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One of 泡沫書評ブログ

世の中にいったいいくつの書評ブログがあるのでしょうか。
すでに多くの方が書いているにもかかわらず、なぜ書評を続けるのか。
それは、クダラナイ内容でも、自分の言葉で書くことに意味があると思うからです。

日本のお金持ち研究/橘木 俊詔
¥1,890
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多忙を理由に更新をサボっていたら、ブログをやっていることを忘れてしまっていた。

久々に立ち上げたPCで、いつものように「ニコニコ動画」につなごうとしたときに、「お気に入り」にアメーバブログがあることに気付き、「ああ、そうか」という感じである。まったく、知的怠惰もはなはだしいが、ニコニコ動画のすばらしさの前には時間が過ぎるのも矢の如しである。



冒頭から話が逸れすぎているが、この本はこれまで学問的に研究がなされていなかった、日本の富裕層についてその実態を明らかにしようとした本である。「いかにして富豪になるか」という方法を論じた本は雨後の筍のように量産されているが、そもそも、日本における富豪というのはどういう人なのだろうかという問いに答えようとした本はなかったのではないだろうか。そういう意味でなかなか貴重な本といえよう。


しかし問題がないわけではない。おそらく著者も自覚のうえであろうが、とりあげたサンプルが少なすぎる。統計学についてとくに造詣が深いわけではないが(学生時代の「熱統計力学」は三年間連続で落としたくらいだ)、あまりに母集団が少ないサンプルをもとに論じているのではないか? という感想をもった。しかし、これは致し方の無い面もある。なぜならば日本ではこうした「高額所得者」たちの実態について、明らかにできるような白書の類が公開されていないそうであるから。そういえば本書(単行本)が書かれた2005年時点ではまだ長者番付は公示されていたが、現在(2008年)は既に廃止されている。まあ、こうしたセンシティブな情報を軽々しく閲覧できるのもどうかと思うが、一方で実態を把握できないのもどうかと思う。難しい問題であろう。


さて、こうした問題を踏まえたうえで、著者らの結論によれば、日本のお金持ちは大別して「都市圏の企業経営者、および全国の開業医」に集中しているという。前者の資産平均は72億円、後者は18億円だそうだ。わたしのようなヘボリーマンからすれば、想像もできない額だが・・・。


この本ではさらにもう一歩踏み込んで、ただのお金持ちの分析から、「パワーエリート」いわゆる金を持っているわけではなく権力をもっている階層(=超大企業の経営層、政治家、キャリア官僚)などとの対比も学問的に解説してくれている。このあたりが、おそらく著者の専門分野なのだろう。筆も軽やかに(?)感じる。ただしこのくだりは社会学や経済学の専門知識が無ければ軽く読み飛ばせない。


5章以降はもう完全に学問の世界、税制などの議論にいたっては源泉徴収される身にとっては難解極まりなく、何が書いてあるか実感として理解できない。このあたりはもう少しゆっくりできるようになってから、再読したい。



日本の「成功モデル」としては、これまで「一流大学に入って、一流企業に入り、出世すること」というようなことがまことしやかに語られてきた。すごろくでいえば、東芝や松下のような一流企業のトップになることか、キャリア官僚の最終地点である事務次官、もしくはその先の政治家になること、などが「上がり」に相当していたわけである。「末は博士か大臣か」などというとあまりにも牧歌的過ぎるかもしれないが、いまや長者番付をみるまでもなく、カネを手にしているのは消費者金融やパチンコ製造業などを始めとする、いわゆるメインストリームからはずれた業界のオーナー経営者である。任天堂の岩田氏や楽天の三木谷氏などの巨額な収入も、そのほとんどが持ち株からの配当であることはいうまでも無い。


まさに、現在の日本における階級というのはまさに混沌としてきているといえよう。たとえば、(犯罪を犯してしまったとはいえ)堀江氏と三木谷氏の違いというのが、このカオスっぷりを象徴しているとしか思えない。いずれも「どこの馬の骨?」には違いないと思いきや、かたや東大中退の愚連隊みたいな経営者、方や日本興業銀行出のエスタブリッシュメントであったというオチ。しかしながら、銀行を定年まで勤め上げても三木谷氏ほどの富は得られない。しかし、三木谷氏では日本経団連に巨大な発言権はなく、政治化とのつながりもあまり深くならない。


目に見えない「階級」を強く再認識させられる本でした。というか再読したあと、再度書評にかけます。これじゃ何を書いているか自分でもわからん。中学生の読書感想文かwww

それでもボクはやってない スタンダード・エディション

¥2,610
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先日、福岡で起きた今林容疑者による3人の幼児殺害事件の第一審判決が出た。巷間注目を集めていた「危険運転致死傷罪」は、実際には検察側のさまざまな「立証」がむずかしく、無罪となってしまう可能性が高いという。そのため、検察側は地裁の言い分を飲む形で大幅譲歩した結果、判決は「業務上過失致死傷罪」(と道路交通法違反)の適用のみにとどまったという。量刑は求刑懲役25年の実刑のところ、なんと懲役7年6月という吹けば飛ぶような「軽い」判決となった。


