- 職場砂漠 働きすぎの時代の悲劇(朝日新書 58) (朝日新書 58)/岸 宣仁

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最近、新書ばかりで恐縮だが、時間が無いのでついつい・・・
本書を手に取った理由は、書店でぱらぱら立ち読みしていたところ、「日本語の過労死は、そのままKaroshiとしてそのまま英語になっている」という文章を目にしたからだ。なるほど、と思ってもう少し読んでみたところ、「どうやら月間の超過労働時間が50時間を超えると、肉体的にも精神的にも疲れを感じる人が多くなり、身体からSOSのサインが出始めるようだ」とある。
正直なところ、わたしは驚いた。入社して以来、超過労働が50時間を下回ったことなどほとんどない。というより、超過労働は50時間くらいを平均して推移するものだ、という認識すらあった。普通に働いていて、17時に仕事が終ったことなどないし、ホワイトカラーとはそういうものだというあきらめがあった。
日本人は働きすぎだといわれる。自分でも自覚しているが、確かに日本人は(と、あえて普遍化するが)、働くということに、欧米人やイスラム社会のひとびと、タイやフィリピンのひとに比べて違うエトスを持っていると思う。これまで多くの日本人論、歴史の本を読んできて、強く、そう感じる。まさにそれこそが、戦後の未曾有の復興を演出した原動力なのだろうが、いまは、果たしてそれがいい方向に働いているだろうか。
自分自身が働きすぎなことに対しては、われながら哀れみを感じるし、おかしいと思っている。じつに、あほらしいと日々思わない日は無い。ここまで会社、というよりも、アメリカ資本の下、自民党+日本経団連をピラミッドの頂点としてわが国を形作るエスタブリッシュメントたちの歯車として、末端で毎日ぐるぐる回っているのは、ただ、悲しい。こんなことを続けているのはひとえに生活のためである。おそらく、そういう人がほとんどなのではなかろうか。
本書はそうした日本の労働の現場について、過労死だけでなく、それを助長するようなパワーハラスメント、偽装請負、派遣労働などについても精力的にルポしている労作である。現在のように労働組合が陳腐化し、相対的に労働者の力が弱くなっているいま、あらためて「労働者の権利」を見直すためにも、こうした本を手に取ることは無駄なことではないだろう。とくに若い人は、かつては労働組合というものが大きな役割を果たしていたという歴史を知るべきだろう。労働者は、経営者すなわち雇用主からすれば非常に弱い立場にある。そのために、われわれは団結しなければならないのである。また、人を使う立場になったとしても、こうしたことは忘れないでいたいものだ。
さいごに、本書でも遠慮がちに触れられているが、日本におけるエスタブリッシュメントの頂点に立つのは自民党と、その配下の財務省、外務省、経済産業省といった政官界、そして、忘れてならないのが日本経団連を中心とした財界である。とくに、労働者にとってこのブルジョワジーの元締めともいえる経団連は巨大なエスタブリッシュメントとして眼前に立ちはだかっている。偽装請負を合法化しようとする動きや、派遣社員の地位向上を認めない発言、そしてホワイトカラー・エグゼンプション。一度回り始めた歯車を逆に回すことは非常に難しい。歯車が回ってしまう前に、なんとかしなくてはならない。
経済的な問題は、政治的・歴史的な問題よりももっと直接的にわれわれ人間の生き方にかかわってくるし、尊厳にもかかわってくる。だのに、なぜこうも経済人というのはクリーンなイメェジで捉えられているのであろうか。巨大な資本を持つ人間は、巨大な軍隊を持つのと同じくらい、人の生き死にを左右できるのに。