正しいという概念は非常に厄介です。

世の中において、絶対に正しいものはない!?

 

 

絶対的に正しいということはない。

必ず何かの道理や規準に沿って、

それが正しいという結論に達している。

 

 

何かの意見の食い違いがある時には、

そもそもの当事者の間に、

下記規準の違いがあることに

気付くことによって、話が進展していきます。

 

 

例えば、こっちの方が正しいとか、

こんなことをするなんて、ありえない。

常識がないなど言い合うときには、

お互いに価値観の違いがあります。

 

 

自分の常識が、常に他人の常識

であることはありません。

例えば、思いやりを持ちましょう。

みんなで仲良くしましょう。

一緒にがんばりましょう。

などの考え自体は悪いものではありません。

 

 

しかし、他人を思いやるということは、

どういうことかというと、

人によって違いが出てきます。

また、立場や関わり方によっても、

それぞれ差異が出てきます。

 

 

自分が良かれと思っていても、

相手にとっては、良くないことになることもあります。

一方では、自分が悪いことをしたなと思っていても、

他人は全く気にしていないということもあります。

 

 

人の価値規準は人それぞれなので、

実際にやってみるまでは、

分からないこともあります。

 

 

部下が上司に対して、

丁寧な言葉遣いをしていたら、

かえって相手に拒絶されていると

思われたりすることもあります。

 

 

また、上司の方が、

部下が気を使わないように

フランクに話していたら、

高圧的だと思われるかもしれません。

 

 

さじ加減は、その人によって違うので、難しいのです。

ですので、誰にでも当てはまるような

言い方をしてしまうと、先ほどのべたような、

みんなに優しくしようなど、

何か綺麗事を並べたような表現になってしまいます。

 

 

ですので、

物事は常に決まったものはないし、

相手の全てを理解する必要はありません。

けれども、その人の考え方は尊重してあげないと、

結局、自分の考えを尊重してもらえません。

 

 

自分が正しいと主張するのも必要ですが、

常に、相手は自分が思いつかないような

発想や考え方をしているという気持ちを

忘れないようにしましょう。

 

 

そうすれば、相手の言葉を聞く余裕が

少しだけ生まれていきます。

正しい、正しくないを規準にして、

物事を進めていけば、

周りと、どこかでぶつかってしまいます。

 

正しいという概念は非常に厄介です。

世の中において、絶対に正しいものはない!?

 

 

絶対的に正しいということはない。

必ず何かの道理や規準に沿って、

それが正しいという結論に達している。

 

 

何かの意見の食い違いがある時には、

そもそもの当事者の間に、

下記規準の違いがあることに

気付くことによって、話が進展していきます。

 

 

例えば、こっちの方が正しいとか、

こんなことをするなんて、ありえない。

常識がないなど言い合うときには、

お互いに価値観の違いがあります。

 

 

自分の常識が、常に他人の常識

であることはありません。

例えば、思いやりを持ちましょう。

みんなで仲良くしましょう。

一緒にがんばりましょう。

などの考え自体は悪いものではありません。

 

 

しかし、他人を思いやるということは、

どういうことかというと、

人によって違いが出てきます。

また、立場や関わり方によっても、

それぞれ差異が出てきます。

 

 

自分が良かれと思っていても、

相手にとっては、良くないことになることもあります。

一方では、自分が悪いことをしたなと思っていても、

他人は全く気にしていないということもあります。

 

 

人の価値規準は人それぞれなので、

実際にやってみるまでは、

分からないこともあります。

 

 

部下が上司に対して、

丁寧な言葉遣いをしていたら、

かえって相手に拒絶されていると

思われたりすることもあります。

 

 

また、上司の方が、

部下が気を使わないように

フランクに話していたら、

高圧的だと思われるかもしれません。

 

 

さじ加減は、その人によって違うので、難しいのです。

ですので、誰にでも当てはまるような

言い方をしてしまうと、先ほどのべたような、

みんなに優しくしようなど、

何か綺麗事を並べたような表現になってしまいます。

 

 

ですので、

物事は常に決まったものはないし、

相手の全てを理解する必要はありません。

けれども、その人の考え方は尊重してあげないと、

結局、自分の考えを尊重してもらえません。

 

 

