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One of 泡沫書評ブログ

世の中にいったいいくつの書評ブログがあるのでしょうか。
すでに多くの方が書いているにもかかわらず、なぜ書評を続けるのか。
それは、クダラナイ内容でも、自分の言葉で書くことに意味があると思うからです。

第三の時効/横山 秀夫
¥660
Amazon.co.jp

なにやらAmazonリンクの仕様が変わっていて、画像がくっついてくるようになっていた。

Amazonの検索はアフィリエイトに統合されたという。

本当に、世の中、節操がないというか。

しかし、そのおかげで、タダで文章を書くスペースを提供してもらっているわけだから、持ちつ持たれつというやつだろうか。この広告料も、その何パーセントかは、藤田氏のフトコロに入ると思うと心が痛む。


さて本題に戻って、今日は横山秀夫の「第三の時効」である。


横山氏の代表作、というより、いちばん有名な作品はおそらく半落ち だろう。寺尾聰主演で映画化もされたベストセラーである。じつはわたし、以前これを読んだことがあるのだが、たいした感慨をいだかなかった。たしかに面白い展開であり、ストーリーテリングの巧さはまさにプロ、クライマックスの「種明かし」も非常に秀逸で考えさせられる展開であったと思う。ただし、それ以上でもそれ以下でもなく、端的に言えば著者の別の作品を手にとって見ようと思わなかったということだ。たんにわたしが酷薄な人間だからだろうか。


しかし本作は違った。引き込まれるようにグイグイと読んでしまった。本作はいわゆる「オムニバス」形式で、解説によるとこれは横山の人気シリーズ「F県警モノ」らしい。たしかにこれは面白い。非常に陳腐な表現で恐縮だが・・・。


解説子の池上冬樹によれば、これは「モジュラー形式」というエンターテイメントの技法を駆使しているらしい。複数の事件が同時並列的に進行しているさまを描いているようなものをそう呼ぶらしい。素人考えでも、たしかにここまで色々登場人物が錯綜しているなかで、話をつぎつぎと立体的に並べていくのは、おそろしく難しいだろうと思う。わたしごときでは、話のつじつまを合わせるだけでも無理というもの。池上が評するに「(こうしたモジュラー形式は)海外の警察小説ではごく普通のスタイルだが、日本では少ない。敬遠されるのは、何より卓越したストーリーテリングと巧妙なプロットが要求される」と言っているが、さもありなんという感じだ。


しかし、わたしが引き込まれた理由はストーリーテリングの巧妙さではない。それだけならすでに「半落ち」で横山ワールドに引き込まれていたはずだ。また、わたしは海外小説をあまり受け付けない。ストーリーテリングの手法は日本の書き手よりもむしろ欧米の作家のほうが優れている。ではなぜか。


そのキィワードは、「キャラ萌え」ではなかろうか。


ライトノベル系やゲームばかり親しんでいると、ストーリーに引き込まれないと納得しないくせに、同時に魅力的なキャラクタがたくさん出てきて、その中でじぶんのお気に入りのキャラクタがいれば満足するという性質になる。この法則はあえて一般化して主張したいが、どうだろうか? あながち、間違いではないと思うのだが・・・。


たとえば京極夏彦や森博嗣などのメフィスト系は明らかに「キャラ萌え」を意識している。もちろん秀逸なストーリィテリングが伴っていなければ意味がないのだが、それはどちらかというと必要条件であり、十分条件ではない。ストーリィテリングがあるのは前提で、その上でキャラ萌え要素があって始めて名作たりうる。その意味で、横山の「第三の時効」は非常に萌える要素のあるオヤジが満載だ。

真説 謎解き日本史 (文庫)
明石 散人 (著)

明石散人氏といえば名前は聞いていた。歯に衣着せぬ痛快な人なんだろうなぁと想像していたら、それだけでなく、べらんめぇ口調の、とんでもなく口の悪いオッサンだった。だが、それがいい。


本書は「真説」と銘打った、歴史モノの小論を集めたものだ。もとは「リアルタイム日本史」という歴史シリーズだったものを再録、加筆修正した文庫である。らしい。


おそらくファンには先刻承知なのだろうが、全編を通じて著者の論は切れ味鋭く、テンポもいい。多少強引とも思える論証も、ここまですごまれるとつい頷いてしまいそうだ。


じつは2007年現在、明石氏のような主張はかなり歴史ファンの間では一般的なものになりつつあり、出版から10年経った今読むとそれほど新鮮味も無い。おそらく、これはこの十年くらいで日本人の平均的なリテラシが向上したためであろうと思うが、それでも、この著作を10年も前に既に問うていたことが私には、ただ「すごい」と思えるのである。


