心の落ち着きや安らぎを得る方法。

瞑想も有効です。しかし、

その心の持ちようによっては、

ずっとフワフワと、

心を漂わせることになってしまいます。

 

 

仏教の瞑想法の中に

止観行というものがあります。

これは、心を集中する「止」と、

心の動きを観察する「観」という

二つに分けることができます。

 

 

前回の記事で詳しく紹介しています。

https://ameblo.jp/new-kakekomi/entry-12655777503.html

 

 

「止」というのは、

精神と一点に集中することなので、

イメージがつきやすいと思います。

しかし、「観」は、

少し何をすれば良いのか

分かりづらいところがあります。

 

 

心の内面を探れば良いのですが、

ただ自分の心の動きや感情の振れを

見ているだけでは、フワフワと

自分の内面を眺めているだけになってしまいます。

 

 

ですので、

心を内面を探るには、

たどり着くためのゴールと、

その視点があると

スムーズに進むようになって行きます。

 

 

仏教でいうと、

止観行の目的は、悟りを得るうことになります。

その方法が止と観になります。

 

 

止は、ひたすら集中力を

高めていくようなイメージです。

また、観は、苦の根本原因である

「無明」を自覚して、

それを脱することに目的をおきます。

 

 

ですので、どのような思考で、

心と向き合っていくのかが、

ポイントになっていきます。

 

 

”内観術”においては、

もう少し簡単に定義しています。

無明を自覚するというのは、

自分が気づいていないことを気付くことです。

そして、無明を脱するというのは、

今まで、気づかなかったことに気づいて、

その気持ちを認めていくということです。

 

 

怒りや傲慢などの

強い情動によって、

人は、我を忘れてしまったり、

本来の目的を忘れてしまいます。

 

 

そこで、改めて、

自分の考えや気持ちに向き合うことにより、

忘れていたい気持ちや想いに気づきます。

 

 

そうすることにより、

本来の自分を思い出して

内面を変えていきます。

 

 

それによって、

他人との接し方、

ひいては、周りや社会への

関わり方がより良く変化していきます。

 

 

この人が嫌いという気持ちが

先行してしまえば、

その人のことはずっと嫌いのままです。

見ただけでもイライラしてしまいます。

 

 

しかし、本来は、

どうして欲しかったのかという、

その気持ちに切り替えができれば、

その人と人間関係は、

良いものに変わっていきます。

 

 

なかなか、うまくいかないという場合には、

何か他の物事が引っかかっていることもあります。

人に対する感情は複雑ですので、

年月が積み重なるほど、

感情が絡み合っていきます。

 

 

しかし、絡んでしまったモヤモヤも、

丁寧に解いていけば、

元の気持ちは必ず見つかります。

人間は他人に対する愛情があるので、

生きていけます。

 

 

諸法無我なので、

自分に対する愛情と

他人に対する愛情も

同じようなものです。