自分が正しいと主張するのも必要ですが、

常に、相手は自分が思いつかないような

発想や考え方をしているという気持ちを

忘れないようにしましょう。

 

 

そうすれば、相手の言葉を聞く余裕が

少しだけ生まれていきます。

正しい、正しくないを規準にして、

物事を進めていけば、

周りと、どこかでぶつかってしまいます。

 

 

 

 

宗教は、その国の考え方や文化に

大きな影響を与えています。

 

 

例えば、西洋の文化には、

キリスト教やユダヤ教が。

東洋の文化には、

仏教や儒教などが。

という具合になっています。

 

 

特に仕事に関しては、

東洋と西洋との間では、

宗教による違いがよく出ています。

 

 

西洋では、神と人間の関係は

契約によって成り立っています。

歴史は古く、古代イスラエルまで遡ります。

 

 

代表てきなものは、モーセの十戒です。

旧約聖書の出エジプト記では、

イスラエルの民がエジプトの王様に追われ、

危機に陥っていました。

そこで、モーセたちは神に助けを求めました。

そうすると、神は「十戒」というルールを守ることによって、

モーセたち民を祝福し、見守り続けるという契約を行いました。

 

 

ですので、キリスト教やユダヤ教では、

神と契約を結んで、助けてもらっています。

もし、契約を破ってしまえば、

あとは知らないよという感じになってしまいます。

 

 

また、神道などにおける日本の神様は、

少し異なっています。

神は神社などに大切に祀られます。

そして、祈りによって、神にお願いをします。

 

 

ですので、願いが聞き届けられるときもあるし、

そうでないときもあります。

神の機嫌次第というと言い過ぎかもしれませんが、

時と場合に左右されてしまいます。

西洋文化から見ると、

曖昧なところが多いのかもしれません。

 

 

ビジネスは、契約で成り立つので、

法的な拘束力も持ち、

その力は絶対的なものです。

 

 

日本の口約束の商習慣があります。

相手への思いやりだったり、

和を持って貴しとなすの気持ちです、

また、本音と建前も、

お互いが角を立てないような

心配りや知恵になります。

 

 

「商いの心」という言葉もあります。

稼ぎによる利益だけではなく、

陰徳善事のように、

その陰徳を積むような行動に

価値をおくところがあります。

 

 

契約主義になると、

その点は、契約をしっかりと守るということに

注力していけばよいので分かりやすいです。

ですので、最初に、

お互いの契約の内容をしっかりしておかないと、

あとでトラブルの元になってしまいます。

 

 

その土地の宗教は、

そこに住む人々の考え方や文化に

大きな影響を与えています。

他の言語圏の文化や考えを

よく理解するためには、

宗教を理解することが役に立ちます。

 

 

 

心を調える内観術のヒミツとは!?

瞑想を効率的に行い、内面の変化を促す方法。

 

 

仏教における”悟り”のための観想法

四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)

 

 

仏教の瞑想法である止観行には、

止と観の部分があることを述べました。

観行の方は、目的や視点を持って行わなければ、

心が定まらないまま、

フワフワして終わってしまうことがあります。

 

 

ですので、そのために、

観ずる事象の対象や視点を

明確にすることが大切になります。

 

 

仏教の用語に、

「四念処」というものがあります。

ヴィパッサナー瞑想などを行う際に、

指標となる観想法になります。

 

 

ここで、最初に用語の確認をしておきます。

 

 

ネットで検索すると、四念処とは、

三十七道品 (ほん) という修行法のなかでも、

最初の修行法に位置付けされるものです。

 

 

以下の4種類の観想法に分かれています。

身を不浄とする身念処、

感受するものすべて苦とする受念処、

心は無常とする心念処、

法は無我であるとする法念処の四つをいう。

(出典:デジタル大辞泉(小学館

 

 

また、観想とは、

特定の対象に向けて心を集中し、

その姿や性質を観察すること。観念。

(出典:デジタル大辞泉(小学館

 

 

という意味になります。

このように順序立てて、

心身の不浄を感じた後に、

より深い世の中の心理を

洞察していきます。

 

 

内観術でも同じように、

自分の心を順番に見つめていきます。

 

 

まずは、自分の心身の状態を観じます。

つぎに、自分の心が触れたことや、

感じていたことに視点を当ていきます。

 

 