罪刑法定主義、疑わしきは罰せずの原則からいえば、検察側のこの行き方は概ね評価できよう。裁判所の機嫌を損ねてまで、無罪判決という「1かゼロ」のようなリスクを犯すのは戦術的にもまずいことは素人にもわかる。また、間髪いれずに控訴するあたり、検察側はまだ常識を失っていないと見える。形式主義のバカバカしさはここではあえて問わない。問題は、このザル法と評される「危険運転致死傷罪」の法的不備はいうまでもないが、そもそも「酒に酔っていたかどうか」が争点になるという、認識レベルの齟齬にあるとわたしは考える。


現在の司法(刑法)によれば、クルマの運転による「殺人」は「事故」になる。これはマスコミでも世間でも認識は同じだと思われるが、要するにクルマで人を轢き殺しても、殺人ではない、基本的には過失であるというスタンスである。だから、自然と「危険運転致死傷罪」の適用云々という議論になるわけだが、私などは、判決文にあるような「正常な運転ができないほど酒に酔っているかどうか」などはどうでもよく、そもそもこの今林容疑者が3人の子供を殺害したという点、この一点のみに注目すべきであると考えている。


むしろ酒を飲んで、クルマを運転したという時点で、これはもう「飲酒による無謀運転で第三者を無差別に殺害しようとした罪」ということで第一級殺人を認定するか、それとも第二級か、という議論になるべきだと考える。すなわち、適用するのはあくまで「殺人罪」であって「~致死傷罪」ではない。私は、この点において、すでにわが国の司法の限界を感じるのである。


当然、新聞記事の見出しにある「事故」という表現すら真実を評しているとは到底思えない。「幼児3人死亡」などとはもはや噴飯モノである。これは「福岡3児轢殺事件」とでも書くのが正しい姿である。


【参考記事】

3児死亡事故、「危険運転」適用求め地検が控訴


飲酒追突3児死亡事故・福岡地裁判決要旨



しかし、犯罪が変わると、司法は180度変わる。それが、「それでもボクはやってない」のテーマとなる、「痴漢」である。


痴漢についての議論は「性」が入り込むため、そもそも冷静な議論になりにくい。やれ「ジェンダー」がどうの、「男性は全員加害者」だの、どうでもいい方向に話が逸れてしまうからだ。そうした中で、あえてこの「司法の矛盾」をわかりやすく描き出して見せた周防監督の手腕はもっと評価されていいと思う。


なにしろわかりやすい。この手の映画は始めて観たが、改めて映像のインパクトを目の当たりにした感がある。これを評論で語るのはたやすいが、それでは万人に届かない。如何にわかりやすく、かつ、正確に伝えるということがベンチマークとなるなら、この作品は間違いなく満点である。


この作品のテクニカルなポイントはいろいろあるが、最も重要なのは次の二点だろう。すなわち、


「裁判は真実を明らかにするところではなく、無罪か有罪かを決定する場である」

「痴漢冤罪は、なぜか被害者の側に立証責任がある」


ということを、かなりわかりやすく映像で伝えている点である。私を含む多くの大衆の誤解はこのあたりに集中している。近代司法を未だに江戸時代の「お白州」のようなイメージでとらえているもの、刑事裁判と民事裁判の違いについて理解していないもの、検察というものがわかっていないもの、etc・・・


この作品は、さらに検察-警察の癒着(?)ぶりについてもメスを入れている。「起訴有罪率99.9%」についてもさりげなく語られ、それがまた前述の「裁判は真実を明らかにするところではない」という「事実」を浮かび上がらせている。まったく、大した手腕である。私のような「攻撃的な」ブログを書いている人間も注意しなければならないな。国家がその気になれば、私のようなゴミ一匹葬るのはアリをつぶすよりも簡単なのだから。




日本の司法は、専門家がなんといおうと、もはやその制度疲労は極限に達しており、まったく機能していない。専門的には何とでも理由はあるだろう。しかし、あきらかに裁判の目的がどこにあるのかわからなくなっている。犯罪者の更正、罪刑法定主義、疑わしきは罰せず・・・お題目は何でもいいが、そもそも、これらは何のために長い年月を以って熟成されてきた概念なのか? 法治国家とは何なのか? 専門家は、その精神を現実の司法に反映するように努力して欲しい。ツールに使う側が振り回されるようでは、本末転倒ではないか。


なお冒頭の今林被告は、驚くべきことに検察側とは逆の「量刑が重すぎる」(としか思えない)理由で控訴している。「クルマをぶつけられて、ブレーキも踏まない被害者たちこそが不注意だ。俺だけが何で」ということらしい。この続きは、めいめいで考えられたい。


【参考記事】

幼児3人死亡の飲酒運転、今林大被告が控訴



今日は趣向を変えて、時事ネタに少しコメントしてみようと思う。


テーマは、「成人式」。


この時期、毎年のように繰り返される「近頃の成人はなっとらん!」的な演出には、正直なところ、いい加減食傷気味の方も多いのではないか。とはいえ、ここのところテレビを観ていないので、本当にそうなのかどうかはわからない。まあ、極端なサンプルを取り上げて云々するテレビに対し、正面から反論したり怒りを表明したりするのは、すでに何年も前に成人した大人のやることではなかろう。ということで事件云々はともかく、始めからこの手の報道は観ないのが一番大人の対応といえるだろう。


さてWEBのニュースをみる限り、今年は特に何事も無く平穏に式が過ぎたところが多かったのであろう。たいした話題がないため、成人式で検索を引っ掛けたら以下のようなつまらない・・・失礼、当たり障りのない記事にぶつかった。せっかくなのでリンクさせてもらおう。これはオリコンが調べたという、新成人に聞いたアンケートの結果である。


