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One of 泡沫書評ブログ

世の中にいったいいくつの書評ブログがあるのでしょうか。
すでに多くの方が書いているにもかかわらず、なぜ書評を続けるのか。
それは、クダラナイ内容でも、自分の言葉で書くことに意味があると思うからです。

WHITE ALBUM アニメ公式ホームページ


驚くべきことにアニメ放映がはじまっていた。


やたらと豪勢な声優陣が、微妙に絵柄の異なる河田絵のキャラを熱演している・・・ようだ(見てないからわからない)。


WHITE ALBUMといえば「ここがあの女の・・・ハウスね 」しか思い浮かばないが、いちおう説明せねばなるまい。「WHITE ALBUM」とは、老舗エロゲーメーカー(?)の一角であるLeafが、大ヒット作「To Heart」の人気を背景に、満を持して発売した恋愛アドベンチャーゲームである。それまでのノベル形式を一新し、わりと本格的なアドベンチャー風味にモデルチェンジしたわけだが、残念ながら商業的には成功とはいえなかったようだ。しかし、わたしのような少々後ろ暗い過去を持った、90年代後半に大学生活を送っていた人間なら一度は耳にしたことがあるだろう。


このゲーム、彼女がアイドルになってしまい、疎遠になってしまう中、いろんな女性と浮気をするという、あらすじだけ見ると「なんだこれ」と思うようなシロモノである。具体的なデータがないのを承知で印象だけを語ると、当時の仲間内での反応は「うーん・・・」というものであった。やはり、「To Heart」の「陽」のイメージからすると程遠い、じつに陰鬱なストーリィだったからであろう。また、やっぱりウダルの世界観と文章が重く、とてもじゃないがエロゲの雰囲気に合ってないからだったからに違いない。さらに、システムが未成熟だったせいか、分岐でうまくフラグが立たない(いくらやってもコンプリートできない)ような記憶がある。じっさい、何度やっても森川由綺のフラグが立たなかったので、途中でプレイするのをやめた。


ひとことでいえば、中途半端なゲームであった。


今でもそう思うが、こういうチャレンジングな企画が通るあたり、当時の業界が勃興期にあったことをうかがわせる。当時のクリエイタは、さぞ、楽しかっただろうなぁ・・・。今のように数が多すぎることもなく、2ちゃんねる的なところもそれほど発達していなかった。ある意味牧歌的な時代だったといえる。「To Heart」の成功体験にこだわらず、あえて次作でこれをもってくるあたりは、評価したい。


それにしても、この「鬱」ゲー具合は、今にして思えば「君が望む永遠」への壮大なプロローグだったのかもしれない。主人公のヘタレ具合といい、爽快感のなさといい・・・

少し古い話になるが、今年1月5日の日経新聞コラム「春秋」で、「らき☆すた」のことが取り上げられていた。保存の意味も兼ねて、まずはここに全文を引用してみたい。



『先週末、初詣での客でにぎわう埼玉県の鷲宮神社に足を運んだ。日本武尊ともゆかりの深い関東最古の神社。そんな公式の由緒より、若い人には、女子高生四人組のほのぼのとした日常を描いた人気アニメ「らき☆すた」の舞台と言ったほうが通りがよかろう。


同名のマンガを原作とするテレビ番組の放映が二年前。四人組の二人がこの神社の娘という設定からファンが訪れ始め、昨年の初詣で客は前年の二倍を超す三十万人に。地元ではアニメをあしらった酒やせんべいも発売。今年も参拝客の列は商店街を長く延び、正月限定販売の関連商品には「売り切れ」の文字が並ぶ。


神の門前でアニメとはとまゆをひそめる向きもあろう。しかし日本の自社は昔から庶民が娯楽に興じ、ストレスを発散させ、悩みや苦しみを和らげる観光と消費の場でもあった(安藤優一郎「観光都市江戸の誕生」)。屋台に茶店、見せ物の小屋。アニメ愛好家が増えればそれを採り入れるのはごく自然な流れだ。