その際に、情動を感じてしまった時、

自分が思い通りにならなかったことに対して、

どのような反応をしていたのかを思い出していきます。

 

 

改めて、客観的に振り返って見れば、

その時には、色んな感情が、

心の奥底にうごめいていたと感じることができます。

 

 

そして、最終的には、

自分はどのようにしたかったのかという

本当の願いと、どうしてうまくいかなかったのかを

腑に落とすようにします。

 

 

誰が悪いとか、誰かのせいだとか、

犯人探しや、間違い探しをするのではありません。

自分の中の心情をよく知ることによって、

偏っていた気持ちや考え方を取り替えて、

視野を広げてあげる感覚です。

 

 

今まで、顕微鏡で見ているところが違っていて、

別の箇所を見るようにしたり、

倍率そのものを小さくしたりして、

見える範囲を変えてあげるようなことに

似ているのかもしれません。

 

 

視点が変われば、

人の見方も変わっていきます。

円すい形もしたから見ればまるですが、

真横から見ると三角形になります。

 

 

人も視点をかえることによって、

全く別の一面をみることができるように

なっていきます。

 

 

特に心の内面を見る時には、

形のないものをみているので、

言葉や動きにして、目に見える形に

「見える化」することが必要になっていきます。

 

 

全てを内面の精神的な作業で

終わらせようとしてしまうと、

達人のような集中力が必要になってしまいます。

 

 

精神的な作業をつづける場合には、

何をどうしたいのかという出口と、

どうやってすればよいのかということを

決めてから始めないと、

永遠とさまよってしまうことになります。

 

 

 

心の落ち着きや安らぎを得る方法。

瞑想も有効です。しかし、

その心の持ちようによっては、

ずっとフワフワと、

心を漂わせることになってしまいます。

 

 

仏教の瞑想法の中に

止観行というものがあります。

これは、心を集中する「止」と、

心の動きを観察する「観」という

二つに分けることができます。

 

 

前回の記事で詳しく紹介しています。

https://ameblo.jp/new-kakekomi/entry-12655777503.html

 

 

「止」というのは、

精神と一点に集中することなので、

イメージがつきやすいと思います。

しかし、「観」は、

少し何をすれば良いのか

分かりづらいところがあります。

 

 

心の内面を探れば良いのですが、

ただ自分の心の動きや感情の振れを

見ているだけでは、フワフワと

自分の内面を眺めているだけになってしまいます。

 

 

ですので、

心を内面を探るには、

たどり着くためのゴールと、

その視点があると

スムーズに進むようになって行きます。

 

 

仏教でいうと、

止観行の目的は、悟りを得るうことになります。

その方法が止と観になります。

 

 

止は、ひたすら集中力を

高めていくようなイメージです。

また、観は、苦の根本原因である

「無明」を自覚して、

それを脱することに目的をおきます。

 

 

ですので、どのような思考で、

心と向き合っていくのかが、

ポイントになっていきます。

 

 

”内観術”においては、

もう少し簡単に定義しています。

無明を自覚するというのは、

自分が気づいていないことを気付くことです。

そして、無明を脱するというのは、

今まで、気づかなかったことに気づいて、

その気持ちを認めていくということです。

 

 

怒りや傲慢などの

強い情動によって、

人は、我を忘れてしまったり、

本来の目的を忘れてしまいます。

 

 

そこで、改めて、

自分の考えや気持ちに向き合うことにより、

忘れていたい気持ちや想いに気づきます。

 

 

そうすることにより、

本来の自分を思い出して

内面を変えていきます。

 

 

それによって、

他人との接し方、

ひいては、周りや社会への

関わり方がより良く変化していきます。

 

 

この人が嫌いという気持ちが

先行してしまえば、

その人のことはずっと嫌いのままです。

見ただけでもイライラしてしまいます。

 

 

しかし、本来は、

どうして欲しかったのかという、

その気持ちに切り替えができれば、

その人と人間関係は、

良いものに変わっていきます。

 

 

なかなか、うまくいかないという場合には、

何か他の物事が引っかかっていることもあります。

人に対する感情は複雑ですので、

年月が積み重なるほど、

感情が絡み合っていきます。

 

 

しかし、絡んでしまったモヤモヤも、

丁寧に解いていけば、

元の気持ちは必ず見つかります。

人間は他人に対する愛情があるので、

生きていけます。

 