新成人が尊敬するのは?~男性は父、女性は母


この手の質問をすると、近年の回答傾向をみるに、両親や家族を大切にするという指向がみられるようになったと感ぜられる。いい意味でとらえれば、家族のつながりを大切にするようになった、といえよう。しかし悪く取れば、小さくまとまった人間が増えたともいえる。


私はまだ30にもなっていない「若造」であるが、それでも近年の若者をみるに、実に小物が増えたなという感想を持つ。とくに、20を過ぎても未だ実家暮らしを続け、経済的に、また精神的にも独立が遅れていた人間はそうなっているような気がする。もちろん統計を取ったわけではなく、私の身の回りをみてそう感ずるだけなので、マクロにみてただしい観測かどうかはわからない。ただし、明らかに私の身の回りでは、未熟なまま20代後半を迎えた人間が多い。


なぜそうなってしまったのか、その原因を探るべく、さりげなく生い立ちや学生時代の経験、スポーツの経験の有無などを聞いてみたりするわけだが、その結果、少ないサンプルながら、概ね次のような人間は、未成熟なまま年齢を重ねてしまった可能性が高いと感じられる。一例としてあげてみると・・・(註:男性限定です)


・実家暮らしが長い。または、実家から出ようと思ったことがほとんど無い

・彼女が居たことが無い

・部活動、サークル活動などの経験が無い

・本を読まない

・4年生大学または大学院をストレートで卒業している


要するに、何も考えないで人生を送っているとこうなる、という典型例である。もっとも摩擦の少ない人生であることがわかるだろうか。一人暮らし、アルバイト、彼女を作る、部活動に打ち込む・・・どれも、社会生活を送る上で必須条件ではないことばかりであるが、これらをすべて回避して成長すると、のっぺりとした能力が形成されるのであろう。(いい過ぎだろうか?)


不思議なことに、女性の場合は上記に当てはまっても、それほどでもないことが多い。というより、女性の場合は上記に当てはまる子のほうが成熟しているような気もする。(本くらいは読んだほうがいいと思うが)やはり、男性と違う哲学を生まれながらにして持っているのであろう。しかしここでは女性については深入りしない。


こういう人間はマスコミが作り上げた虚像かと思っていたが、意外にたくさん居ることを知って愕然としてしまった。こういう人間を目の前にすると、さきほどの「尊敬する人、自分の親」などという新成人をみるにつけ、素直に「すばらしい」などと頷けなくなってしまうのである。


20年も生きてきた結果、自分が尊敬できる頭脳や見識を持った人間が自分の親とは、あまりにも視野が狭いといわざるを得ない。もちろん、自分の親がイチローだったりビートたけしだったりすれば話は別であるが、おそらく多くの善男善女の親はどこにでも居るタダの大衆であろう。個別の状況だけ考えれば、自分をここまで育ててくれたことに感謝したり、大学に行かせてくれたりした(のであろう)から、それに対して感謝することは、人間感情としても頷けるものである。しかし、それにしても、ただ育ててくれたこと、それだけを以って尊敬するとは、他に何か考えるところはないのか、といいたくなる。いや、余計なお世話であることは十分に、誰よりも私自身がわかっている。わかっているが・・・


大衆が大衆を尊敬して、大衆を拡大再生産するというのはただしいあり方なのかもしれない。たとえば新成人の尊敬する人第一位が「北一輝」などということにでもなれば、政府は大童であろうw 若者がそうならないように仕向けるのが、エスタブリッシュメントのもっとも優れた政策なのであろう。というようなことを、成人式のニュースをみて感じました。新成人に幸あれ。

文庫版 狂骨の夢 (講談社文庫)/京極 夏彦
¥1,020
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人気作品をみだりに取り上げることは、とりもなおさず自らの見識の浅さを露呈することに他ならないことを誰よりも強く自覚しているため、たびたび再読するものや、強く影響を受けたものについては、あえて書評で取り上げないことをポリシィとしている。


しかし、今般、「魍魎の匣」を再読してからというもの、京極堂の放つ怪しげな光に取憑かれてしまった。まさに「憑き物落し」が必要であろう。まったく、情け無いことこの上ない。


本作のテーマはフロイトの精神分析、先天性相貌失認、ハンセン氏病そして真言立川流である。といっても、このあたりの知識は普通のひとにはあるまい。もちろん、私なども、ただその名前を聞いたことがある、という程度の予備知識しかない。だがしかし、ここで真言立川などというものを推理小説(?)に持ち込もうとし、それを見事にエンタテインメントとして成り立つ水準に昇華している手腕たるや、まさに鮮やか、という以外に語る術を持たない。それほど、京極夏彦のペダントリィは言語に絶するものである。


先天性相貌失認とは、生まれつき人の容貌を把握できないという疾患のことである。私は、個人的な理由からこころと脳の相談室 というウェブページをよくウォッチしていた。そのため、こうした疾患があることをよく知っていた。また、後醍醐天皇という歴史上の人物が、あまりにも強烈だったため、その彼が真言立川流の行者であったこともまた知っていた。そしてその教義の一端も。もちろん、詳しくは知らない。だがそれで十分であろう。知りたい人は参考文献にあたってみられるとよいが、おそらくこの手の話は必ず、差別と偏見に満ちた分析から免れ得ないであろうから、その点は十分に慎重になられるがよいと思う。素人目にもこの手の話は語るに難しいことが容易に解る。それこそ、京極堂ではないが、情報の受け手の「憑き物を落として」からでなければ、客観的な議論などできないだろうと想像する。だからこそ、私のように精神薄弱な人間はそれを外側から語るだけでも十分に魅惑的であり、本来の意味を外れたところにあっさりと魅了されてしまい、逆説的な意味での差別者になってしまうであろう。十二分に自戒するところである。