英語や中国語、ハングルで作品への思いをつづった絵馬も目立つ。地元への経済効果は一億円を超すという。アニメなんてと考えていれば人も富も町を素通りしたはず。きょう仕事始めの会社も多い。頭を柔らかく、心を広く。ビジネスの種は無限にある。国の景気対策を待つより早道かも。』



まさかの日経新聞「春秋」だが、ここまで真面目にらき☆すたを取り上げる日が来ようとは・・・しかも、タイトルの「らき☆すた」の「☆」についても忘れずにちゃんとつけているというのがすごい。コラムニストとしてのプライド(?)がそうさせているのだろうか。


いちおうGoogleで検索してみたが、さすが、ネットの中のひとは仕事が早い。

Googleで「らき☆すた 日本経済新聞」を検索

ということで、これ以上語る意味はなさそう。残りはGoogle先生に聞いてみたほうがいいだろう。

世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち (講談社プラスアルファ文庫)/副島 隆彦

¥1,050
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はじめにお断りしておくと、内容が難しすぎて(というより、濃すぎて)とても咀嚼しきれなかった。それほど、盛りだくさんの内容で、1,050円という価格も頷ける納得のボリューム感であった。正直なところ、あと3回くらい読まないと、内容が頭に入ってこないだろうと思う。


本書は、自他共にアメリカ通と認める副島隆彦氏の処女作(?)であるらしい。アメリカのことをよくわかっていない日本の評論家、知識人へのダメ出しが多く、どうやら世界覇権国アメリカのことを同盟国だと勘違いしている我が国の知識人が許せないようだ。そう、氏に言わせると、アメリカが世界のスーパーパワーであることは、議論の余地のないほど明らかな事実であるという。アメリカにとって、”日米外交”というのは存在せず、あるのは”世界覇権国アメリカの東アジア地域における周辺国外交”があるのみだと、そういうことらしい。少々極端だなと思わなくもないが、確かにこれまでの自分の知識、経験からも首肯できる面が少なくない気がする。北朝鮮外交にしても、中国外交にしても、思いやり予算にしても、年次改革要望書にしても、日本国憲法にしても、アメリカと日本が対等な国家と考えると非常に理解が難しいことが多い。だが、これを、「世界覇権国アメリカと、アジアにおける属国の一つである日本」という軸で捉えると意外なほどすんなりと頭に入ってくる。


まあ物事はそれほど単純ではないし、氏のルサンチマンが強烈に感じられるせいか、正直言って氏の主張を頭から受け入れることはさすがの私もためらわれる。が、本書の価値はけしてたんなる「トンデモ」などではないことはわかる。というのも、たんにアメリカの礼賛(?)に終始することなく、当時としてはかなり高い水準でアメリカの分析を行っているからである。たとえば、今は普通に使われるようになった「ネオコン(ネオ・コンサバティブ)」や「リバタリアン」などの政治勢力があることを喝破したのは、関岡英之氏などに言わせると「氏が初めてである」とのことだ。


私は無知にして(無知ほど楽なものはない!)、これまでネオコンとリバタリアンは同一の勢力だと思っていたし、またブッシュ大統領のようないわゆる共和党勢力というのは、総じてネオコンの一部で、かつ右派・福音派クリスチャンだと思っていた。だが、それこそアメリカという国はそんなに単純ではなく、かなり多くの政治的宗教的勢力が均衡し、共和党、民主党、リベラル、リバタリアン、グローバリスト、ネオコン、WASP等々、複雑すぎてとても初学者には理解できないようなレベルで、最高の頭脳がひしめきあっているらしい。まさに、近くて遠い国とは、アメリカのことなのかもしれない。