 

諸法無我なので、

自分に対する愛情と

他人に対する愛情も

同じようなものです。

 

 

 

 

 

止観行と内観術の違い

 

 

仏教では、自分の内面を観ずること、

自分との対話を行うための瞑想のような修行があります。

これらを総称して、止観行と呼んでいます。

 

 

止観行は、止と観の二つに分けられます。

「止」とは、心の動揺をとどめて

精神を一点に集中することです。

一方で、「観」とは、心の動きを観察することにより、

心の縁起をたどり、悩みの根本原因を探ることです。

 

 

ヨーガの瞑想法などでは、

先の「止」と「観」を

同時に行うことが多いようです。

 

 

ですので、この二つが明確に

区別されていないことがあります。

本来は、二つのことを別々に行っているので、

きちんとした止観行を行うことは、

少し難しくなります。

 

 

また、全てを心身の内面で、

行ってしまうことは難しいです。

人間の心は、一点に集中し続けるには、

多少なりに訓練が必要になります。

 

 

最初は、精度が悪くて、

縁起を辿っていくうちに、

あまり関係のないような考えに

たどり着いてしまいます。

 

 

また、同じような言葉の繰り返ししまい

今ある問題の深いところまで、

心の動きを観察することができないこともあります。

 

 

そうすると、現実でも、

同じような問題が続いてしまい、

瞑想による効果を

うまく感じることができません

 

 

ですので、内観術においては、

集中が切れてしまうことを前提にして、

途中で声や文章にして

内面の心情などを書き出すことにより、

切れてしまった途中から続けることもできます。

また、休憩もできます(笑)

 

 

そうすれば、瞑想において、

心の内面では、心身の動きを観察するとともに、

その動きを細やかに感じたり、

見ていくという精神的な作業を

行いやすくなります。

 

 

 

お釈迦さまの言葉から学ぶ、

人生をよりよく生きるための指針。

 

 

迷いの多い世の中において、

私たちは、何を頼りに

生きていけば良いのか?

 

 

”自灯明、法灯明”の教え。

 

 

「自らを拠り所にし、

他のものを拠り所にしてはならない。」

 

また、「法を拠り所にして、

他のものを拠り所にしてもいけない。」

 

 

自灯明、法灯明の教えは、

お釈迦さまの教えの中でも、有名なものです。

 

 

お釈迦様は、長旅の間に、

大病を患ってしまうことがありました。

回復後に、病気を心配していた

弟子に対して語った教えが、

この「自灯明、法灯明」です。

 

 

お釈迦さまは、弟子たちには、

もうすでに、自身が持っている教えは

すべて伝えた。

したがって、私がいなくなった後には、

自分自身、そして、

法(ダルマ)を拠り所にして、

修行を続けるように促しました。

 

 

自分自身のことをよく知り、

世の中の理をよく知るように

弟子たちに伝えています。

 

 

自分自身というのは、

他人をよく観察することで、

実際は自分のことをよく知ることができます。

 

 

自分本人は、自分のことをよく知らないし、

自分に対して、嘘をついたりします。

そう言った、心の動きをよく観察するのです。

 

 

わかりやすく言えば、

こどもが、「ママなんて大嫌い。」

「○○ちゃんなんて大嫌い。」

と言ってしまうようなものです。

 

 

心の本音では、大好きなんです。

しかし、何かの拍子に、

分かってもらえないと感じたり、

なにか拒絶されたと感じると、

感情的に自分の気持ちを

伝えようとしてしまいます。

 

 

大人になると、感情的にならないように、

自分を押し殺したり、我慢したり、または、

常識や世間体などを気にするようになったりするので、

自分の本音を見せることが少なくなります。

 

 

そうしているうちに、

本来の自分らしさが分からなくなります。

そうすると、自分以外の世間の規範や

一般常識というものに

縛られるようになっていきます。

 

 

会社の論理や、同調の圧力によって、

本来の”法”よりも、

なにか違う物を優先するようになります。

 

 

そのストレスが、何かのタイミングで、

弾けてしまったり、本来の気持ちとのズレがひどくなってしまえば、

その人に何らかの形で病気や不調として、降りかかっていきます。

 

 