ではいったい明石氏の「真説」とはいったいどのようなものか。歴史がそれほど好きではない人たちも、「忠臣蔵」くらいは知っていよう。松の廊下、吉良上野介、浅野内匠頭、そして大石蔵之助率いる47人の「赤穂浪士」。年末のテレビ東京で必ずやっているので、だいたいのアウトラインはおそらくすべての日本人の頭にあると思う。これは一般には次のような「史観」で理解されていた。


「時は元禄、徳川綱吉の治世。浅野内匠頭ははじめての勅使饗応を仰せつかったが、なにぶん田舎の出ゆえ、作法のなんたるかを知らなかった。そのために饗応役の先輩にあたる吉良上野介に教えを乞うたが、吉良には田舎者と辱めをうけてしまう。それを恨みに思った浅野は、あろうことか勅使饗応のその当日に、『松の廊下』でおもむろに吉良を切りつけてしまうのである。


『吉良め、この間の恨み、忘れてはおらぬ!』

『浅野殿ー、殿中にござる! 殿中にござるぞー!』

『離せ、離してくれ、吉良だけはこの手にて斬らねばおさまらぬ!』


・・・と、言ったかどうかはわからないが、殿中にて刃傷沙汰に及んだ浅野は、当然ながら綱吉の逆鱗に触れ、即刻、切腹を申し渡される。そして、領地没収となってしまった浅野家の『忠臣』、家老の大石蔵之助は、主君への忠義を第一に考え、浅野家の名誉回復のため、吉良邸への討ち入りを決意する・・・」


「志の人、浅野と、それをいたぶる吉良、そしてあだ討ちに立ち上がる忠臣たち」という構図に、ほとんどの日本人は疑問を抱くことはないだろう。だが明石氏は「忠臣蔵」を、こう斬って捨てる。


「悪いのは浅野内匠頭だ」


要約すると、「粋、無形の文化を持った吉良から、賄賂を要求されたと逆恨みした浅野が、勝手に逆上して刃傷沙汰に及んだという性格の事件である。こうしたメンタリティは、知財や著作権というソフトウェアに対して敬意(ともちろん金)を払えない日本人の精神に依拠している」ということらしい。


じつは、現在の研究では浅野の刃傷は逆恨みや復讐などではなく、「統合失調症」すなわち精神疾患が原因だった可能性が高いことがわかっている。したがって文化の価値を理解せず逆恨みしたという構図そのものが否定されてしまうため、明石氏の論はいまとなっては多少、見当違いであると評価せざるを得ない。だが、大事なのは、これを1996年当事に発表したという、その先進性である。誰もが疑わなかった「常識」を、見事に切り開くそのセンスは、まさに歴史界のパイオニアといっていいのではないだろうか。


そのほかにも「足利6代将軍 義教は無類の上」「西行の正体はコンプレックスを華美な衣装で隠そうとする卑しい人間」「義経と弁慶は多重人格の生み出したふたつの像」などなど、まっとうな歴史学者からすれば卒倒するような「真説」が目白押しである。まさに、一読の価値あり、であろう。


なお後半のほうに竹島問題についての冷静な論考があるが、こちらはめいめいでぜひ、読んでみられたい。朝日新聞がいかにいい加減かどうかをあげつらうため、ではない。メディアとは何か、リテラシとは何か、それを再確認させてもらえるいい機会だからだ。



それにしても、経歴のわからない人だ。謎といえば、本人そのものが謎だ。いったいどんなオヤジなんだろうか。まさか、意表をついて女性とか、そういうオチじゃあるまいな。

渡部 伸
中年童貞 ―少子化時代の恋愛格差―

こんな本を待っていた。

「ふざけた話だ」などと思わないでいただきたい。わたしはかなり大マジだ。この、昨今の恋愛至上主義というか、コイだのアイだのが一義的に叫ばれるこの日本の文化環境に、わたしは大きな声で異を唱えたいと常々思っていた。著者であり、「全国童貞連合 」の会長でもある渡部氏は次のような力強いことばを発している。