昨今のリーマン・ブラザーズの破たんに端を発する一連の金融危機に際して、専門家たちは口々に「世界覇権国アメリカの終焉」「ドルの基軸通貨としての地位転落」「アメリカ的グローバリズムの限界」などと指摘するが、はたしてそうだろうか。たとえば今、世界の中枢としての役割を、アメリカ以外のどの国が果たせるというのだろうか。すでに没落したかつての一流国の英国、フランスは言うに及ばず、かの中国や復権しつつあるロシアですら、アメリカの代替にはなりえないのではないか。中南米とにらみ合いつつ、極東の独裁国家の核開発をけん制し、東アジアの大国中国との外交をこなし、ロシアと向き合い、アフガンやイラク・イランでは大軍を投入。イスラエルとパレスチナの争いにも首を突っ込み、ユーロ圏とまともにやりあいながら、世界の経済的需要をその莫大な消費によって支えるアメリカ。好むと好まざるにかかわらず、世界に向けて「アメリカ型資本主義、民主主義」を輸出・教化していくということができるのは、アメリカをおいてほかにない。彼の国は、自国の文化や価値観を広めずにはいられないのだ。たとえそれが、属国にとって非常にはた迷惑なものであったとしても。


ビッグスリーの経営危機などに象徴されるように、アメリカは今、自信を喪失しているといわれている。かつての超大国の威信はもはや見る影もないようにみえる。だがそれは果たして正しい観測だろうか。私はまだ判断を保留したいと思っている。もう少し勉強しないとアメリカの真意は推測すらできない。アメリカという国をまったくわかっていないということだけが、唯一、確信を持って言えるだろう。



その他の本

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)/堤 未果
¥735
Amazon.co.jp

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書)/関岡 英之

¥735

Amazon.co.jp

・・・新書ばかりで恐縮ですが。

こちらもまた新書ですが、口直しにどうぞ。


自由と民主主義をもうやめる (幻冬舎新書)/佐伯 啓思
¥798
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新年明けて、改めて昨年度の更新頻度の少なさに我ながら驚いた。もともと、ボケ防止の一環で始めた書評ブログなのだが、こうまで更新が少ないとはっきりいって得るものは非常に少ない。こうした泡沫ブログをなぜわざわざ公開するかといえば、自分の考えをちゃんとことばにできるようにする訓練として、ブログという仕掛けが非常にてっとり早いからである。この程度の駄文は、まともに現代の教育を受けた人々なら誰にでも書けるくらいの、まあどこにでもある水準であるが、実際に自らことばを操って文章を書くというのはそれなりに根気や熱意、努力が要るものである。ということで、継続を期して、あえて自らに課してみたわけだが、蓋を開けてみてこの更新頻度では、当初の目的は到底達せられていないというべきであろう。


さて、前置きはこれくらいにして、今日は「水からの伝言」について少し触れてみたい。ただし、書評ではない。というのも、私はこの本を読んでいないからだ。たんに、この本を取り巻く状況に非常に興味をそそられたのである。

「水からの伝言」は、江本勝氏が、その著書「水は答えを知っている―その結晶にこめられたメッセージ」で紹介している説である。簡単に要旨を述べると、水に「ありがとう」などの「いい言葉」をかけていると、きれいな結晶になり、逆に、「ばか」などの「わるい言葉」をかけていると、きたない結晶になるというものである。一見してトンデモ系の話だと思われるが、この説は学会でも発表され、ある教職員の団体(?)によって多くの教育現場において道徳教育の題材として使用されたというものだそうだ。インターネットの話題としてはいささか旧聞に属するものかもしれないが、私はつい最近この話をまったく別の場で知り、科学的リテラシというものについて改めて難しさを感じたとともに、大きな衝撃を受けたので、あえて取り上げてみた次第である。