こうしたものが、本当に常識として世間の差別や偏見から自由になるのはいったいいつになるであろうか。しかしわれわれ人類は教育によっていわれなき偏見や差別を克服してきた。真に科学的な思考は必ず偏見を超克する。京極夏彦の作品はそうした私の思いが、まるで夢物語で無いことを再確認させてくれる。


少々個人的な思いが先行しすぎてしまった。酔っているということで、今回は筆足らずをご容赦願いたい。以上。

よつばと! (1)/あずま きよひこ
¥630
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漫画である。


活字ばかり読んでいない、視野の広さを誇ろうというのではない。


こんなところで告白しても仕方が無いが、わたしは以前、漫画家を志したことがある。といっても、正確には、何か投稿するとか同人誌を作るとか、そうした具体的な行為に結びついていないので、妄想していたというのが正しい。まあどこにでもいるアキバ系のオタクの一人として、授業中にいつもノートに絵を描いているような、その程度の話だ。いまでも、そこそこ描けると自負しているが、数年前まではそれこそ毎日何か描いていた。高校・大学は机に向かっていることが多いのでまさに蓋然と言えよう。さて、そのときに絵のテキストとして最も参考にさせていただいていたのが、パイオニアLDC系の「ムック」である。あずまきよひこは、そこでおまけ4Pや2P漫画を描く、商業誌系同人作家(こんな言葉があるのかどうか、知らない)のはしりだったと記憶している。


作風自体はおそらく変わっていない。「プリティサミー」「天地無用」「神秘の世界エルハザード」など、90年中盤はエヴァンゲリオンの影響なのか、田舎の本屋でも結構その手のムックが手に入った。結構な値段がするのだが、貴重な原画やセル画があるのは絵描きとして嬉しいものだった。また、もっと期待していたのが、欄外や巻末にあるおまけのコーナーである。ここに、あずまきよひこは必ずパロディを描いていた。つまり、誤解を恐れずに言えば、明らかにメジャーではない、マイナーな絵描きの一人に過ぎなかったということだ。しかも、かなりメインストリームから外れた。



ブレイクしたのは言うまでも無く「あずまんが大王」のヒットに拠るのであろう。このころから、背景などにも力が入る、というより、入れられる環境が出来たのであろう。「よつばと!」と比べると、これまで家内制手工業だったものが急に工場生産となったような趣に変わった。作画もかなり安定してきているように思える。これを進歩と見るか、商業化による「退化」と見るかであるが・・・私はもちろん「進化」とみる。私だっていつもいつも変化球だけ投げているわけではないよ。いいものはいい、とそう申し上げているだけだ。


さて以上は所謂前フリである。長い前フリは、本来必要の無いものである。残したのは、私が文筆家としてアマチュアだからである。プロなら削るだろうが、アマチュアは仕事ではないので書きたい放題なのだ。だから、せっかく書いたのだから残しているのである。読んでくださった方は本当にご苦労様です。



作品の批評にうつろう。


有名な作品であるから、例によって書評は結構いっぱい出てくる。ためしに「よつばと 批評」でググってみてほしい。わりと鋭い意見が多くて驚くのではないか。こういう人の意見 を読んでいると、だいたい自分の考えていることと同じで、しかもそれをきれいにまとめており、いちいち書く気力を失う。


私の感想はというと、端的にいえば、「性的な部分を巧妙にラップした、どこかにありそうで、絶対に存在しないユートピア」を描いた作品といいたいのだが、プロはそのへんをきっちりとコピーにまとめている。たとえば、三巻のオビはこうだ。


「どこかで

 見た、

 どこにも

 ない場所へ」


言いえて妙である。さすがはプロといったところか。「よつばと!」の世界観をよく表していると思う。


しかしながら、この優秀なコピーにも欠けていると思われるのが、「性」についての断面である。だがこれは当然のことなのかもしれない。作り手の側はそれを隠蔽することで、オタクマーケットに対して清浄なイメージとともに「よつばと!」をマーケティングしているのだから。


どういうことか、もう少し説明させていただきたい。


私は、この作品の受け止め方には、大まかに二種類あると思う。ひとつは、よつばを中心とした日常をほのぼのとしたタッチでつづった、癒し系の作品という文脈である。発表される媒体が大きければ大きいほど、こうした意見が多数派を占めるに違いない。確かに主人公はよつばであり、この「どこかで見た日本の原風景」は、よつばの視点から描かれているのは論を待たない。間違いではないと思うが、しかしこれはあまりにもいい子ぶった見方とはいえまいか。


もう一つの受け止め方とは、「とーちゃんを中心とした、風香とあさぎ・ジャンボを交えた、甘いようで性的な恋愛に発展する可能性を秘めた萌えを感じる」というような行き方のことである。私のような多くの「アキバ系青年」が感じるのではないかと思うが、どうだろうか。自分で書いていて見も蓋もないと思うが、世の多くの同人誌やギャルゲというのは、こうした妄想を出発点として創作意欲をかきたてているというのが事実なのだから、仕方があるまい。そして、版元である角川はこうした「文脈」はまさにお家芸といっていいほど、得意中の得意なジャンルのはず。こうした状況から鑑みるに・・・


