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One of 泡沫書評ブログ

世の中にいったいいくつの書評ブログがあるのでしょうか。
すでに多くの方が書いているにもかかわらず、なぜ書評を続けるのか。
それは、クダラナイ内容でも、自分の言葉で書くことに意味があると思うからです。

闘う経済学―未来をつくる「公共政策論」入門/竹中 平蔵
¥1,575
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竹中平蔵氏は小泉内閣時代の閣僚として、2001年から2006年まで郵政を中心とした構造改革を推し進めてきた。本書は氏の政治家としての回顧録といっていいだろう。


「経済ってそういうことだったのか会議」で、見方が変わった竹中氏だが、本書を読んでさらに見方が変わった。かれはやはり評論家や学者ではなく、政治家(政治活動)のほうが向いていたのだろう。わたし自身、大マスコミに印象操作させられていたことを恥じ入るばかりだ。(だが、もう何冊か氏に関する本を読んでから最終的な人物評をしてみたい。・・・と言いつつ、結構人物評してしまっているので、素人はこれだからダメだ。)


氏は、「経済学は実際の政治に役に立つ。しかしそれだけではただの空論になってしまう。実際の政策に落とし込み、生きた経済学を現実に適用する、リアリスティックな公共政策論をしたい」という趣旨のことを本書で語っている。要は「経済学と実際の政治の隙間を埋めたい」ということだそうだ。その言葉通り、本書では氏の6年間の政治家生活を通じて得られた実体験を基に、かなりリアルな実際の政治の動きや仕組みが語られており、その動きを知ることができる。


あれほど大マスコミからイメージ操作され、バッシングの嵐にいた氏だが、その真意はつかめないとはいえかなり飄々とした論調でなかなか興味深い人物であることが分かった。なかでも、批判のパターンには3つあり、慣れてしまうと面白いなどと、強がりとも本気ともわからない感想を述べているところは笑ってしまった。やはり政権担当する側は何をしても必ず批判されるので、こうした姿勢は必須なのかもしれない。福田さんや安倍さんのように、やや打たれ弱い二世三世にもぜひ読んでもらいたいところだ。いちいち真に受けて傷ついたり、神経をすり減らしたりするような小者には権力をもつ資格はないというと言い過ぎだろうか。記者にキレるとはあまりにも器が小さすぎる。そういう意味では、もしかしたら麻生さんは総理に向いているのかもしれない。経緯はどうあれ、あの5月解散は避けられないと言われた危機的状況から、結局小沢さんを追い詰めて逆転(?)したわけだから、少なくとも政局を読む能力と、図太さは立派なものといえる。


話がそれたが、批判的な視点で見れば、本書そのものが、構造改革の名のもとに日本の経済を破壊した張本人である氏の弁明の書であるという言い方もできよう。だがよくよく読んでいくと、やはり郵政事業のような魑魅魍魎は、合理的、民主主義的に考えれば解体する以外に国民が利する方法はなかったことがわかるし、市場原理主義というよりも、未熟な時代に必要だった国営事業がその歴史的な役割は終えたというだけのことだろう。だからこその強大な抵抗なわけだが、これは小泉+竹中コンビでなければ決して実現しなかったということがよくわかる。


氏を市場原理主義とラベリングするのはたやすいが、たとえば第2章 「増税論と闘う」において以下のように書いているのをどうとらえるべきだろう。



「日本国憲法(第二五条)では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めていたが、その「最低限度の生活を営む」ことができるように、所得を再分配するという役割が財政にはある。(中略)しかし、その所得再分配をだれが、どのように、どの程度行うのがいいか、この判断は非常にむずかしい問題である。(中略)所得再分配については、いろいろな考え方がある。だれが、どのように、どの程度行うかという組み合わせを、歴史や社会の風土を考えながら築いていく必要がある。それが、実はその国の民主主義のパフォーマンスが最も問われる点である。(本文64~65ページ)」



このように(結果はさておき)氏自身は、やはりバランスのとれた実務家志向といえるのではないか。結果云々についてはよく調べていないので発言する資格はわたしにはないが、少なくとも政治哲学そのものはまさに「政治家」である。この点は評価すべきだと思う。


さて最後になるが、たびたび氏が強調しているのが「戦略は細部に宿る」という点である。つまり、「いくら理想的な青写真を描いたとしても、それを実現するためのプロセスまで含めて戦略的に考えなければ政策論にはならない(本文276ページ)」といことである。こうして氏は理想論を語り批判だけ行うひとたちを暗に揶揄しているが、とはいえ評論家や学者は、物事を客観的に分析したり、仕組みを解き明かしたりするためには重要な役割を果たすのも事実であり、互いに否定する概念ではない。これは「視点」の問題であろう。本書の目的が「リアリスティックな政策論」なので、そういう意味では氏の主張は非常に明確である。「ガタガタ言うな、口だけなら何とでもできる!」ということだろう。(森永卓郎氏などに向けて言っているのかな?) 刻々と変わる政策決定プロセスの変化を踏まえて、どうすればよいかと考える姿勢や、バッシングを含めた批判を楽しむ姿勢など、何度も恐縮だがやはり氏は学者よりも政治家に向いていたのだろう。


小泉元首相の人物評も興味深いが、これはぜひ本書を読んで各自で確認してもらいたい。

テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか/吉野 次郎
¥1,575
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わたしの持っている初版は2006年12月と結構古くなってしまったが、当時はなぜか読んでもまったく頭に入ってこなかった。最近、またぞろテレビを買い替えないとテレビが見れなくなるという恫喝がかまびすしくなってきたため、「地デジ」について復習する意味も込め、改めて読み返してみた。すると、不思議なことにすんなり頭に入ってくる。我ながらじぶんの頭が信頼できない。