疑似科学についての論議は、インターネットに限らず非常にセンシティブにならざるを得ない。たとえば、最も象徴的な「血液型性格判断」についてはもはや流言飛語の域をはるかに超え、常識にすらなっている観がある。日常生活において、この手の話題を聞かないところはなく、血液型の話を聞くたびに「そんなペテンを信頼するような話題はやめなさい」と説いて回ることは至難の業である。周囲からの反発は容易に想像され、進んで村八分になろうとする愚か者を演じなければならなくなるだろう。しかし、これなどは逆に広く人口に膾炙している一方で、科学的には誤りであることが明白であるため、社会においては単なる飲み会の話題の域を超えていないともいえそうだ。あえて敷衍すれば、飲み屋で「俺ってA型だから、部屋をちゃんと掃除しないと気が済まないんだよな~」というサラリーマンはいても、「あそこの部長はB型だから交渉が難しいよ」などというサラリーマンは、日本にはいないということである。そういう意味で、放置してもそれほど問題はないのかもしれない。


本質的な問題は、疑似科学を容易に信じてしまう層がある一定数存在し、それらのひとびとがそれなりに社会的影響を持ちうることであるのだろう。疑似科学を熱心に批判するひとびとの骨子もそこにあり、私がこの話題を取り上げたの理由もそこにある。たんに、社会生活を営む上での表層的な影響がないというだけで、見逃してしまってよいものだろうか。こうした疑似科学の蔓延が、本来の科学のもつ本来的な意義を無効にしてしまうのではないか。そういう危機感が、科学者たちをして、警鐘を鳴らしめているのではないかと推測する。元来、科学的であろうとすることは、すくなからず観察者に忍耐を強いるものであるが、善良で無垢なひとびとは「科学で判らないことはまだまだこの世にはある」という論法で安易に疑似科学を受け入れる。そこには、動機が正しければ手段は問わないという、じつに日本的なエトスがみてとれると考えるのは、私の勇み足であろうか。観念的な「美しさ」や「きれいさ」に最大の価値をおくという考え方が我が国においては支配的である、というのが私の観測であるが、もちろんこれはたんなる思い込みで何の根拠もない。


なお、水からの伝言については学習院大学の田崎晴明氏が精緻な反論をしており、私もこのテキストを最初に参照した。(「水からの伝言」を信じないでください。 ) ご覧頂くと一目瞭然だが、プロの力量というのを目の当たりにした、という思いである。2ちゃんねる的な放言なら私にもできるが、こうした視点で疑似科学を冷静に論じられるというのは、確かな知識に裏打ちされた自信があってのことであろう。たんに、「水からの伝言」の誤謬を指摘しているだけでなく、疑似科学の陥穽にはまり込みやすい人の疑問に答えるかたちで簡単なQ&A形式で説明されており、そもそも科学的であるというのはどういうことか、という根本的なところまで理解できるように工夫されている。他の批判サイトは、論理的には誤っていないのだが、残念ながらその説明があまりに感情的、直接的にすぎ、かえって疑似科学の信望者たちを意固地にさせているように思う。たしかに、疑似科学のもつ本質的な危険性は理解できるが、私も、田崎氏のいうように「私は、その(「水からの伝言」にある説を事実であると信じている:引用者注)ような確信をもっている人たちの考えを、容易に変えられるなどとはまったく思っていませんし、あえて変えなくてはいけないとも思っていません。」というのが妥当な姿勢だと考えている。こうした、ひとびとの信念にかかわる領域は、すくなくとも外野がどうこう言って強制すべきものではないだろう。そこまでしたくなる誘惑をこらえ、たんに、科学的であろうとすることはどういうことか、という指摘にとどめておく、これこそがほんとうの知恵といえるのではないか。(ちょっとホメすぎかな?)