この、とーちゃんと風香を中心とした文脈というのが、「よつばと!」の本質的なヒットの原因なのではないか。


私のようなオタクには、そう見える。そして、それを巧妙に隠蔽して、よつばの無邪気さや作品全体のほのぼのさでカムフラージュしている。だからこそ、文化庁などという堅いお役所で取り上げられたのであろう。しかしもちろん、文化庁殿が支持しているのは「よつばの文脈」である。決して「とーちゃんと風香」の文脈ではない。しかし、この作品を大ヒットたらしめているのは、後者の見方であると私は確信するのである。


そう思えばこの作品は一般の方にも薦め易い本といえよう。前者の見方をする人は、勝手にこれをほのぼの漫画と受け止めてくれるであろう。しかし薦めたほうが、まさかギャルゲ的な穿ち方をしているとは夢にも思っていないであろう。こうした断絶を内包しつつ、名作であるというのが、やはりヒット作たる所以というべきか、いやはや。

魍魎の匣


映画のほうである。


年末、カウントダウンなどというわけのわからない行事に浮かれる連中を尻目に、レイトショウで観てきた。じつは前作「姑獲鳥の夏」も映画版を拝見したのだが、京極作品は映画に向かないな、という感想を持った記憶がある。今回も想像通りというかなんというか、やはり京極作品は映画というメディアに向かないという感想を強く持つに至った。京極のペダンティックな作風は、活字でこそ活きる。


が、と言い切ってしまうと面白くもなんとも無いので、見所を挙げてみよう。


まずはキャストだ。私が考えるところのもっともハマった役は、京極堂こと中禅寺秋彦の妹、敦子その人である。田中麗奈。猫のような元気娘、ネコ娘(というか、まさに猫娘だったわけだが)という意味でイメエジ通りである。演技も大根で無いところが良い。


続いて榎木津礼二郎である。これには「結婚しない男」阿部寛が中々どうしてハマっている。しかし、繰り返しになるがやはり活字の榎木津と違い少々常識人となってしまっている。物語の進行上、致し方の無いこととはいえやはり残念であろう。とはいえ阿部寛以外ではもっと抜けて見えるであろうから、やはりハマっているほうと言えるのではないか。


一方で京極堂こと中禅寺秋彦は堤真一である。これは前作から思っていたことだがやはり妙だ。堤真一は名優ではあるが、京極堂の陰鬱な感じがまるでないのが良くない。やはり、京極堂だけは京極夏彦本人がやるべきであろう。明らかに京極堂のイメエジは京極夏彦本人である。が、今の邦画界を見渡してみても他に居ないのであろう。そういう意味では可も無く不可も無く、といったところか。


なおそれ以外は一様にいただけない。唯一、美馬坂博士のみは柄本明の無表情さが良かったような気もしないでもないが、木場役の雨上がり宮迫などは完全なミスキャスト、柚木陽子役の黒木瞳などは年を取り過ぎであって見ていて非常に違和感を持った。また久保竣公役のクドカンなどは完全なミスキャストだ。一方で青木刑事役の堀部圭亮と荒川良々はそこまでひどくなかったが、このへんは誰がやっても良かったのかもしれない。まあ、どの道脇役は脇役である。


しかし一番ひどいのは我らが関口巽役の椎名桔平であろう。どう考えてもおかしい。関口だけは前作「姑獲鳥の夏」からキャストが変わっている。(前回は永瀬正敏) 椎名はよろしくない。はっきりいってまるでダメである。なぜなら目鼻立ちがはっきりし、しかもはきはきしゃべる。こんなのは関口先生ではない。第一サルっぽくない。永瀬のほうがもっとサルっぽくて良かった。おどおどした感じが出ていてよかった。本作品をダメにしている最大の元凶は、おそらく椎名というミスキャストにあると思う。(椎名桔平は「不夜城」で富春の役をやっていたが、ああいうのがハマり役なのだろう。こうした陰鬱な、自信のないダメな人間をやらせてはダメだ)


と、勝手なことを述べてきたが、続いて内容の批評に移ろう。といっても既に大まかな感想は述べたとおり、京極作品は活字媒体に限る、と思う。映画は特にダメだと思う。なんせ尺が足りない。どうしたって説明不足になるし、脚本を追うだけで時間があっという間に過ぎてしまう。今回などあまりに急ぎ足だったもので、原作を知らない人間は間違いなく置いてけぼりを食ったであろう。しかしこれは脚本家が悪いのではない。メディアの制約上致し方の無いことなのだ。なんせ原作は1000ページを超える、あのクソ分厚い「サイコロ本」である。これを2時間少々の邦画枠に収めようと言うほうがどうかしている。テレビドラマなら最低でも1クールあるが、2時間じゃあ昼のサスペンスと同じ尺しかないのだ。これで京極節を説明しきれる脚本家が居たらまさに京極夏彦も脱帽であろう。



というわけで、映画は、熱心な京極ファン以外は、観ても得るところ少なし、であろう。



ちなみに私はこれに触発されて文庫版を再読した。二日かかったがやはり活字で読むべきだと再確認した、とだけ付け加えておこうか。なお京極夏彦様のご尊顔はこんな感じ である。