「少子化問題は、童貞問題である」
「恋愛は誰にでもできるというものではない。もちろん、結婚もだ」


諸手を挙げて賛成したい。そう、恋愛や結婚は、誰にでもできることではないのだ。今のこの「恋愛資本主義社会化」においては。だからこそ、今のこの「恋愛強者」たちの無意識の暴力が実に鼻につく。すべてのモテる男女たちよ、驕るなと言いたい。「月9」などこの世から排除するべきだ。今までにヤッた女性の数をひけらかす阿呆な男たちには、今すぐHIVの抗体検査を受けろと言いたい。男性遍歴の多さを誇る女性には、今すぐ貞操ということばの意味をマインドコントロールによって強制的に刷り込みたい。


わたしはお見合い結婚を肯定する。お見合いパーティを肯定する。結婚仲介業(O-netやツヴァイ)を肯定する。男女の出会いや結婚にいたるまでのプロセスは、最終的な幸せ度でこそ測られるべきであり、手段そのものは問われるべきではないと信じている。そもそも合コンみたいなものも、広い意味でのお見合いみたいなものだ。男女の出会いがお見合い形式でないことなど実際にはほとんどないだろう。つまり出会いなど「何らかのかたちのお見合い」なのだ。釣書のあるなしが恋愛結婚とお見合いを隔てているのではない。お見合いしてから恋愛になることもあるだろう。両者はあくまでも地続きなのだ。また、仮に恋愛に発展しなくても、結婚にはなんの支障も無い。そもそも恋愛結婚というものに幻想を持ちすぎなのは、男女ともお互いにとって不幸なことなのだ。


この恋愛をすべての上段に置く世の中というのは一体なんなのだろう。わたしは元来マイノリティを愛するものだが、最も腹が立つのは「いつのまにか常識のようになり、サイレントマイノリティが声を発することすらキレイごとで封じようとする」状況だ。恋愛だの結婚だのというのは、いまやそういう性質のものになってしまっている。

素敵な恋愛をして・・・などとわれわれを洗脳しようとしている急先鋒である芸能人からして、至極つまらない恋愛と結婚をしているではないか。あんなものにだまされて、未来を見失ってはいけない。幸せは追い求めてもかまわないが、そこに「恋愛でなければならない」というバイアスがかかると、お互いに不幸になる可能性が高いのは明白な事実だ。「恋愛だったらいい(つまり、そうじゃなくてもいい)」くらいが、われわれにはちょうどいい。


著者の言うようなことはかなり昔から強烈に感じていた。こうした性質の本は、もしモノカキになれていたら必ず取り上げていたテーマだろう。だが、こうしたことを今までにきちんと主張できなかったのは、理由がある。それは、わたし自身に「まともな恋愛体験がある」からである。


わたし自身がそれなりに恋愛経験ができているような状況で、上記のようなことを主張したらどうなるだろう。「お前が言うな!上から目線か!」「結局そんなことをいいながら、お前は恋愛強者なのだろう。偉そうに言うな!それができたら始めから苦労はしない」などと罵詈を浴びせられることは言うまでも無い。もちろんわたし自身、どう考えてもアプリオリに「モテる」側にはいないのだが、わたしなりに研究と挫折、実践と反省を得て、実際現実としていま彼女が居り、たぶんそのうち結婚もするだろうと思う。だから小谷野敦「モテない男」などでも論じられているように、


「結婚しないで恋愛を繰り返せみたいなことを勧める輩もいる。(中略)最近『<非婚>のすすめ>なんて本を書いている森永(卓郎)もそうだ。(中略)森永は自分は結婚していてこういうことを言う大馬鹿野郎だから、相手にする必要はない。ただいずれにせよ、『恋愛下手』な人間はどうすればいいのか、教えてくれない」


と書いてあり、これは直截にわたしのような考え(簡単に言うとお見合い推奨論)に対する異論ではないのだが、たしかに今自分が満たされていることを棚に上げてこうしたセンシティブなことを論じると色々と波が立つため、今まで筆を執らなかったのだ。(そういいつつ今回ちゃんと書いてしまっているから、わたしはいつまで経っても素人なのだろうが・・・)


だが、話は戻るが、小谷野も言っているように、この恋愛至上主義、恋愛教の放つ強烈なイデオロギーに対して、「恋愛不要論」は非常に分が悪い。そしてその恋愛教の生み出したエトスにおいて、恋愛弱者とされるひとたちはつねに迫害され続けている。小谷野の言う「近代における『恋愛』が特異だとすれば、それが、恋愛は誰にでも可能であり、さらにそれのできない者は不健全だといったデマゴギーを流布させた点にある」この恐るべき風潮は、未だ誰の手によっても打破されることがない。残念な状況だ。恋愛結婚はすばらしいが、だからといってそうでない結婚を否定するべきではないし、発言する権利を奪ってもいけない。紙数の関係で今日はこれまで、続きはまたこんど。