ものがたり史記 (中公文庫 ち 3-44)/陳 舜臣
¥620
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中国の歴史を平易に書いてくれるのは陳舜臣。これは、司馬遷の著した超有名な歴史書である「史記」を、物語風に優しくダイジェストしているありがたい本である。ものすごく短いがそれでいて史記のエッセンスがつかめるという、忙しい現代人にはまさにぴったりな本といえよう。


「史記」について簡単にふれておこう。「史記」は、今から約2,000年以上前に司馬遷というえらい歴史家が書いた、中国で初めての歴史書である(*1)。まあ難しい話はWikipediaでも見てもらうとして、ひとつ重要なのは、この「史記」が今の歴史という概念を語る上で外せない、まさにエポックを作ったといっていい史書であることだろう。


「史記」は、いくつかの編に分かれており、具体的には「本紀」「表」「書」「世家」「列伝」の五つから成っている。この中でもとくに、為政者の記録である「本紀」(ほんぎ)と、それを助ける武将(日本でいえば、御家人?)たちの記録である「列伝」の二つが重要である。「史記」のように、重要な政治家の営みを基本に歴史を描写するような書き方のことを、「本紀」と「列伝」から文字をとって「紀伝体」といい、以降の歴史の記述方法としてスタンダードになっている。キーマンとなる人物の一生を幹として話を追うかたちであるから、物語として非常に読みやすいのが紀伝体の特徴だ。対して、出来事があった順に並べていく叙述法を「編年体」と呼ぶが、こちらはやや無味乾燥な記述になりやすい。ただし、紀伝体のように同じ出来事を何度も描くことがないため、同時代の出来事を把握しやすい。


さて、作者である司馬遷を語る上で、李陵そして宮刑の件ははずせないが、私はこのあたりのことに明るくないので、割愛させていただく。(小学生のころ、漫画で司馬遷のこのエピソードを読んだことがあるが・・・あれはトラウマだ)


そんなことはさておき、陳さんの本はまるで小説を読むように設計されているので、難しく考える必要はない。ものがたりは、殷王朝の暴君、紂王と、悪女と呼ばれた妲己の時代からはじまる。有名な酒池肉林や太公望の時代である。そのまま殷はほろび、次に周王朝が建つわけだが、陳さんはちゃんと天命が革(あらた)まる、すなわち革命のこともちゃんと教えてくれている。まあこんな感じで、「奇貨おくべし」の呂不韋から政、秦の始皇帝、司馬遼太郎で有名な項羽と劉邦、呂太后までを描いて以上230ページ。


陳舜臣はものがたり史記のバージョンアップ版として「中国の歴史」という本も書いているので、もっとちゃんと知りたいという人はこちらを読むといいだろう。私は4巻くらいで中断しているが、はっきりいってこれよりわかりやすい中国通史は日本にはないと思われる。専門家になる人はともかく、歴史を知りたいというレベルの方はまず陳さんの本から入るといいと思う。


(*1)正確には初めての「正史(当時の政権が正式に発表した歴史)」であるが、それ以前の歴史書は伝説であるのでこういう表現としました。

百器徒然袋-風 (講談社文庫 (き39-12))/京極 夏彦
¥1,140
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思わず読み返してしまった。


京極夏彦。

京極堂外伝シリーズとでもいうのだろうか?サイドストーリィ第二段である。オムニバス形式の中編3つで1140円。安い。


主人公は帯に書いてある「榎木津礼二郎」・・・ではなく、「僕」である。

本作は、終始「僕」の一人称で語られる。「僕」が何者なのかは、ある意味では壮大なネタばれなので、ぜひ原書をお読みいただきたい。ただし本作は「サイドストーリィ」である。オタク風にいえば「外伝」である。つまり、これを楽しむためにはあの分厚い本編シリーズをきちんと読破しなければならないわけだ。もちろん外伝第一弾である「百器徒然袋 雨」も読まなければならない。


もしかしたら、京極夏彦をまだ知らない人、敬遠している人の中には、たんに活字が苦手だとか、あの分厚さに圧倒されて読む気を失っているとかのつまらない理由ではないか。また一方で、私のように京極夏彦に嫉妬して読まなかったような唐変木もいるかもしれない。いずれの理由だとしても、かれの作品を読まないのはじつにもったいないことである。私も、もっと早くに読んでいればよかったと今では後悔している。まあそういうわけなので、ペダントリィが好きな人、Wikipedia厨、暇を持て余しているひと、こういう方々はぜひ絶賛刊行中の京極堂シリーズを読むべきです。念のためリンクを貼っておこう。