何がすごいって、活字に対する愛情がすごい。京極夏彦は、手放しで尊敬できる頭脳である。


「みんな『本が高い』って言っていましたが、高くて当然だと思ってたんです。こんなにおもしろいのに、何を文句言うんだろうって。『書いて、ハイ、出しました』というものではないはずでしょう。何人かの編集者なりの目を通って、おもしろいから出そうということになるわけで。ありがたく読むわけです。おもしろいはずなんです。読めば読むほどおもしろくなるんです。おもしろくなるまで何百回も読みます」。


言うことが違う。やはりモノが違う、というところで、今年第一発目はこれでおしまい。

田中 森一
反転―闇社会の守護神と呼ばれて

ようやくネット難民から脱却、フレッツ光によるネットワーク接続生活に入ることができた。フレッツは妙な接続方式で、いちおうそういう業界なのだが理屈がよくわからない。なんとなく不安だ。まあ、どうでもいいことである。

さて、超多忙の中にあって、何かに抵抗するように本を読んでいた。今回取り上げるのは流行りモノで恐縮だが、田中森一の半生記である。


この人、よく知らなかったのだが、本からただよう異様な黒さが前々から気に入っていた。版元は幻冬舎だし、オビもそれっぽい。しかし、流行に乗るのが癪だから敬遠していたのだ。買う気になったのは、「SPA!」で宮崎御大とこの本の著者が対談していたのを読んだから。


田中は元検事の弁護士、いわゆる「ヤメ検」なのだが、弁護する対象が一般に言うアウトローやバブル紳士ばかりだったため、「闇社会の守護神」などと呼ばれており、古巣の東京地検特捜部などからは蛇蝎のごとく嫌われていたようだ。現在は石橋産業事件をめぐる詐欺容疑で逮捕・起訴され、上告中だという。


昭和史とそのままリンクするようなかれの半生は、敗戦の2年前、1943年に長崎県の田舎町・平戸ではじまる。漁師の長男としてうまれたかれは、当時の田舎にあっては難しい進学という道を選んだ。その後、岡山大学法学部に進学、司法試験に合格したという。


大阪地検で活躍した後、東京地検に異動、そこではエース検事として多数の事件を扱ったが、上層部との軋轢が原因で退職、弁護士に転身した。日本がまさにバブルに浮かれている真っ只中で、著者の「反転」人生はここからはじまる。


バブル時代、「バブル紳士」といわれた多くのフィクサーや、今のようなショボくれた代議士たちとはちがうタフな政治家、そしてヤクザが織り成す昭和史は、わたしのような第二次ベビーブームに生まれた世代からすれば別世界のように感じられ、それがたまらなくエキサイティングである。おもしろい。


安倍晋太郎に竹下登などの大物代議士、許永中や伊藤寿永光といったフィクサーたち、そして山口組若頭の宅見勝。こんな人物たちと渡り合っていたというのだから、並みの弁護士ではない。


著作の節々に見え隠れする「アウトローへの親近感」は、かれが生来のアウトロー弁護士であることをうかがわせる。なぜアウトローに肩入れするのか。田中が自ら分析するに、貧しい少年時代を送っていたため、エスタブリッシュメントへの対抗心みたいなものが原因だという。その気持ちは非常に良くわかる。検事時代も、叩き上げの検事は非常に有能であり、一方で出世するエスタブリッシュ検事は、生まれも育ちもよいお坊ちゃんが多く、そういう人間が出世し、また、エスタブリッシュメントに組み込まれていく。日本に、未だ階級が存在するということを再認識させてくれるくだりである。


著者の周りにいたバブル紳士たちは、バブル時代ということもあっただろうが、とにかくカネの使い方が半端でなかったという。その心底には、極貧の生まれであることに起因するエスタブリッシュメントへの屈折した感情があったのではないかと、著者はいう。カネを出せばいい女が抱ける、格式のある人間がひれ伏す。そのために札束で頬を叩くというわけだ。これをさもしいと思うか、惨めだと思うかはひとそれぞれだが、わたしはすばらしいと思う。


カネがあればエスタブリッシュメントすらもひれ伏す。しかし、その先にいる本当のエスタブリッシュメントはそうしたハネッ返りをさまざまな権力でもって圧殺する。そういう日本の構図が改めてよくわかる。田中も、おそらくその犠牲者の一人なのだろう。しかし、だかといって決して善人ではない。善人ではないが、だからこそ人情などという大時代的な感傷を感じずにはいられない、そんな読後感である。かなり、オススメ。


なお、仮に石橋産業事件が本当に詐欺事件であり、かれがそれに加担していたとしても、わたしは別にそれを倫理的に責める気には到底、なれない。エスタブリッシュメントにたいする闘いを挑んだ人間は、左翼でも右翼でも、賞賛に値する。事実がどうあれ、行動によってかれはそれを証明したのだから。

職場砂漠 働きすぎの時代の悲劇(朝日新書 58) (朝日新書 58)/岸 宣仁


¥735

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最近、新書ばかりで恐縮だが、時間が無いのでついつい・・・




本書を手に取った理由は、書店でぱらぱら立ち読みしていたところ、「日本語の過労死は、そのままKaroshiとしてそのまま英語になっている」という文章を目にしたからだ。なるほど、と思ってもう少し読んでみたところ、「どうやら月間の超過労働時間が50時間を超えると、肉体的にも精神的にも疲れを感じる人が多くなり、身体からSOSのサインが出始めるようだ」とある。