とはいっても、

周りと合わせないと、

社会人として常識ある行動を、

など、思ってしまうと思います。

 

 

しかし、自分を知ることにより、

他人を見る目が変わっていきます。

 

 

他人は自分の鏡なので、

自分をより深く知ることによって、

自分に対する視点が変わります。

 

 

そうすると、自然に、

他人に対する視点が変わります。

その結果、他人に対する接し方も変わって来ます。

 

 

そうして得た自分自身に対する答えは、

自分らしく幸せに生きることへの

大きな近道になります。

 

 

 

大きな「法」を拠り所にすることによって、

考え方がブレなくなり、

大きな視野と小さな視野の切替ができると、

物事に柔軟に対処できるようになる。

 

 

仏教で、「法」という言葉には、

特別な意味があります。

人間の体がある限りは、

この「法」というものから逃げられません。

 

 

ですので、この「法」というのは、

絶対的な真理を指すことになります。

 

 

これは、誰かの都合によって、

書き換えられたりするものではなく、

何人(どんな存在)でも

書き換えができないものになります。

 

 

少し、分かりやすく言えば、

一日は24時間であり、

地球の自転の周期が決まっています。

 

 

誰かの都合で、25時間になったり、

ちょっと長くなったり、短くなったり、

はしないのです。

 

 

これが、起こってしまうと、

世の中が大変なことになります。

ひょっとしたら、存在自体が、

曖昧なものになってしまうかもしれません。

 

 

また、スマホの電波も、

電波の仕組みが決まっているので、

一定の施設を利用して使うことができます。

しかし、誰かの都合で、公式を変えてしまったら、

大混乱が起きてしまいます。

 

 

お釈迦様は、こうのような真理があることを

自覚したために、悟りの境地に至ることができました。

 

 

三宝印(諸法無我、諸行無常、涅槃寂静)のような教えは、

仏教の中でも根本的な教えになるために、

他の教えを紐解く際に、基盤となる考え方になります。

 

 

初めに、この根本的な教え、

中核となる教えを押さえておくと、

他の教えを理解しやすくなります。

 

 

何らかの教えを理解するにも、

その根本となる考え方が重要です。

 

 

根本から派生した考え方も

始まりが分かっていなければ、

表面的なことに振り回されてしまいます。

 

 

逆に根本となる考え方を

しっかりと押さえておけば、

自ずと他の考え方にも

応用が効くようになります。

 

 

芯がしっかりとしていれば、

視野の切替ができるようになり、

どんな状況にも落ち着いて

対処ができるようになります。

 

 

 

変化の激しい時代こそ、無我の心が大切。

 

 

世の中の移り変わりが激しいと、

世代間の考え方の違いも広がります。

技術の急激な進歩で、今まで培って来た経験が、

これからの時代に生かしづらいところもあります。

 

 

社会の急激な変化に伴い、

自分はどう生きていくのかや、

何を指針として生きていったら良いのか、

難しい時代になって来ています。

 

 

ですので、周りや自分の変化に対応するには、

自分というものの、意識の芯となる部分を

しっかりと意識しておくことが、大切な時代になります。

さらには、他人と自分とは考え方の”違い”があると、

自覚しておくことで、変化を受け入れることができます。

 

 

人間はいきているうちに、人それぞれに経験をします。

そして、そこから何らかの教訓のような物を受け取ります。

 

 

同じような体験をしても、

人がそこから得る教訓のようなものは異なります。

例えば、試合に負けてしまったようなことも、

極端に言えば、自分には才能がないと感じる人と、

まだ努力が足りない、もっと工夫が必要だ。と、

感じる人がいます。

 

 

この考え方の違いが行動の変化を呼び、

引いては、その人の行動指針となる

思考パターンの違いに結びつきます。

 

 

このようにして、自分の”当たり前”が、

積み重ねられていくことで、

自分やわたしという、自意識が作られていきます。

 

 

実は、私というのは、

いつも周りの何かと比べて、作られていきます。

 

 

私は、(他人と比べて)明るい性格だ。

私は、(周りの人と比べて)要領が悪い。

などという考え方が集まり、

自分というものが作られていきます。

 

 

仏教の教えに「諸法無我」というものがあります。

これは、単純に言ってしまえば、

「わたしというものは存在しない。」という意味です。

 