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)/京極 夏彦

魍魎の匣―文庫版 (講談社文庫)/京極 夏彦
文庫版 狂骨の夢 (講談社文庫)/京極 夏彦
文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)/京極 夏彦
文庫版 塗仏の宴―宴の支度 (講談社文庫)/京極 夏彦
文庫版 塗仏の宴―宴の始末 (講談社文庫)/京極 夏彦
文庫版 陰摩羅鬼の瑕 (講談社文庫)/京極 夏彦
邪魅の雫 (講談社ノベルス)/京極 夏彦

(なぜ最後のだけノベルスなのかというと、私が購入した時にはまだ文庫版が出ていなかったからである)

前にも書いたが、基本的には京極夏彦は「キャラ萌え」の文法で読める作家である。じつにオタク向けの作家であるといえよう。思うに、キャラ萌えの文法というのは、こういうサイドストーリィこそ最もその良さが出るといっていいのではないだろうか。


思い入れのあるキャラクタが、本編の制約から(比較的)自由な状況で、必ずしもストーリィを追わない設定。肩の力が抜けたぬるい展開。そう、どこかで見たことはないだろうか。これは、いわゆる「パロディ」とか「オマージュ」と言われる作法である。これを製作者本人がやってくれるのだから、これが面白くないわけがない。といっても、私は必ずしも榎木津が好きなわけではないが。。。


というわけで、今日はこのへんで。

resident evil:degeneration


ゲーム「バイオハザード」のフルCG映画。

(日本語サイトはこちら )


「バイオハザード」といえば、1996年に発売されたカプコンの「サバイバルホラー」というジャンルのゲーム。ゲームからスピンオフして、ハリウッドで映画化(ミラ・ジョヴォヴィッチ主演)されているから、ゲームをしない人でも、知っている人が多いのではないだろうか。日本では「BIOHAZARD」として発売されたが、北米などでは商標の関係から「resident evil」シリーズとして世に知られている。すでに、世界的にはこちらのほうがメジャーなタイトルであろう。


残念ながら、2008年10月17日の「前夜祭」には行けなかったのだが、本日、無事観ることができた。初日の限定公開ということもあり、客層が明らかに独特なのが印象深かった。とりあえず、レビューしたいと思う。


<<注:極端なネタばれはしないように致しますが、観たいがまだ未見だという方は、以下は観てから読むことをお勧めいたします>>


本作はミラの映画版バイオと異なり、完全なゲーム版バイオの映画である。主役となるのはレオンとクレアだ。基本ストーリィは「2」をベースに、7年後の世界を描いているらしい。つまりゲーム版「4」の約1年後ということになるが、「4」のキーパーソナリティであるエイダやウェスカーは残念ながら登場しなかった。また、クリス・ジル・バリーなどの奇数系キーパーソナリティも登場しない。このあたりは原作(ゲーム)に対してちょうどよい距離感を保っていると言えるだろう。


ストーリィはオリジナルだが、レオンとクレアが初めて遭遇する場面のあのセリフとか、ラストの舞台でのアクションとか、シリーズをやりこんでいた人にとっては「にやっ」とするような演出が盛りだくさんである。もちろんレオンとクレアのボイスアクターはちゃんとゲームのそれとまったく一緒だ。ゲームファンとしては、まったく不満のない仕上がりといえる。これは逆に言うとゲームをやっていない人には少しわかりにくいのではないかということでもある。まあそんな感じで、ゲームの世界観、設定を知らない人は少し置いてけぼりにして話は進む。そして、最後の演出では、来年3月に発売予定の「バイオハザード5」につながるという、カプコンの戦略にまんまと乗せられてしまうという構図である。「regeneration」は、「2」「ベロニカ」「4」の続編で、「5」までの繋ぎという位置づけになるわけだ。