センセーショナルなタイトルから、一見インターネット業界からの視点でみたテレビ業界へのよくある批判かと思っていたのだが、内容は割と中立な視点で、テレビ局のビジネスモデルを構造的に解き明かし、その文脈でなぜテレビ業界は閉鎖的なのか、とくにインターネットという新しいメディアに対して敵意をむき出しにしているのかという点をわかりやすく解説してくれているものだ。たいていテレビ局に関する評論は、放送免許を楯に既得権益を手放さず、一部の上層部が権益を独占している点をもって閉鎖的であると批判するというパターンが多いが、テレビ局の仕組みを解説してくれる本は意外にあまりなかったのではないだろうか。



本書は「テレビ業界の人間は、なぜネットをもっと活用してコンテンツを販売しようとしないのか」というインターネット側の主張、それに対する「インターネット業界の連中は、テレビのことがまるでわかっていない」とまったく賛成しないテレビ業界の姿勢を、「なぜだろう」というところからはじまる。この素朴な疑問に答えるために、著者は2兆円のテレビ広告市場を築いた歴史、キー局と系列という仕組み、NHKと民放の二元体制、家電業界との関係、芸能界との蜜月、下請構造、果ては総務省との関係など、およそ現在のテレビ局およびそのビジネスモデルの構造を端的に解説してくれる。読者は、最後まで読み進めれば「テレビはなぜインターネットが嫌いなのか」という疑問に、「インターネットなどにコンテンツを流したりなどしたら、テレビ局がこれまで築いてきた自分たちが安全にかつ確実に儲けられるビジネスモデルを崩すことになるからだ」と明確に答えられるようになるだろう。




楽天がTBSの株を結局手放すなど、本書が書かれた時代(といっても3年前だが)にはまだ「放送と通信の融合」のようなキーワードが世間に踊っていたことも今は昔である。楽天は結局テレビ業界の圧力に屈し(?)、TBS株を手放した。本書においてもテレビ広告は減少傾向に転じたとあるが、確かには微減に転じているものの、やはりまだまだインターネット広告が逆転するような流れは少なくとも国内に関してはみられない。テレビ業界はまだまだ安心してよいのではないか。50年の歴史をかけて築き上げられた強固なビジネスはそんなに簡単には崩壊しない。これはもちろん既存のテレビ業界の中に自由な競争を阻む勢力が多いからでもあるが、テレビが特殊なのはそれ自体が社会に影響力を直接行使できるという点で、他の多くの既得権益のスタイル(農協や郵便局)と大きく異なっている点であろう。自らが輿論を誘導できるというのは他の既得権益者にはない大きな強みだ。ロビー活動も反政府キャンペーンも自在に操れる。国民性を鑑みても、テレビは日本のお茶の間の大切なお供である。アメリカのGoogleのような形でインターネット側が極端にイニシアティブを取ることはまだ先のことになるだろう。



しかし合理的に考えれば、通信だろうと放送だろうと、コンテンツを安全にあまねく行き届かせることができれば、手段はどちらでも構わない」はずだ。ブロードバンド環境(通信環境)がこれほど整備された今、通信と放送は特に区別することもなく、本来のメディア(媒体)という意味で等価であるはずだ。こうしたシンプルな構造が理想だというのは明らかだが、これに対して、上で述べたような意味で「最強の既得権益者」であるテレビ業界がどのように対応をしていくのだろうか。


本書が上梓されてからすでに3年が経過しようとしているのだが、著者がその中で語っている話がすでにやや古くなっているところに、この業界の激動ぶりがよくあらわれていると思う。さて、2011年にはいよいよ地上アナログ放送が終了し、地上デジタル放送一本になる。その時、はたして既存の放送系勢力がどのように市場でプレゼンスを発揮していくのか非常に興味があるところだ。

日本売春史―遊行女婦からソープランドまで (新潮選書)/小谷野 敦
¥1,155
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労作である。


アマゾンのアフィリエイト検索でひっかかった画像では「オビ」がついていないので、ここに引用すると

【その昔、娼婦は聖なる職業だった―――なんて大ウソ!
 幻想ばかりの売春論に喝。新しい日本と「性の歴史」!】

と、こういう本である。


著者は「もてない男」で一世を風靡した小谷野敦氏。本書の成立の動機となったのは、日本における「売春」についての歴史著述があまりにも少ないこと、またその少ない売春史書のほとんどが何かのイデオロギーに毒されたおよそ歴史と呼べないものが多いこと、など、売春を取り巻く我が国の学問研究は非常にお寒い状況にあり、現在の日本においては満足のいく売春通史が得られないことから、自分で書いてしまおうと思ったと『まえがき』で述懐している。


著者は「(本書では)価値判断をしない」と断っているが、実際には、著者がかつて発表した「聖なる『聖』の再検討」という論文で発表した既存の売春論への批判を敷衍し、売春への歴史認識を引用、紹介しつつ、著者がおかしいと思うものには批判を加えるというスタイルで進む。いくつか例を挙げると、「遊女起源論」「聖なる『性』論」というものが歴史家から提示されているが、いずれもナンセンスであり、いずれも近代の歴史家が現代の感覚で飛躍した論理を展開しているだけであると批判を隠さない。


また近世、近代まで筆が進むといよいよイデオロギー論争に踏み込まざるを得なくなる。歴史上の売春と現在の売春は地続きのはずだが、イデオロギーに毒された現在の歴史家、フェミニストから見ると、過去と現在は異なる基準で動いているものらしい。確かに価値観は同一ではないから、その前提は強ち間違っているわけではないだろうが、近代の価値感覚で過去を断罪するのはいかがなものか。著者はこうした視点から、しばしば美化されがちな吉原に代表される江戸時代の遊廓や、岡場所(吉原以外の遊里)などあまり注目されない地方遊里の実態なども調べてくれている。