【参考文献】

小谷野 敦

もてない男―恋愛論を超えて

ハピネット・ピクチャーズ
フルメタル・パニック! The Second Raid Scene01 +α 初回限定版

シリーズ3作目となる本作は、前作「ふもっふ」とはうって変わって全編シリアスなノリであった。原作を読んだことがないのでなんともいえないが、どちらかといえばこれこそが「フルメタル・パニック!」の真髄なのかもしれない。わたしは「ふもっふ」のほうが断然好きだが・・・。


本作の魅力は大別して3点ほど挙げられるであろう。


第一は、主人公である相良宗介を中心とした、主要人物同士のこころの交感である。なかでもとくに、宗介の成長が主軸にすえられている。もちろん、宗介をとりまくかなめとテッサの「恥ずかしくなるような」ロマンスも満載で、とりあえず「ギャルゲー」もとい「ギャルアニメ」の面目を保っている。しかしながら、肝心なところで「間をはずす」技術は、さすが京都アニメーションというような、みごとな演出である。クサイ場面も、すんなり見ることができるので注目だ。なおその他のキャラクターだが、メリッサはともかく、ウェーバー君の出番はほとんどない。風間君や恭子ちゃんたちも同様。本作は基本的にメインストーリを追うことが目的のようだ。途中出場のクルーゾー大尉も少々影が薄い。しかし、重要な場面で「あのひと」も登場しますよ。伏線がわかりやすすぎてわかってしまうだろうか。しかし、これは観てのお楽しみだ。


第二は、純粋なロボットアニメとしての楽しみ方である。しかしわたしは個人的に、こういうロボットとかいうギミックが得意ではない。ガンダムなどもそうだが、設定を追うのが苦手なのだ。作中の「ラムダ・ドライバ」なども、「ATフィールド」のようなものだと理解している。(そうしないと理解できない) 後半、ヴェノムがたくさん出てくる上、ラムダ・ドライバが乱発されてパワーバランスが崩れてしまっているのが少々残念だが、アーバレストはとりあえず大活躍し、それなりの落し所が用意され、人並みのカタルシスを得られよう。全体的にソツなく、見せ所が満載である。


第三は、これはもう単純に萌えアニメとして楽しむことであろう。とくに今回はテッサが飛ばしている。シリーズおまけの「わりとヒマな戦隊長の一日」もあわせて見ればよいと思われる。逆に正統派ツンデレがたまらないひとは、今回はかなめに萌え萌えだろう。しかし、それにしても野上ゆかなの舌たらずな声は、これこそが「萌え」と言わんばかりの、すばらしいものだ。いや実にすばらしい。一作目では「ウザい」キャラなだけだった彼女が、それはもうすばらしい出来栄えである。今回は間違いなく、テッサがメイン・ヒロインであろう。個人的なベスト・シーンはAct.10の宗介とのやりとりだ。


詳しくは本編を見て欲しいが、全体的にグロテスクな表現が多いので要注意だ。


それにしても、京都アニメーションの作画は安定している!

荒い作画は観ていて本当にガッカリするので。

マックス ヴェーバー, 大塚 久雄
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

世界的な社会学者、マックス・ヴェーバーの代表的大著。

少しでも社会学をかじったひとにはもはや説明不要の、近代資本主義の発生について、そのメカニズムを説いた論文である。


今となっては色々と反論もなされているようだが、わたしにとっては何をかいわんや、感覚的にもものすごく納得できる内容である。こうしたことが素直に理解できない人間は、人間性とか、常識とか、そういうものを何か勘違いしているのであろう。ヴェーバーのこうした論述はしばしば「逆説的」と説明されるが、おそらくそれは表層をみるからパラドキシカルに見えるだけで、実際冷静になってよく読んでみると実に当たり前のことを言っているにすぎないことがわかる。


本書の主張をかんたんに説明しよう。といっても、たかだか一介のサラリーマンが要約できるわけもない。餅は餅屋ということで、訳者の大塚博士のことばを借りて説明しよう。


「近世初期の西ヨーロッパにおいて資本主義経済が勃興していく過程で、その動きを人々の心の内側から推し進めていった心理的機動力、あるいは精神、それを通常「資本主義精神」と呼んでいます。ヴェーバーはしばしば「資本主義の精神」という語を使うのですが、それについてはまた後で説明することとしまして、ともかく、この論文はそうした資本主義精神と禁欲的プロテスタンティズム、とくにピュウリタニズムとの歴史的関係を社会学的に追求したものだ、と言ってよいかと思います。」