正直なところ、わたしは驚いた。入社して以来、超過労働が50時間を下回ったことなどほとんどない。というより、超過労働は50時間くらいを平均して推移するものだ、という認識すらあった。普通に働いていて、17時に仕事が終ったことなどないし、ホワイトカラーとはそういうものだというあきらめがあった。




日本人は働きすぎだといわれる。自分でも自覚しているが、確かに日本人は(と、あえて普遍化するが)、働くということに、欧米人やイスラム社会のひとびと、タイやフィリピンのひとに比べて違うエトスを持っていると思う。これまで多くの日本人論、歴史の本を読んできて、強く、そう感じる。まさにそれこそが、戦後の未曾有の復興を演出した原動力なのだろうが、いまは、果たしてそれがいい方向に働いているだろうか。




自分自身が働きすぎなことに対しては、われながら哀れみを感じるし、おかしいと思っている。じつに、あほらしいと日々思わない日は無い。ここまで会社、というよりも、アメリカ資本の下、自民党+日本経団連をピラミッドの頂点としてわが国を形作るエスタブリッシュメントたちの歯車として、末端で毎日ぐるぐる回っているのは、ただ、悲しい。こんなことを続けているのはひとえに生活のためである。おそらく、そういう人がほとんどなのではなかろうか。




本書はそうした日本の労働の現場について、過労死だけでなく、それを助長するようなパワーハラスメント、偽装請負、派遣労働などについても精力的にルポしている労作である。現在のように労働組合が陳腐化し、相対的に労働者の力が弱くなっているいま、あらためて「労働者の権利」を見直すためにも、こうした本を手に取ることは無駄なことではないだろう。とくに若い人は、かつては労働組合というものが大きな役割を果たしていたという歴史を知るべきだろう。労働者は、経営者すなわち雇用主からすれば非常に弱い立場にある。そのために、われわれは団結しなければならないのである。また、人を使う立場になったとしても、こうしたことは忘れないでいたいものだ。




さいごに、本書でも遠慮がちに触れられているが、日本におけるエスタブリッシュメントの頂点に立つのは自民党と、その配下の財務省、外務省、経済産業省といった政官界、そして、忘れてならないのが日本経団連を中心とした財界である。とくに、労働者にとってこのブルジョワジーの元締めともいえる経団連は巨大なエスタブリッシュメントとして眼前に立ちはだかっている。偽装請負を合法化しようとする動きや、派遣社員の地位向上を認めない発言、そしてホワイトカラー・エグゼンプション。一度回り始めた歯車を逆に回すことは非常に難しい。歯車が回ってしまう前に、なんとかしなくてはならない。




経済的な問題は、政治的・歴史的な問題よりももっと直接的にわれわれ人間の生き方にかかわってくるし、尊厳にもかかわってくる。だのに、なぜこうも経済人というのはクリーンなイメェジで捉えられているのであろうか。巨大な資本を持つ人間は、巨大な軍隊を持つのと同じくらい、人の生き死にを左右できるのに。

2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? (扶桑社新書 14)/西村 博之
¥777
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わたしのこの拙い書評だが、アクセス数がそれなりに急増した日がある。それが拙ブログ「中年童貞 」の回なのである。わたしは別にアクセス数を増やそうと思っておらず、むしろある一定の法則に基づいて機械的に作業をするようにこころがけている。たとえばブログのタイトルは、書評なら必ず題名をつけるようにするなどとし、なるべくキャッチーにならないようにしている。また、内容についても、自分で言うのもなんだが大して秀逸なわけではなく陳腐なものだ。であるのに、アクセス数にムラがあるというのは、ひとえに出版社のタイトルマーケティングが秀逸なことによるのであろう。


そのなかでも扶桑社新書は、ひとびとの気になるところを突くのが非常にうまいのではなかろうか。今回も、話題になりそうな著作である。なんせ、あのひろゆきの書いた本なのだ。(しかし、このタイトルはいただけない。また「なぜ○○は○○なのか?」という、お決まりのタイトル。いくら売り上げのためとはいえ、これはあまりにも芸が無い)


アメーバブログをやっていてひろゆきを知らない人はいないと思うが、あらためて紹介すると、かれは日本最大級の電子掲示板「2ちゃんねる」の運営者である。「2ちゃんねる」はあくまでもひろゆきの個人掲示板であるにもかかわらず、日本で最もメジャーな掲示板であるところが、ひろゆきを特異たらしめている。やはり、規模があまりにも巨大だからであろう。「ふたば」は知らなくても、「2ちゃんねる」は知っていたり、あるいはまた、大マスコミが言うところの「インターネットの掲示板」といえば「2ちゃんねる」のことであったりと、そのネームバリューは明らかにその「規模の巨大さ」によると思われる。


どうも話が発散してしまう。


わたしは「2ちゃんねる」にはそれほど造詣が深くない。昔、少しアクセスしていたことがあるくらいで、いまは意識的に「2ちゃんねる」には近づかないようにしている。それは、尾篭な話だがついつい「荒らしてしまう」からであり、あそこに書いてあるようなことを余裕をもって流せないからだ。つまり、「釣られる(*1)」ことが多い、「リア厨(*2)」だから自粛しているわけだ。よって、いまはどちらかというと「2ちゃんねら」と呼ばれる人たちの二次情報によって、「2ちゃんねる」の今を推し量っている点をご了承いただきたい。VIPPER(*3)は知っているが、わたしはVIPに行ったことはない。そのレベルである。