さらに現代まで来るといよいよソープランド(トルコ風呂)、ファッションヘルス等の記述に入ってくるが、ここまで来ると学者先生たちはほとんどこうした現在の売春の状況にノータッチであることが明らかにされる。歴史を標榜しつつ現在の売春については目をつぶるか、あるいは両者を異なるものとして過去のみを称揚することに本当に怒りを感じているのだろう。最近では東大の大学院生さえ吉原が何をする場所なのか知らないこともあるという。


以上ひととおり我が国における売春の歴史をわずか200ページで追うことができる。付録の参考文献を見れば今からこの分野の研究を始めることも可能だろう。小谷野氏の学問に対する真摯な姿勢がうかがえる。


「ここで紹介した研究所のほとんどが現在入手困難で、人はこれほどまでに歴史の暗部から目を逸らしたがるものか」と著者が嘆くほど、我が国においてこの分野はおよそ学問として成熟したものとは言えないようである。こうした中にあって、本文を読めば明らかであるが、著者は可能な限りの文献にあたり、昨今の研究所を渉猟し読者に情報を伝えてようという気概が感じられる。「私は歴史学者ではないから、自分で新しい史料を発見することはできない」と著者は断っているが、ここまできちんと調べているのだから、歴史書としては十分なレベルであろう。(たとえば作家が書く歴史ノンフィクションはたいていこういうものだ。著者は作家ではないからこうしたことを断っているのだろう) それにしてもよくぞここまでしつこく調べたものだ。本文の最後で著者はこう書いている。


「私の目的は、ここに達成された。というのは、中世の遊女は聖なるものであったと論じる者たちを私は批判したが、彼らの多くは、現代の娼婦について語ろうとしないからだ。近世遊里の「粋の美」や「神婚儀礼の残滓」について語る者たちも同様である。彼らの筆が現代に至ると、(中略)いま現在も存在する吉原ソープ街を見ないことにして(ひどい侮辱だと私は思う)論じるありさまだ。現在わが国に存在する職業としての売春を黙殺して、過去を賛美するような行為は不誠実である。古代から現代までに至るまでの、一貫した日本売春史を記述することによって、そうした論者たちを追い詰めることが、私の目論見だった。」


もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)/小谷野 敦
¥714
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新版暗号技術入門 秘密の国のアリス/結城 浩
¥3,150
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結城浩氏という方がいる。プログラミングの世界では結構著名で、代表的な著作に「増補改訂版Java言語で学ぶデザインパターン入門 」などがある。わたしも何かの強迫観念にかられて、このデザインパターン本を購入したがさっぱり読まず、そのまま誰かにあげてしまった。今考えると非常に不勉強であり汗顔の至りだ。だが今更デザインパターンを学んだところで、仕事で使うところがないのだから致し方ない。まあそんなわたしのトホホ話はさておき、本書はそんな(?)結城浩氏の書いた暗号の解説本である。理系書籍やコンピュータ関連書籍は、たいていアメリカ人の書いた英語のドキュメントが優れており、日本人の書いた本はイマイチであることが多いのだが、結城氏の場合は例外的に、非常にいい意味で「国産化」された文章で、かつこの業界の人が好む「ユーモア」も適宜交えられていて、大変好評である。

暗号、などと聞くといかめしい印象があるが、インターネットがこれほどまでに発達した現在、暗号技術は日常生活において、なくてはならないものとなっている。たとえば、https~で始まるURLは安全だといわれているが、なぜかと考えたことはないだろうか? ベリサイン社は、何を安全だと主張しているのだろうか? 本書はこうした一見難しい(いや、実際難しいのだが)暗号技術をじつにわかりやすく紹介、解説した入門編である。内容は第二次世界大戦で使われた「エニグマ」や、有名なポーの「黄金虫」暗号などを導入に、暗号技術の成り立ちから現在のインターネット技術を支える公開鍵暗号、メッセージダイジェスト、デジタル署名、SSL/TLSまで幅広く記述されている。本当に難しい部分はさておき、こうした技術をさまざまなたとえ話を用いて平易に説明してあり、初学者、特にコンピュータや数学を知らない人にも大変親しみやすい。とはいえ実際はこのコンピュータ業界に従事する専門職を対象にした本であろう。畑違いでこの本を理解できる人は相当賢いので、自信を持っていいと思う。


余談だが、わたしはこれほどまでにさまざまな分野を渉猟する結城氏の実在を実は疑っている(笑)。個人でここまで完成度の高い仕事ができるものなのだろうか? と。もしかしたら、「結城浩」という名前に仮託して、裏に多くの人間が控えており、その著者グループを代表して「結城浩」というヴァーチャルなペンネームを使用しているのではないか、などと思ったりもした。(実際は、個人でプログラミング、ライターなどをこなす方のようです)

増補改訂版Java言語で学ぶデザインパターン入門/結城 浩
¥3,990
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値段を見てビックリ・・・なぜ手放したんだろうか? 最初の"Iterator"だけ、なんとなく覚えている。
六韜 (中公文庫)
¥1,000
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「りくとう」と読む。六韜の「韜」とは、弓や剣を入れるための袋のことで、六韜は文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜からなる古代中国の兵法書である。殷の紂王(ちゅうおう)を滅ぼしたとされる武王とその父文王が、釣りで有名な太公望呂尚(たいこうぼう りょしょう)に質問しそれに太公望が答えるという対話形式で成り立っている。こうした問答形式が初学者にとって有効なのはすでに以前のエントリで述べたとおりだ。太公望自身が著したとされているが、専門家によるとそれは誤りで、もっと後の時代に太公望に仮託して成立したものだという説が有力だそうである。記述内容から、だいたい始皇帝の秦か、項羽と劉邦の漢くらいに書かれたものであろうと言われている。