以上、偉そうに述べてきたが、正直に言って、ヴェーバーの言っていることが最初は何のことだかまったく、ぜんぜんわからなかった。これらのほとんどは、基本的に小室直樹氏の著作を読んで初めてわたしは咀嚼することができたのである。おそらく小室氏などの敷衍をまったく知らない人は、いきなりヴェーバーにこんなことを言われても「ハァ?」としか言えないのではないか。


かんたんに言えば、現在の「近代資本主義」は、徹底的に禁欲的で営利の追求を敵視するプロテスタンティズム、なかでもピュウリタニズムの価値観、ヴェーバーのことばを借りれば「エートス(ethos)」が昂じて、利潤を追求し功利的な近代資本主義の生誕に大きく貢献したということを、論じているのである。一般に考えれば、利潤の追求を正当化し、功利的であればあるほど近代資本主義が成り立つ土壌となりそうな気がするが、それは「前近代」的な資本主義の誕生にしかならないことが、歴史的に見てあきらかであると、ヴェーバーは言っているのである。そしてその価値観=ethosの発露となっているのが、プロテスタンティズムの「予定説」に他ならないと、まあ基本的な骨子はそんなところだ。


なお例によってアマゾンの書評のほうが適確なコメントが短くまとめられているので、むしろそちらを参考にされたい。


初学者にとって、こうした名著を「背伸びして読む」ことは非常に重要だと、わたしは考えている。わからなくてもいいし、妄信してもかまわないと思うので、まずは読んでみることをお薦めしたい。アマゾンの書評者のような考え方をするのは、それから10年経ってからでも遅くないであろう。わたしは、高校生のときに読むべきであったと、後悔することしきりである。

日垣 隆
個人的な愛国心

格差について簡単に読めそうな新書を探していたら、日垣隆の本を発見した。

ナナメ読みしたところ、何かの連載記事の収録みたいで少々ガッカリしたが、とりあえず買って値段分の損をしたことはないので、迷わず日垣隆のフトコロを温めることにした(笑)。(しかし、ちょっと悔しい)


日垣は近年発見したジャーナリストの中では最も先鋭である。一日に平均三冊、年に千冊以上の本を読破するという、その異常なまでの読書量と(「プロなら当然」と言われそうだが)、鋭い視点で読んでいて戦慄する。わたしはいつかジャーナリストにでもなれればいいな・・・などと努力の伴わない空想をしていたことがあるが、日垣の姿勢を見てあきらめた。ひとには向き・不向きがあるのだと再確認。わたしは、今の仕事のほうが性にあっている。


わたしは日垣の指摘ではじめて知ったこと・気づいたことが数多くある。単なる知識でいえば、刑法第39条などが代表的な例。これは今までまるで知らなかったが、本を読んではじめて知りえたこと。ものの見方という意味では、郵政三事業、記者クラブ、鳥インフルエンザなどが主なテーマだろうか。数え上げれば両手で収まってしまうかもしれないが、まあそれくらい影響を受けたということを正直に告白しておこう。役所や役人がますます嫌いになったのもかれのおかげかもしれない。


日垣の書くものは、わたしのような素人からすれば反論の余地がまったくない、恐るべきものだ。「これぞプロだ」と強烈に主張しているかのような膨大なデータ、疑問をさしはさむ余地のない厳密な論証、特定のイデオロギーに左右されない足元の堅さ、適確で短い文章。他の「自称ジャーナリスト」と異なり、修辞がほとんどない文章は難解な内容もすんなり頭に入ってくる。(修辞がないぶん、罵倒が異常に多いが(笑))。同業のニセジャーナリストは戦々恐々だろうが、わたしのような半端者からすれば、日垣の書くものには、ある意味で安心して思考停止できる。ジャーナリストを目指すひとは、まず日垣の書いたものに「批判」を加える練習からはじめたほうがいいかもしれない。あら探しでもいい。日垣が調べたことよりも多くを知り、日垣の指摘したことよりも鋭い指摘ができれば、ジャーナリストとして食っていくことが十分可能であるとわたしが保証しよう(笑)。


