アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161231 | アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161231

 【雪】
 大晦日は朝から夜遅くまで、絶え間なく人が出入りしていた。

 そのほとんどは年末の勘定取りの人達で、支払いの大半は盆の前と大晦日の年2回だったから、細かい所は近所の魚屋や八百屋など、大きい所は石炭屋や染料屋さんなどの原料屋さんだったと記憶している。

 そば屋うなぎ屋などの食べ物は、その頃から毎日勘定になっていたのだろうか、支払い金額も大した事はなかった。

 父や兄は朝早くから取引先への集金に出掛けて行き、午前中に1~2回、午後に数回集金のお金を届けては、また出掛けて行くのだった。

 集金先は市内だけでなく、佐野市や太田市、そして小泉町と、結構広範囲なのだ。

 兄の運転するオート三輪の助手席に父が乗って遠出をするのに合わせて、集金を任せられた何人かの職人さんも、手分けして市内の集金先を走り廻っては帰って来る。

 母は工場のギリ場に面した板の間に陣取って、次々に訪れる勘定取りの人への支払いを一手に引き受けていた。

 はっきりと数えた訳ではないけれど、年2回の節季勘定と月勘定、そして年1回の漬物用の白菜や大根などの特別な買物の支払いなどを合わせると、おそらく50人以上の人達が入れ代り立ち代り出入りするのだから、それは賑やかなものだった。

 ギリ場のダルマストーブで沸かす湯だけでは、来る人達に出すお茶が間に合わないので、工場の台所では休みなしに湯を沸かしていた。
酒はこもが置かれて飲みたい人は手酌で飲み、上り框に置かれた煮物や漬物に手を伸ばし、多い時には15~16人の人達がギリ場にたまってワイワイガヤガヤとやっているのだ。

 母屋は祖母が陣取って客の応待をしていたが、大抵は泊り掛けの親戚が何人かいるので、何とか手は足りていた。

 そんな状態で大晦日の夜は深けて行き、やがて浄夜の鐘がいんいんと深夜の闇に広がって行くのだ。

 テレビも携帯もゲームもない時代の話である。http://www.atelierhakubi.com/