わたしは不勉強でよく知らなかったが、本書は兵法家にとっては「武経七書」(孫子・呉子・司馬法・尉繚子(うつりょうし)・六韜・三略・李衛公門対(りえいこうもんたい))のひとつとして、非常に有名だそうだ。そんなことを言われても、「孫子」は有名だがそれ以外は知らない人がほとんどではないだろうか(わたしもそうである)。ところが、攻略本などを一般に「虎の巻」と言ったりするが、その出典は本書の「虎韜」であるとされ、意外に身近な存在であったりする。


内容は結構刺激的で、とくに謀(はかりごと)については具体的な描写が面白すぎる。

たとえば、文王の「武力を行使しないで敵を征服するにはどうしたらよいであろうか」との問いに対する回答が素晴らしい。(注:引用者の意訳です)


1.敵国の望むままに従い争わないようにせよ。そうすれば相手は必ず驕慢になり、きっと国内に不祥事が起こる。

2.寵臣(ちょうしん)に近づいて寵臣と君主の権力を二分させ、派閥を作り出せ。

3.ひそかに近臣に賄賂(わいろ)を贈り、買収せよ。

4.君主の淫乱な楽しみを助長させ、宝物を贈り美人を贈り、いいなりになって調子を合せておけ。そうすれば自ら破滅を招くようになる。

5.相手の忠臣を厚遇し、君主への贈り物はみすぼらしくせよ。そうすれば君主は忠臣に疑心を抱くようになる。また使者が来たらなるべく長く留めおき、言い分は聞き入れないようにして代わりの使者を派遣させよ。そうして次に来た使者に対しては誠意をもって対し、親しくせよ。その結果、君主は新使者のほうを信用し、前の使者は不満を持つようになるだろう。これを抜かりなく行えば相手国を出しぬける。

6.在外官吏と中央の内臣との間を離間させよ。

7.君主には賄賂を贈り、寵臣には取り入り、ひそかに買収し、それぞれの本業をおろそかにさせるように仕向けよ。

8.相手国の寵臣への贈り物は豪華にし、よくよく相談せよ。その内容は相手国の利益になるものにせよ。そうすれば相手はかならずこちらを信用する。これを重親(ちょうしん)というが、こうすれば相手国の寵臣はこちらに情を通じてくれるようになる。

(以下、こうしたものが12まで続く)


いかがだろうか。いくつか重複するものもあるが、2,000年の昔に、すでにこんな方法が戦略として語られていたというのだから、やはり中国、シナはすごい歴史を持っているものだ。日本など同時代ではまだ未開のシャーマン時代だ。斬るか斬られるかの時代にあって、戦争ばかり続けざるを得ない情勢にあってはこうした徹底したリアリズムが自然と生まれてくるのであろう。現代のビジネスにも通ずると紹介されているところもあるが、こんなことを現代のビジネスシーンに援用すれば、何かの法に触れそうである。


こうした面だけでなく、もちろん人倫の道を説く「王道」も満載である。こうしたものは「儒教」の元になっているのであろうか? 専門的なことはよくわからないので恐縮だが、解説のほうをご覧いただきたい。


前半は現代語訳、後半に書き下し文があり大変読みやすい構成。訳も自然で違和感がない。非常によい訳である。


解説でも触れられているように、合わせて「三略」も読まれたいとされており、わたしはまだ未読ですが、興味があればぜひ。


三略 (中公文庫BIBLIO S)

¥760
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久遠の絆 再臨詔
¥7,800
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「千年前から好きだった」


なんだか書評じゃなくてだんだん30代オタクのレゲーレビューみたいになってしまったが・・・GWということで大目に見てもらいたいです(笑)。ちなみに冒頭の言はメーカがつけたキャッチコピーですが、Google先生に聞いても 、アクエリオンにやられてまったく検索上位に挙がってきません。


今日ご紹介したいのは「久遠の絆」という、1998年に発売されたノベルゲームです。ジャンルは「シネマティック・ノベル」です。オリジナル版は現在はすでに廃版となっており、「再臨詔」としてリメイクされています。


1995年に発売された「弟切草」「かまいたちの夜」などを皮切りに、ゲーム業界に「ノベル」というジャンルが開拓されました。(おそらく)シナリオと音楽だけあれば、比較的容易に参入できることから、当時あまたのメーカーがコンシューマ/PCを問わず参加したと記憶しています。有名なところでは、18禁ゲーム業界でLeafやアリスソフトといった代表的なメーカが、それぞれ「To Heart」(1997年)、「Atlach=Nacha」(1997年)等を相次いで発売するなどしており、このジャンルは当時相当数のゲームがしのぎを削る、まさに百花繚乱といった感じでした。


(「To Heart」については、ノベルではなくアドベンチャー、ビジュアルノベルという意見もあるかと思いますが、おそらくそれほど厳密に議論されるほどのものでもないので、ここではとりあえずテキストを読んで選択肢を選ぶ形式のものを「ノベル」形式と総称することにします)


平安時代に落ちこぼれ陰陽師として剣にうつつを抜かす主人公、安倍鷹久は、帝の愛人(?)である螢と恋に落ちてしまい、そこから始まる因縁の業。平安の世から元禄の江戸、そして幕末、現代と、業とともに愛も輪廻する・・・とでも書いておけばいいだろうか? 正直、昔過ぎてはっきりと覚えていないのですが、とにかく、やたらと長かった記憶があります。また、開発陣がおそらくまだ手探りだったのでしょう、ロード時間と文字の描画時間も長く、ほぼ同時期に発売された「To Heart」PS版に比べて操作感は最悪でした。おそらく「To Heart」を先にプレイしていたら、これはやりきれなかったでしょう。また、誤字も非常に多く、まさに「駆け出し」感丸出しでした。とはいえ、グラフィックは当時の水準を考えてもかなり美しく、音楽も雰囲気に合った非常に優美なものでした。総合的には、かなりいい線いっていたと思います。