(*1)釣られる:ウソやネタなどに騙されたりして、感情的になってしまうこと

(*2)リア厨:リアル厨房、すなわち中学生(中坊=厨房)のこと。転じて、思慮の浅い、精神的に未熟な人間のことを嘲弄して使用される。類語に「消防(小学生)」というものもある。

(*3)VIPPER:「2ちゃんねる」の代表的な掲示板群のひとつである「VIP板」に集う人たちのこと。もっとも「2ちゃんねる」的であり、「2ちゃんねら」のメンタリティをよく表していると考えられている。


「2ちゃんねる」は、かつて西鉄バスジャック事件の「ネオむぎ茶」で一気にメジャーになり、大マスコミからは反社会的のレッテルを押され、まるで犯罪の温床のように言われていたり、その匿名性が問題にされていたりする。また一般に企業や学校などでは、「2ちゃんねる」へのアクセスはブロックされていたりすることが多い。その意味で、一般通念としての「2ちゃんねる」は、色々な議論があるにせよ、どう考えても「ろくでもないところ」として認識されているといってよい。


本書では、こうした話題に事欠かない「2ちゃんねる」について管理人自らが分析を披瀝するとともに、現在のIT業界やインターネットの現在と未来についてもその鋭い分析が披露されている。キィワードだけ挙げれば「Web2.0」「グーグル」「ガンホー」「セカンドライフ」「YouTube」「Winny」などなど・・・。「時代に取り残されたくない!」「2ちゃんねるは既存のメディアのあり方を根本的に変える!」などとインターネットに過剰な期待を羨望を抱いている人は必読であるといえる。一回、冷静になるためにもひろゆきの「悲観的」な意見を聞いてみるのもいい。ただし、意外に(?)、かなり技術的なアプローチで論じられているために、コンピュータリテラシのない人には少々難しいかもしれない。


ひろゆきは本書において、自らの「2ちゃんねる」を評して「基本的には需要があるぎり、2ちゃんねる的なものはなくならない。2ちゃんねるがなくなれば、誰か他の人が似たようなものを作るはず。しかし、だからといって、2ちゃんねるがそれほど大した存在であるわけではない。エスタブリッシュメントから見れば、今も昔も取るに足らない存在である」という趣旨のことを語っている。慧眼といっていいだろう。かれは管理人であるが、拘泥していない。そこがひろゆきのすばらしいところでもあり、成功の秘訣でもあるのだろう。そこには、「釣る」側と「釣られる」側の、明らかな断絶が見え、いつまでも「釣られる」側にいるわたしのような凡人からすれば、少々切ないことであるが。


わたしの「2ちゃんねる評」は、「大マスコミの一枚岩体制に蟻の一穴を開けた偉大なるカウンターメディア」であり、「マス的なメディアリテラシを向上させるための言論機関」であるが、それ以外にあまり意味は無く、多くの場合は、単なる衆愚に過ぎないというものだ。ひろゆきとは少し異なるが、「ある面ではすばらしい意見や認識も見える。が、基本的にはだいたい陳腐だ。ただ、大きいというところが特殊」という理解では一致していると思う。世の中と同じであろう。すばらしい人もいれば、ダメな人もいる。それだけのことである。利用できる人はすればいいし、騙される人はやめたほうがいい。


一点、残念なことが。いくら初版とはいえ、あまりにも誤字脱字がひどい。ちゃんと校閲しているのか、気になる。

犬神家の一族/横溝 正史
¥700
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画像がいっぱいあるのに、どれひとつとして今持っているやつと同じものが無い。わたしが読んだのは、角川文庫の改版23版。「今日の人権擁護の見地に照らして・・・」というお決まりの文がくっついている。


横溝正史といえば、日本の推理小説界でも特Aクラスの人物。わたしはミステリをあまり好んで読まないので知らないが、おそらく江戸川乱歩とかとタメを張るといっていいのであろう。要するに、本を読まない人でも知っているというクラス。


というわけで、かなり期待していたのだが、正直言って、あまり面白くなかった。あまり高尚と思えない表現、微妙な文章、わりとあっさりとした結末。ページを繰るのが面倒になったこともある。金田一耕助が意外に常識人だったのも残念であった。もっと破天荒な、人格の崩壊したような描写を期待していたのだが、それは裏切られてしまった格好だ。


たぶん、その理由は、現代エンターテインメントに慣れすぎているからだろう。入り組んだプロット、超絶技巧をこらしたトリック、二重三重に張り巡らされた伏線と、謎解きのカタルシス。そういうのが、ないと思ってしまうからだ。


だが、ここでわれわれが忘れてならないのが、この作品が生まれたのがまだわたしが生まれるよりもさらに昔、じつに40年近く前に発表されたということである。その当時、果たして日本人はそれほど精神において自由でありえたか。いまのわたしが当たり前に享受しているようなエンターテインメントの「幅」が、その当時にあったであろうか。答えは言うまでも無いだろう。


よって、ここで横溝作品を「技巧的でない」「陳腐」などと評するのは、手塚アニメを見て「コマが粗い」などと言っているようなもので、まことに歴史を知らないものの暴言というべきだろう。


とか何とか言いつつ、前に読んだ松本清張「点と線」は今の水準で見ても非常に面白かったなぁと、思わずにはいられない読後感でした。(横溝ファン、推理ファンには本当に申し訳ないが、だってイマイチなんだもん)