見どころは、ゾンビの復権とでも言おうか。リッカーやハンターなどの大物系は出てこず、登場するのはひたすらt-ウィルスのゾンビだ。これが、結構怖い。ゲームをやりこんだ私などからすればゾンビなど「いまさら感」漂う弱小クリーチャーのはずなのだが、物語の導入の秀逸さで再度、初代バイオ的な恐怖を演出できているのがすばらしい。ゲームをやってる人間はレオンやクレアと同じ視点でゾンビを見るわけだが、本来はラクーンシティの惨劇を経験として知らないのだから、アンジェラやグレッグのような反応をするはずなのである。こうした文脈で、近年「単なるアクション」の烙印を押されてしまっている「バイオハザード」シリーズに、再び「サバイバルホラー」の面目を復活させたと言えるだろう。これはシナリオを第三者的に追える映画だからこそできる芸当であり、メディアミックスの非常にいい面が奏功したのではないだろうか。


まあいろいろと理屈をつけたけども、とにかく非常に面白いので、ゲームファンには必見です。


いくつか残念なところをあげると、


・レオンが「なけるぜ」と言わない

 いつも女性に振り回される僕らのレオン君が、これまで以上にクールになっており、

 終始クールなままで終わってしまう。

 できれば、アンジェラに振り回されてほしかった。


・クレアの出番が少ない

 ゲームで言えばレオンとアンジェラのアクションシーンが「表面」、クレアのパートが「裏面」。

 レオンは「4」で十分主役を張ったわけだから、クレアをもっと出してほしかった。

 そして、もちろん次回作の「5」で主役予定のクリスも出番なし。残念。


・黒幕のグラサン男が出てこない

 出てくるのかと思いきや、まったく触れられさえしなかった。


と、まあいろいろあるのだが、一番は


・レオンが居るのにエイダがいない


これは、エイダ萌えの私としては痛恨の極みである。

人間集団における人望の研究―二人以上の部下を持つ人のために (ノン・ポシェット)/山本 七平
¥540
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人望について研究したという書。


「人望」、このポピュラーのようでいて、その実、中身のよくわからない魍魎のようなもの。山本七平はこうしたあいまいな存在を言葉で説明し、言葉に還元する術にかけては他の追随を許さない。本書は著者の晩年の著であり、また紙数も少ないため、いい感じに肩の力が抜けた、氏の著の中では比較的読みやすい部類に入るだろう。


本書のサブタイトルは「二人以上の部下を持つ人のために」である。ご賢察のとおり、これは当時のサラリーマンの処世を説いた「ビジネス書」である。「人望」。この不思議な概念はいったい何であろうか。山本氏は「人望」の正体を明らかにするだけでなく、それを身につけるための具体的な「対策」まで説明してくれる。私などは浅学にして朱子の「近思録(きんしろく)」などと言われてもピンとこないが、山本氏はこの古典や「旧約聖書」などを用いて当時の(もちろん現代のわれわれにも通用する)サラリーマンに易しく説明する。「教養主義」が忘れ去られて久しいが、やはり読む人が読めば古典も十分現代に通用するノウハウ集になりうるという証左であろう。大学で「一般教養」をやるのも、一部のエリートに対する回りくどい帝王学と考えれば、まあ無駄にはならないかもしれない。(もちろん、多くの学生には退屈極まりないであろうが)


なお本書が上梓されたのは昭和58年、当時の時事ニュースを織り交ぜて敷衍するものだから、それから四半世紀も過ぎた今となってはことばの意味がわからない。「無党派市民連合」「コスモ・エイティ」とか言われてもなぁ・・・。私などはまだ毎日お昼寝をして、温めたミルクをおやつとして飲んでいたよ。