ところで、こうして過去を振り返ってみると、サブカル(というより、物語全般に言えることだが)というのはほとんど過去の作品と似通ったモチーフにならざるを得ないのだという事実に、改めて気付かされます。おそらく、プロの作家はこうしたことを前提に、いかに真新しさを出すか、新鮮さを出すかというのに苦心しているのではないでしょうか。わたしは小説をほとんど読まないのですが、かつて読んだ大塚英志「キャラクター小説の作り方」などを読むと、そんな気にさせられるのです。プロ作家の心労やいかに。



キャラクター小説の作り方 (角川文庫)/大塚 英志
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(わたしが購入したのは、講談社現代新書版ですが、アマゾンのアフィリエイト検索で出てこないようです)



さらに余談は続きますが、「陰陽師」のように、もともとのフリークスがひっそりと愛していたネタを、一般受けするマーケティングに使われるようになったとき、もとからの愛好者はきっと複雑な気持ちになるんでしょうね。たとえば「指輪物語」とか、「クトゥルフ神話」とか、そういうもの当てはまるような気がします。個人的には、メジャーになったことで、多くの人に知ってもらえるのは、非常にいいことだと思っています。大衆化によって、本来の細かい解釈や厳密な語義等が誤解される確率は高くなりますが、それは、分母が大きくなれば致し方のないことでしょう。元からのフリークスは、これまで通り、重箱の隅をつつくような細かい解釈を、同好の志が集うコミュニティで楽しめばいいのではないでしょうか。


なお音楽を担当されていた風水嵯峨さんは、残念ながらお亡くなりになられたようです。ご冥福をお祈りしたいと思います。

女子高生 1 新装版 (1) (アクションコミックス)/大島 永遠
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女子高生 GIRL’S HIGH DVD-BOX1
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どういうタイミングで見たのか覚えていないが、最初にどこかでアニメに観て、たいへんおもしろかったので、今回漫画版を途中まで読んでみた。アニメ版はほぼ原作を忠実に踏襲していたことがよくわかった。




本作は女子高生の生態を描いた日常系コメディである。作者自身が女子高に通っていたらしく、その経験を活かして相当リアリティのある女子高生の実態が、漫画的なデフォルメで描かれている。しかも、掲載誌が成年もとい青年向けであったためか、下ネタもまったく遠慮していない。本当に女子が描いたのかこれ? とつい思ってしまうほどの、たいへん爽快なパンツ漫画である。



アニメのほうは例によって豪華な声優陣だが、作画が少々残念な出来だった。作画監督は梅津氏という非常に「うまい」人だったらしいが、どうやら担当したのはエンディングのカットのみで、本編は違う人が担当していたようだ。しかも、放映当初の裏が、「涼宮ハルヒの憂鬱」という、当時(今も?)一世を風靡した人気作品だったこともあり、こうしたことが相まって本作は必ずしも有名な作品とは言えないようである。私自身も、どういうきっかけで本作を最初に知ったのかまったく覚えていない。完全に、偶然である。



それはさておき、作画が少々残念なのは措いても、作品自体のテンポはたいへん良く、どちらかといえば良作の類ではないだろうか。また一部の愛好家の中では、「神ED」ということで、梅津氏の担当したエンディングアニメーションと、meg rock のポップな歌(incl.)がたいへん人気のようである(ニコニコ動画調べ)。私もmeg rockはなかなかいいと思う。


incl./meg rock
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ちなみに作者は大島やすいちの娘さんだそうだ。母親も漫画家、妹も漫画家だという(Wikipedia調べ)。一家総出で漫画家一家とは・・・いったいどういう家庭なのかw

日体大 箱根シードはく奪に異議「陸上部員400人が連帯責任理解できない」


このニュースは、日本体育大学陸上部が、所属する陸上部員の大麻事件を受けて、「関東学生陸上競技連盟」なる団体から追加処分を受けたことに対して、処分は不当と徹底抗戦の構えを見せているというもの。以下、ニュースより日体大側の主張と、それに対する連盟側の回答を引用する。


【日本体育大学側の主張の骨子】

〈1〉大麻、偽札の件はいずれも現状では立件されていない。
〈2〉当該学生を既に退学処分としたのに、約400人の部員に加え新入生にも連帯責任を負わせることは理解できない。
〈3〉当該学生が所属した男子跳躍部門は無期限活動停止などの処分を下し、部長ら責任者を解任したにもかかわらず、部全体が処分の対象になったのは理解できない。
〈4〉出場禁止期間を「3か月」とした根拠は何か。また、同期間後に行われる箱根駅伝など3大駅伝にペナルティーを科すのはなぜか。


【関東学生陸上競技連盟側のコメント】

 送付したとの報告は受けたが、まだ文書を確認していないので何とも言えない





これに対して、Yahoo!のコメントには多くの意見が寄せられていた。Yahoo!のニュースに残されるコメントは世相というか、標準的な世論が垣間見えて非常に興味深い。


こういうレベルの議論は、おそらく主張している人も、「私もそう思う」ボタンを押してしまう人も、あまり深く考えてはいないものと考えられる。本当は、日体大がどうなろうと、別にどうでもいいのだと思うし、自らが所属する組織が同じ目に逢った際にどうすべきか、という観点から語られたものでもないと思う。要するに「飲み屋での放言」レベルである。


