それでもボクはやってない | One of 泡沫書評ブログ

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先日、福岡で起きた今林容疑者による3人の幼児殺害事件の第一審判決が出た。巷間注目を集めていた「危険運転致死傷罪」は、実際には検察側のさまざまな「立証」がむずかしく、無罪となってしまう可能性が高いという。そのため、検察側は地裁の言い分を飲む形で大幅譲歩した結果、判決は「業務上過失致死傷罪」(と道路交通法違反)の適用のみにとどまったという。量刑は求刑懲役25年の実刑のところ、なんと懲役7年6月という吹けば飛ぶような「軽い」判決となった。


罪刑法定主義、疑わしきは罰せずの原則からいえば、検察側のこの行き方は概ね評価できよう。裁判所の機嫌を損ねてまで、無罪判決という「1かゼロ」のようなリスクを犯すのは戦術的にもまずいことは素人にもわかる。また、間髪いれずに控訴するあたり、検察側はまだ常識を失っていないと見える。形式主義のバカバカしさはここではあえて問わない。問題は、このザル法と評される「危険運転致死傷罪」の法的不備はいうまでもないが、そもそも「酒に酔っていたかどうか」が争点になるという、認識レベルの齟齬にあるとわたしは考える。


現在の司法(刑法)によれば、クルマの運転による「殺人」は「事故」になる。これはマスコミでも世間でも認識は同じだと思われるが、要するにクルマで人を轢き殺しても、殺人ではない、基本的には過失であるというスタンスである。だから、自然と「危険運転致死傷罪」の適用云々という議論になるわけだが、私などは、判決文にあるような「正常な運転ができないほど酒に酔っているかどうか」などはどうでもよく、そもそもこの今林容疑者が3人の子供を殺害したという点、この一点のみに注目すべきであると考えている。


むしろ酒を飲んで、クルマを運転したという時点で、これはもう「飲酒による無謀運転で第三者を無差別に殺害しようとした罪」ということで第一級殺人を認定するか、それとも第二級か、という議論になるべきだと考える。すなわち、適用するのはあくまで「殺人罪」であって「~致死傷罪」ではない。私は、この点において、すでにわが国の司法の限界を感じるのである。


当然、新聞記事の見出しにある「事故」という表現すら真実を評しているとは到底思えない。「幼児3人死亡」などとはもはや噴飯モノである。これは「福岡3児轢殺事件」とでも書くのが正しい姿である。


【参考記事】

3児死亡事故、「危険運転」適用求め地検が控訴


飲酒追突3児死亡事故・福岡地裁判決要旨



しかし、犯罪が変わると、司法は180度変わる。それが、「それでもボクはやってない」のテーマとなる、「痴漢」である。


痴漢についての議論は「性」が入り込むため、そもそも冷静な議論になりにくい。やれ「ジェンダー」がどうの、「男性は全員加害者」だの、どうでもいい方向に話が逸れてしまうからだ。そうした中で、あえてこの「司法の矛盾」をわかりやすく描き出して見せた周防監督の手腕はもっと評価されていいと思う。


なにしろわかりやすい。この手の映画は始めて観たが、改めて映像のインパクトを目の当たりにした感がある。これを評論で語るのはたやすいが、それでは万人に届かない。如何にわかりやすく、かつ、正確に伝えるということがベンチマークとなるなら、この作品は間違いなく満点である。


この作品のテクニカルなポイントはいろいろあるが、最も重要なのは次の二点だろう。すなわち、


「裁判は真実を明らかにするところではなく、無罪か有罪かを決定する場である」

「痴漢冤罪は、なぜか被害者の側に立証責任がある」


ということを、かなりわかりやすく映像で伝えている点である。私を含む多くの大衆の誤解はこのあたりに集中している。近代司法を未だに江戸時代の「お白州」のようなイメージでとらえているもの、刑事裁判と民事裁判の違いについて理解していないもの、検察というものがわかっていないもの、etc・・・


この作品は、さらに検察-警察の癒着(?)ぶりについてもメスを入れている。「起訴有罪率99.9%」についてもさりげなく語られ、それがまた前述の「裁判は真実を明らかにするところではない」という「事実」を浮かび上がらせている。まったく、大した手腕である。私のような「攻撃的な」ブログを書いている人間も注意しなければならないな。国家がその気になれば、私のようなゴミ一匹葬るのはアリをつぶすよりも簡単なのだから。




日本の司法は、専門家がなんといおうと、もはやその制度疲労は極限に達しており、まったく機能していない。専門的には何とでも理由はあるだろう。しかし、あきらかに裁判の目的がどこにあるのかわからなくなっている。犯罪者の更正、罪刑法定主義、疑わしきは罰せず・・・お題目は何でもいいが、そもそも、これらは何のために長い年月を以って熟成されてきた概念なのか? 法治国家とは何なのか? 専門家は、その精神を現実の司法に反映するように努力して欲しい。ツールに使う側が振り回されるようでは、本末転倒ではないか。


なお冒頭の今林被告は、驚くべきことに検察側とは逆の「量刑が重すぎる」(としか思えない)理由で控訴している。「クルマをぶつけられて、ブレーキも踏まない被害者たちこそが不注意だ。俺だけが何で」ということらしい。この続きは、めいめいで考えられたい。


【参考記事】

幼児3人死亡の飲酒運転、今林大被告が控訴