 

つまり、私というのは、他人や周りとの関係があって、

初めて成り立つ概念である。ということです。

ですので、「私は○○な人間だ。だから~しなきゃ。」

のようにこだわって、周りが見えなくなってはいけない。

という意味も含んでいます。

 

 

そして、自分を知るためには、

他人も知らなくてはいけません。

 

 

他人は自分の鏡でもあります。

他人を通して、自分という意識が自覚できます。

 

 

変化が激しい時代になればなるほど、

自分のこだわりを捨てることや、

気づくことができる人が、

その流れに逆らうことなく、

ついていくことができます。

 

 

 

 

より優れた大きな「法」に従うことで、

自然と小さな法にも適用されている。

原点に戻ることで、

その核心となる考え方に触れることができる。

 

 

憲法と法律の関係に似て、

大きな「法」は、小さな「法」を、包括する。

 

 

仏教には、世の中における真理を表す

「法(ダルマ)」という概念があります。

 

 

ダルマは多様な意味を持っています。

例えば、それは、倫理的なきまりや、

美徳、義務、教義、など、

人間が守るべき規範を指し示しています。

 

 

宗教には、様々な守らなくてはいけない

戒のような行動規範があります。

これらの行動規範も、

その上位の概念に縛られています。

より上位になるものの考え方が、

その下にある概念を制限するような形になります。

 

 

これは、世の中の憲法と法律の関係と

似ているところがあります。

上位である法が下位の法を縛っています。

 

 

仏教は、その時代や地域の文化、風習などに、

影響を受けて、長い間にゆっくりと変化して来ました。

その過程において、様々な戒律や規範が出来ています。

 

 

しかし、元の考え方を辿ってみると、

原始仏典に書かれているような概念などに

たどり着くことができます。

 

 

三宝印で表されるような

よりシンプルな概念から始まっています。

そして、色んなその土地の宗教や、

文化・風習などと混ざり合って出来ています。

 

 

日本の仏教も、中国から渡って来た仏教と、

日本古来の神道のような古代信仰と

結びつきながら、現代の形になりました。

また、新しい宗教も生まれています。

 

 

元をたどっていけば、

その源流となる概念や考え方に

たどり着くことができます。

 

 

そこをきちんと押さえることで、

原点回帰して、初心に戻ることで、

芯となる部分が見つけやすくなります。

 

 

 

 

現代のお金からの解放、

必要なものは、結局多くはない。

 

 

お金で買えるものや、

ショートカット出来るものはあるけど、

今の生活に、そもそも必要なのか?

 

 

今の生活は、どんどん新しいものが出来て、

生活も便利になって来ています。

 

 

欲しいものや、気に止まった物を、

物を買っていると、気づかない内に、

物が増えていってしまいます。

 

 

いつか使うかも、というものも、

溜めておくと、生活スペースを

圧迫するようになってしまいます。

 

 

断捨離やミニマリストという言葉も出て来て、

生活に不必要な物を見直し、捨てていくという

考え方も社会に浸透するようになりました。

 

 

今までは、物を大量生産して、

単価を安くして供給していくという

ビジネスの形が主流でした。

 

 

今では、消費者の生活スタイルも

多様化して、その人にあった製品を

作ることが求められるようになりました。

 

 

また、シェアという考え方も出て来て、

購入しなくても、借りたり、

毎月利用する権利を購入することができます。

 

 

自分の持っているものは、

少なくても周りにある物を利用して、

生活するシンプルな生活もできるように

なって来ています。

 

 

生活スタイルも人それぞれになるにつれて、

内面にある価値観も多様になって来ています。

 

 

ですので、自分自身が人生において、

自分が必要としているもの、つまりは、

価値があると信じているものをはっきりさせておけば、

豊かに、心身ともに健やかに過ごすことができます。

 

 

突き詰めて考えれば、

本当に必要なものは、多くありません。

それを大切にする生き方をすれば、

本当の意味で、お金や環境から、解放されます。

 

 

もちろん、最低限の豊かさや金銭は必要です。

人間は体は資本でもあるので、

一定の健康を保つための、生活環境は必要です。

 

 

けれども、自分が必要としている

環境や内面を知ることができれば、

無理に着飾ったり、見えを張ったりすることなく、

過ごすことができるようになります。