だが逆に、いやむしろ、だからこそこのコメントこそが我が国の「世論」の最大公約数をなしているとも思える。世論というのもおおよそ同じような仕組みで形成されるものだからだ。そういう意味で、私はYahoo!のコメントをいつも楽しみにしている。ここには、我が国の「常識」が詰まっている。


Yahoo!のコメントは時間がたつと消えてしまう(?)ので、ここではあえて一部のコメントを抜き出してみた。なお()書きの数字は、「私はそう思う」のポイント順である。



----------(以下、引用)----------

(1)

私もそう思う:3,237点

私はそう思わない:445点


ならば、汚職をした政治家のいる政党はどこも連帯責任をとらなきゃあいかんなぁ。
あと漢検は組織解体しなきゃな。



(2)

私もそう思う:2,504点

私はそう思わない:1,561点


なぜ連帯責任なのか理解できなければ
「特待制度」も「推薦制度」も「その他助成制度」も全くない所に行けばいい
理不尽であっても組織が、又はその一員が犯したことで
組織構成員が被害を被るのも、理不尽であっても、これまた世の中というもの
いやなら組織を抜ける「権利」は当人にはある

理不尽さを享受すべきどうかは個人の裁量の範囲ですが
組織から恩恵を受けている以上、納得できなくても受け入れるべきと思います
当然、理不尽さには時代による変遷があるのですが
出場辞退とか、1年間活動停止とかという前時代的なものでなかっただけ
個人的にはマシだと思います、チャンスはあるわけですから



(3)

私もそう思う:2,454点

私はそう思わない:1,369点


自分だけ責任取れば何やってもいいのか?自分が退学になるだけでは済まない問題もあるということ。こんなことを考えている学生には抑止力としても「連帯責任」は絶対必要。そんなことも理解できず「あいつが悪いんだから俺たちは関係ない」なんて、大学生にもなってそんなこともわからんのか。やはり不祥事を起こして強引に箱根に出た某大学が悪しき前例となったようだ。



(4)

私もそう思う:2,382点

私はそう思わない:2,228点


大麻ではなく殺人を犯したら、
異議申し立てするだろうか?
高校生と違い節度のある大人が、
犯罪行為を犯したのだから当然の処分。
陸上部として真摯に受け入るべき。



(5)

私もそう思う:1,884点

私はそう思わない:2,889点


全くその通りだと思います。
処分は当事者だけで十分、いつまで連帯責任の処分をしているのでしょうか?
こういうことをすれば部員内の雰囲気も悪くなり、将来性のある選手が陸上競技を断念する人もでるかもしれない。
マイナス効果ばかりでプラスになることはほとんど無いと思います。

----------(引用ここまで)----------



こうした意見を並べてみると、我が国における「常識」が垣間見えてくる。おそらく、十数年前なら「連帯責任当たり前」という声が多数を占めただろう。だが今は、「いまどき連帯責任なんて時代遅れ」派も一定数いるようである。乱暴に分析すれば、だいたい意見が二つに分かれているようだが、傾向としてはやや「連帯責任当たり前」派のほうが少し多いように見受けられる。また、一方で「連帯責任当たり前」派も、「連帯責任時代遅れ」派も、現職の政治家の不祥事については同意見というのもなかなかワイドショー的で、いかにも「世論」みたいである。



さて、ここまで述べておいて私の見解を保留にするわけにはいかないだろう。陸上競技はまったくの門外漢だが、この件については、論理的には日本体育大学側のほうに分があることが明らかである。したがって法的には何ら強制力および妥当性がないはずの「関東学生陸上競技連盟」が、日体大に対する重い処罰を下した理由には、Yahoo!の掲示板での議論に代表される「行間」が原因であると推測する。私なりに敷衍するとその「行間」のポイントは以下のとおりである。


(1)日本において、法を犯す以前に、倫理に悖る行為をしたことは許されがたい。
  すなわち、実刑や起訴、立件の有無を問わず、疑わしいことがすでにひとつの罪悪となる。

(2)スポーツはとくに神聖であるべき。特に学生スポーツではクリーンかどうかがもっとも重要である。

(3)多くの加盟者からなる団体は、法的になんら拘束力や強制力がなくとも、「村八分」という強力な権力を行使することができる。


ということで、論理的な根拠は薄弱であるが、我が国における暗黙の倫理には大きく抵触するため、連盟の下した結論のほうが現状では妥当である、というのが、私の結論である。おそらく多くの人にとって非常に説得力のある判断なのだろう。これは、私などがどうこう言えるレベルの議論ではないかもしれない。


いわゆる正攻法(理詰めで攻めていく)ではダメなパターンであり、日体大としてはいかに周囲の同情をひくかというアピール、プレゼンテーションで勝負するしかないであろう。あまり強硬に対抗しても連盟の態度を硬化させてしまうため、なだめたりすかしたり、うまく世論を誘導していく必要がある。また、最終的な落とし所としては、日体大には大変申し訳ないが、間をとって、「他の2大会は涙をのむが、箱根駅伝にだけはせめて出場させてもらう」くらいで妥協することも(カードの一つとして)覚悟したほうがいいかもしれない。



(・・・と、ココまで書いておいて、どうやら日体大が連盟の裁定を全面的に受け入れた(?)旨のリリースを行っていることに気付きました(こちら )。本当に一罰百戒的な裁定が下されたようです。結局、3大会の出場はどうなったのかここではうかがい知ることができませんが、学長の無念さが伝わってくるようです。ここから先は興味がわかないので、日体大のその後についてはめいめいで調べてください。)



