばかりで、ウロウロするのを一向にやめようとしなかった。http://www.atelierhakubi.com/
今夜は仕事が終わるのに合わせて、手早く食べられるようにと、夕食はうどんだったから、多分映画が終わる頃には腹が減ってしまうだろうし、職人さん達は大抵大食いだったので、今夜の売店は我が家のメンバーだけでも忙しくなりそうだった。
おでんといっても、コンニャクやチクワなど串に刺して食べられるものがほとんどで、値段もかなり安かったから、映画を観ながら小腹を満たすにはちょうど良い食べ物なのだ。
クライマックスらしい音響が、合間に入る拍手の音と共に扉を通して外にもれて来る。
今はあまりないのだろうが、あの頃は映画の場面が、これぞという時には満場の拍手が沸いたり、「イヨッ待ってました」とか、「チキショー◯◯テメエなんか死んじまえ」とか、「◯◯テメエ汚ねえぞ」とか、物凄い勢いで画面に野次を飛ばしたりした。
「そうだそうだ」とか、「その通り、あいつが悪い」とか合の手も入って、結構賑やかな場内だった。
場内は多分討入りが大詰めに来ているのだろうか。
サウンド・トラックではない肉声が、「ワーワー」と途切れずに聞えて来る。
それでも私達だけでなく、次の上映を待っている客達は、誰一人として中に入ろうとはしない。
父や母、そして上の兄達は、今夜この場で知り合った人達と煙草をふかしながら、私には分からない忠臣蔵の難しい話を、時折冗談を交えて楽しそうに交している。
ハルさんとモトさんは売店の脇で将棋を指し始め、ヨッさんはそれを横で見物している。
唯一人ヒロやんだけは少しもじっとしていずに、下の階に下りたり、また二階に上がって来たりして目障りで仕方がない。
「ヒロちゃん、他の人達に迷惑だから少しじっとしていなさいよ」
兄嫁がたしなめても、ヒロやんは「ウン、ウン」と生返事ばかりで、ウロウロするのを一向にやめようとしなかった。http://www.atelierhakubi.com/