さて、ここまで書いてきて、「じゃあその人望を得る方法ってなんだよ」と、書に当たるつもりがない粗忽者のために、本文91ページに非常に端的に説明されているものをここに抜粋しよう。


「―――『近思録』には「具体てい中間目標は、九徳である」とは記されていないが、「九徳最も好し」とあるから、具体的には、これに到達することを目指せばよいであろう。(中略)次に挙げると


(一)寛大だが、しまりがある

(二)柔和だが、事が処理できる

(三)まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない

(四)ことを治める能力があるが、慎み深い

(五)おとなしいが、内が強い

(六)正直・率直だが、温和

(七)大まかだが、しっかりしている

(八)剛健だが、内も充実

(九)剛勇だが、義(ただ)しい」


こうして引用すると非常に「なんだ、そんなあったり前なことかよ」と思えてしまうが、まあ真実は言葉にすると平凡なものだという真理であろう。なお、言うまでもないが実践してみようと思った方は、私のこのまずい引用で満足せず、本書に当たっていただきたい。せいぜい500円ちょっと、250ページ程度の薄い文庫本である。買って読んでください。


また、このほかにも、部下を持った時の心構えについて山本氏の意見を拝聴したいという奇特な方がいれば、私は迷わず次の本をお勧めしたい。


帝王学―「貞観政要」の読み方 (文春文庫)/山本 七平
¥450
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それにしても、最近、山本先生の本がよく復刻されてるなぁ・・・と思います。余談ですが。

闇の子供たち (幻冬舎文庫)/梁 石日
¥720
Amazon.co.jp

梁石日(ヤンソギル)の書いたノンフィクション・ノベル。


こちらは「血と骨」のような自伝的ノベルではなく、ドキュメンタリィのような形式の作品です。



今回取り扱うのはタイの幼児売買春。エグイ。実にエグイ。

こういう世界があるのは知っていたが、実際に描かれると引く。

ペドファイル(幼児愛好者)ってのはサブカル分野でよく使われるのを耳にするが、やっぱり現実問題として目の前に突きつけられると、表現としてどこまで許容されるのかはわたしも悩む。


後半、なんだかよくわからない状態で物語は唐突に終わる。


これはいわゆる「クォ・バディス」的表現というのか、「太平記」的というべきなのか、いよいよ問題が表面化し、どうにもならないところで終わっている。ハッピーエンドでも、バッドエンドでもない、物語は現在進行形ですすみ、そのまま結末を迎えているのだ。


結局、国内の問題は国内の人が解決するしかないという南部の指摘は間違っていないと思う。

しかし、それを傍観者の視点であり、そういう姿勢つまり結果としての無責任が、こうした問題を助長しているという恵子の指摘もまた首肯できる。

このあたりの矛盾も、問題が構造的である傍証でもあろう。根本的な原因は貧困にあると思うが、どちらが原因でどちらが結果なのかはわたしにはわからない。せいぜいペド的なものを扱わないくらいのことしかできないよ。ただ、児童ポルノ法はいかがなものかと思うが・・・

ここのところ、(といっても1年くらいずっと)本職のサラリー生活が忙しく、なかなかまとまった時間が取れない。

腰をすえた読書ができないため、もっぱらエンタテインメント系の乱読が多い。はっきりいって、あまりあたまがよくなっているとはいえない。


とりあえず今野敏の作品をいくつか読んだ。面白かった。

わりとパンチ力のあるものばかりを好んで読んでいたため、こうしたある種のさわやかな読後感というのが新鮮に感じる。きっといい人なんだろうな。すくなくとも桜玉吉のような破滅的な印象は皆無だ。


読んだのはこれ。


「リオ」

「朱夏」

「ビート」

「隠蔽捜査」

「蓬莱」


どれもこれもなかなかの出来。ソツの無い作家さんといえるだろうな。


時間も無いのでこのへんでお開き。ああ、早く本職が暇にならないか。