山本(七平)先生がよく指摘していたように、こうした事件を受けて、「では、今後もこのようなことが起きる可能性があるため、あらかじめ加盟団体に所属する部員、学生が刑法に抵触するような罪を犯し立件された場合に、連盟としていかなる処置をとるか具体的に決定しておこう。執行猶予の場合は本人の退部・退学処分および当該大学の直近3カ月の大会出場停止としそれ以外のペナルティは原則認めない。一方で実刑の場合は・・・」という動きにならないのが、我が国の文化であろう。おそらく今後も同じような「行間の読みあい」は続くことになると考えられる。一方の説く常識ともう一方の説く常識のどちらが正しいのか、妥当であるのか。時代とともに移り変わる「暗黙の了解」は、今後10年でいったいどちらに振れるだろうか。そもそも「関東学生陸上競技連盟」なる団体が何を目的とする組織で、どのような権限を持つ組織なのか判然としない状況では、今後も同じことが繰り返されるのではないかというのは杞憂ではないだろう。


2009年4月30日追記:関東学生陸上競技連盟は、箱根駅伝等の陸上競技大会を主催する団体ということでした。組織の目的は明らかだったわけですね。よって、本文中で「したがって法的には何ら強制力および妥当性がないはず」などと主張しましたが、そもそも主催者であるわけですから、加盟団体の選別をする権限は明白に有しているようです。よくよく調査せず書いてしまい、大変申し訳ありませんでした。なお、自戒の意味をこめ、あえて誤解を招く表現部分は削除しません。

「知の衰退」からいかに脱出するか?/大前研一
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書評を書こうと思っていたら、早2ヶ月が過ぎてしまっていた。出てすぐ読んだ本なのに、残念なことである。



本旨からいきなりそれるかもしれないが、私にはもともとひきこもり的なメンタリティがあり、できれば人生の早い段階でリタイアし、競争とストレスのない「スロー」な生き方ができないものかと考えていた。同世代の人間にはあるいは情緒的に理解されるかもしれないが、要するにニート的な生き方である。これは人生の振幅を可能な限りミニマムにする志向で、成功したり他を圧倒したりすることがない代わりに、傷ついたり大きなストレスを感じなくて済む生き方である。近年の流行り言葉でいえば、「草食系男子」と呼べばわかりやすいだろうか。(ニュアンスはだいぶ違うが)


今でも多少この生き方にあこがれるが、こうした生き方は「隠遁」ということばが存在することからもわかるように、昔から存在していた。年をとって一線から身を引いた「隠居」とは違い、「隠遁」にはある種、俗世界からの積極的な逃避をしようとする性向が感じられる。私がよく参照するサイト「世捨て人の庵 」などは、この隠遁を実践しており、そのメンタリティ、哲学等もてらいなく表現されていて非常に参考になる。「資本や資産を持たないことを選択し、大衆化・愚民化してしまうことをラディカルに拒否する」姿勢というのは、私にとっては非常に共感を覚える生き方であり、いまだにあこがれる部分は少なくない。少なくとも自ら思考を放棄した大衆的生き方よりはずっと価値があり、素晴らしい生きざまだと思っているが、やはり自ら経済的なpossessionを放棄してまでこうした「持たざる」哲学を貫徹するほどの覚悟は持てなかった。


ところで、ホンモノの世捨て人の生き方については先述のサイトをご覧頂くとして、「世捨て人」氏が批判してやまない「大衆」とはいったいどういうひとびとのことを指すのだろう。看板コラム「ほぼ世捨て人」で、「悪いのは大衆だ」という項に非常にわかりやすい要約があったので、引用させていただくと、


『―――(大衆とは)最も平均的な9割の人のこと、と言ってもそれほど外れていない。優柔不断、付和雷同で、体制・趨勢に流され、一貫した主義主張がなく、マインドコントロールにかかりやすい人。規格化され、個性がなく、みんなが右を向けば右を向くような人。現状に不満のない人。自分は中流だと思っている人。批判力・独創性・主体性のない人。自分の意見を持たない人。本能、プログラムの通りに行動する人。それでも自分だけは大衆ではないと思っている人だ。(コラム”ほぼ世捨て人”2003年1月 悪いのは大衆だ より抜粋)』


以上の性向をもつ集団もしくは個人ことを「大衆」と呼び、「世捨て人」氏は軽蔑し、嫌悪している。こうした資質は現代を生きる日本人ならある程度「備えてしまって」おり、好むと好まざるにかかわらず、否定はできないだろう。こうしたことに「私は違う」と反論することはたやすいが、反論すること自体が「大衆」であることの証左であろう。そして、実際にさまざまな場面で「では、あなたは自らの頭で考えているか」と問われれば、答えに窮するのが落ちではないだろうか。


なぜこのようなサイトの紹介をしたかというと、私が見たところ、この「世捨て人」的な発想で言うところの「大衆」が、奇しくも本書で大前研一氏の指摘する「B層(*)」すなわち低IQ層」のひとびとの性向とまったく同一であると思えたからだ。一方で有名大学・大学院を卒業し、最高峰のコンサルティングファーム出身の大前氏と、職業フリーターである「世捨て人氏」という、経済的には両極端の生き方を志向していると思われる両氏がそれぞれ個別に指摘する「ダメな人間」の典型がここで同一の像を結んでいるように感じられるのである。これは果たして偶然だろうか?