本書においても、このような日垣節はもちろん健在だ。しかも分量は少なめ、2時間もあれば読めてしまう。数年前の時事問題がメインなのだが、著者の得意分野である子育て論もときどき顔を出す。はじめて日垣の本を読む人は、一瞬、その過激さ(とその罵倒のひどさ)にあぜんとし、怒りすら覚えるだろう。しかし時間とともに「あれ、何か言ってること、間違ってないかも」と思うに違いない。


マスコミ志望の学生は必読であろう。池上彰氏や細野真宏氏のような、どちらかというと無害な教科書を読んだあとは、毒を注入していただくのもいい。もちろんTBSのニュースを見て「ふーん」などと思っている哀れなひと、我が子の教育に思い悩んでいるひと、「買ってはいけない」を買ってしまい、日々の生活に恐々としているひとなどは、まず最初に本書を読むべきだ。


なお、本書を読まないとしても、日垣の「そして殺人者は野に放たれる 」だけは必ず読んで欲しい。今後、裁判員制度が導入されるという、われわれにとっても司法が身近になる昨今、必読の書といえる。感情やムードに流されやすいわれわれは、しっかりとした現状把握をおこない、正確な知識で「ムード的なマスコミ」とたたかわなければ、裁判員制度は飼い慣らせない。


話の筋が二転三転してしまったが、とりあえず明日も仕事なのでこのへんで。

内田 樹
下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

なぜ子どもたちは、働かないのか、学ばないのか。

それに対し、これまでとは少し違った視点で回答を試みた本、と言うべきだろうか。


本書を手に取った理由は偶然である。

著者は知らないし、新書でもハードカバーでもないこの種の本は、往々にして内容がないために敬遠することが多いのだが、なかなか内容がありそうだったのでとりあえず買っておいた。

読後感を率直に述べれば、新書くらいの価値はあったかな?

(1,400円は高いわ~)


三浦展の「下流社会」を端に発する、こうした日本における階層化についての提言や問題提起は、いまやひとつのムーブメントとも言えるほど、盛んに行われている。わたしは個人的に、この階層という問題について、他人事ではいられない性質なので、ある種の執念をもってこの問題を眺めていた。


しかしながら、「ではいったいこの下流という現象は何なのか?」という問いに対して、論理的に回答することは結構難しい。

少なくともわたしのように、サラリーマンを主たる生業とする人間にとって、こうした問題を専門的に読み解くには時間と能力の、その両方が足りない。したがって、学者や専門家など、こうしたことの分析にその生活のほとんどを費やしているひとびとの分析や研究を「借りる」ことになるわけだが、どうしたわけかなかなか意味のある答え(?)は得られない。よくあるのが


「ニートなんて俺たちの若い頃にはいなかった。たるんでいるんだ」

「韓国には徴兵制があり、若者はしゃきっとしている。日本もああいう制度を取り入れるべきだ」

「かれらがああいう人生を選択したのは自己責任だ。ほっとけばいい」


というような意見である。どれもこれも、わたしにとっては考慮するに及ばない、どうでもいい意見だ。これらはすべて、その当事者が対症療法的に取る手法であっても、社会学的にこの問題を読み解く術ではないからだ。わたしが知りたいのは、これらの新しい階層がどのように発生し、どのように対処すべきなのか、その構造である。


本書は、そうしたわたしの疑問に対してそれなりの回答を与えてくれたように思う。

とくに興味深かったのが、第一章「学びからの逃走」で


『・・・子どもたちが教室で展開している「教師の言うことをきかない」、「授業に集中しない」、 「私語する、立ち歩く」といった「無秩序」に見える行動が、ある種の無意識的な統制を受けて「秩序づけられている」という逆説的事況の説明がつきます。

  子どもたちは、「無秩序であること」をほとんど制度的に強いられているのです。「どのような命令にも従うな」という命令に全力を尽くして従っているのです。僕にはそんなふうに見えます。だって、もし子どもたちがほんとうに不注意で怠惰であるだけなら、「うっかり教師の話を最後まで聴いてしまった」ということがあっていいはずだからです・・・』


というくだり。(引用が長いのは、わたしの読み解く力、要約する力が不足しているためです。今後、精進します)


最近はこの手の本を読むことが少ないので、少々評価が甘くなっているような気がしないでもないが、それなりの知見は得られる。良書に分類してよいのではないか。とくに、これは提言というレベルで見たときにはなかなかの「取っ掛かり」になる本だと

思われる。2時間もあれば読める分量なので、教育関係者はとりあえず目を通しておくに如くはない。


しかし、アマゾンの書評のほうが的確な気がするな~

やっぱり、カンが鈍っているのかな?