(*B層:大前氏によれば、小泉首相在任時、竹中平蔵経済財政大臣(当時)が起用した有限会社スリードという広告代理店が作成した資料にあった言葉で、IQの低い層のことを指して「B層」と定義していたという。ちなみに同様の資料によれば「A層」を財界勝ち組企業・大学教授・マスメディア・都市部ホワイトカラーとし、「C層」を構造改革抵抗守旧派としている。)


本書は、端的にいえば、こうした「B層」な人々=低IQな人々に対するラディカルな啓蒙である。我が国は長い経済的文化的繁栄に胡坐をかき、今や世界でも有数の「アホ」の集まりになってしまった。それではまずい、なんとか、日本国全体としてもっと考える国民を増やすべきである、つまり「集団IQ」を高めなければ亡国を待つのみだ、という主張である。


しかし、当然ながら、「それでもいいじゃないか」という反論が予想される。近年、「草食系男子」という言葉があるほど、若者の内向き志向は周知の事実である。このようなある種のデカダンというべき性向は、先進国が陥る典型的な陥穽なわけだが、本書が面白いのは、冒頭でこうした「スモールハッピネス志向」を「ポルトガル現象」あるいは「イギリス病」という、かつて先進国がたどった「いつか来た道」であるとし、あらかじめ「スモールハッピネスという選択もないとは言えないが、それはイコール衰退であり、けっして知的生活・豊かな生活を約束するものではない」と断じているところである。これはなかなか興味深い指摘だろう。他にも、中国には学ぶところがないと思っている狭量な発想ではだめで、学ぶべきところは学ばなければならないというような指摘、これなどもとても還暦を過ぎたとは思えない柔軟な思考である。


大前氏(というか、尊敬をこめて敢えて「研一」と呼びたいが)は、調子が悪い時に読むと疲れるが、元気なときには非常にやる気を与えてくれる人である。研一はいろいろなところで積極的に発言をされているためか、発言の矛盾が目立ってきたり、かつての発言をなかったことにしたりするところがなきにしもあらず、である。ただ、こういう点は有名人である以上仕方がないことかもしれない。それこそ研一にも「いいところだけ学ぶ」ということでという精神で、本書を読まれてはいかがだろう。


即戦力の磨き方 (PHPビジネス新書)/大前 研一
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こちらは空港の書店で見かけたためつい買ってしまった研一新書。飛行中の1時間で読了してしまった。終始、研一の自慢話(笑)です。
ぼくの比島戦記―若き学徒兵の太平洋戦争 (光人社NF文庫)/山田 正巳
¥820
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著者は大正11年愛知に生まれ、高等学校(今でいう大学)を繰り上げ卒業ののちにわずかな期間会社勤めをし、その後豊橋の予備士官学校を出てフィリピンに従軍したという。魔のバシー海峡をなんとか生き延び、サンフェルナンドへ上陸・・・これはまさに山本七平氏のそれとほぼ同一の経歴である。そんなわけで、「大正11年生まれ」に敏感に反応してしまったわたしは、内容の確認もせず迷わず購入した。(光人社NF文庫は、シミュレーションノベルなどと同列に、こうした本当の「戦記」が混じっていて非常に興味深い。)


本書の成立に至る細かい経緯はよくわからないが、著者は自らの記憶があいまいであることをよくよく承知であり、努めて多くの文献や他人の記憶と照合し、事実を正確に記そうとしておられる。また、実際に従軍した方々の中にときどき見られる強烈な旧軍へのルサンチマンも感じられない。そこにあるのは、ただ、正確にフィリピン戦の実態を書き残そうとする真摯な志のみである。こうしたことは、現代の読者にはその凄さがよくわからないであろう(もちろんわたしも、よくわかっていない)。不合理な組織の論理、死への恐怖、餓え、先の見えない状態、およそ考えうるあらゆる極限の状態に置かれてなお、その境遇を受け入れることができるのは並大抵のことではない。たとえそれが、50年という年月が流れた後であったとしても。


だが従軍経験のない我々からすれば、こうした冷静な視点で語られる「戦記」というものほど、ありがたいものはない。わたしが繰り返し読んだ山本氏の著作はすぐれた戦記だが、かれの場合語り口が独特すぎて、どこまでが事実であったかわからない点に難がある。山田氏は、ある意味では物書きの「素人」であるため、そうした点をより慎重に考慮されたのだろうか。最初から最後まで冷静で、わきまえた記述に徹するあたり、非常にすぐれた記録文学として成立していると思う。マイナーではあるが、多くの方に読んでいただきたいと感じた一冊である。


ルソン関係の戦記で、今のところ読めたのは以下のもの。もちろん山本先生の本がきっかけであるが・・・戦記はひとによって記述の癖が非常に出るため、複数のものを読み比べながら、「戦争を知らない世代」なりに、想像力を働かせて読んでいる。


Gパン主計ルソン戦記―戦場を駆けた一青年士官の青春 (光人社NF文庫)/金井 英一郎
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ルソン戦記―若き野戦重砲指揮官の回想 (光人社NF文庫)/河合 武郎
¥720
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奇しくも、ここまですべて大正11年組。


↓こちらは山本七平氏が著作で紹介した、小松真一氏の日記。なんとちくま学芸文庫から文庫化されました。

虜人日記 (ちくま学芸文庫)/小松 真一
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↓これは上記の復刻のきっかけとなった、山本氏没後の新書。「虜人日記」の解説本(?)。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)/山本 七平
¥820
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↓こちらはまだ未見。

フィリピン敗走記―一兵士の見たルソン戦の真実 (光人社NF文庫)/石長 真華
¥760
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余談だが、太平洋戦争・主要戦闘辞典 によると、当時のルソン島での戦史はこうなっている。


「(本文393ページより)◎ルソンの戦い 兵器なき日本軍30万人の持久戦

 戦場・ルソン島、マニラ市街も含む。

 指揮官・第14方面軍司令官山下奉文(ともゆき)大将。

 (中略)

 日本軍の戦果・なし

 日本軍の損害・戦死約21万8200人

 (中略)

 アメリカ軍の損害・戦死7933人、戦傷3万2732人」


ルソンだけではないが、中盤以降(1942年以降)はこんな記述ばかりが続き、複雑な気持ちになる。


2009年4月26日追記:「光人社NF文庫」を「光文社NF文庫」と誤って記載していましたので、修正しました。訂正してお詫びいたします。