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ネパールの手帖

平成22年6月から2年間、ネパールでソーシャルワーカーをしてきました。「ネパール日和」から「東京日和」へ。東京の空の下、ネパールで感じたことを思い出して記していきます。

今日と明日はストライキですって。
大人しく家でレポート書きと読書でもして過ごします。
って、やっぱり昼寝をしてしまう・・・。

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最近カトマンズでは、この紫色の花が満開!日本の桜並木に負けないくら
いキレイです。

ネパールで素晴らしい職人に出会うことがある。

今まで出会った多くの職人は、偶然なのかネワール族の人たちだ。

手織りで布を作っているパタンのおじさんがいる。

機械織りでは出来ない、柔らかな生地になる。

素材にもこだわり、そして新たな素材に挑戦している。

パタンのおじさんが挑戦して織った麻とコットンを混ぜた生地を買った。

試しに織っただけだから400ルピーでいいよ。と破格の値段で譲ってくれた。

オーダーメードが中心のネパールの衣服。

生地のことも詳しく、私が持って行く生地をつぶさに素材を当て、「いい生地だ」と褒めてくれる人がいる。

今回もそのおじさんに縫ってもらうことにした。

裏地はこれまた手織りのシルクを使ってもらい、自分でデザインしたコート。

なかなかいい出来である。

「ゆきが持ってくる生地はいつも良い生地ばかりで職人として嬉しいよ。緊張するけどね。」

そう言って、私サイズに仕上がったコート。似合うかしら?

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小さな小さな冷蔵庫に存在感たっぷりだった麹菌・・・

乾物入れに入っている1キロの大豆・・・

わかってます。使いますよ。

おもーーーーい腰をあげて作る。

2012年版の味噌を。

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一晩しっかり水に漬け、大きくふやけた大豆は冬眠から覚めたかのようにつやっつや。

そして、また一晩しっかり火を入れ、

ミキサーもないから手で半日がかりで潰し、麹と塩を混ぜて、完了。

あとは自然の気温と麹菌がしっかりと働いてくれたら、ゆっくり発酵して、10月には食べられるだろう。

私はネパールにいないけど。

ネパールで味噌を作っていると、機械もないし、人力のみで作るしかない。
昔の人たちは、こうやって保存食を作り、寒い冬を迎える準備をしたりしたんだな。
と、感じながら作る。

たまには、こういう単純作業をしたほうがいいな。
満月。

ネパールで生活していると、月の満ち欠けを意識する。

新月や曇っていて月が見えないと、足元が暗いし、

今日は仏陀の誕生祭。

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ボダナートは朝から参拝者で賑わう。
日本から遊びに来ていた母を空港に送る前にボダナートへ。

結局、母はボダナートに3回来たことになる。

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夜、再びボダナートへ。満月が大きく、赤く輝いていた。
明るすぎて月で暮らすウサギは隠れているようだ。

子供の頃に、このスーパームーンとか言われる大きく赤い月を絵に描いたら
「これは月じゃない」
と書きなおさせられ、悲しい思いをしたことがあったなぁ。

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バターランプにたくさん火を灯した。
昔の人は、火を恐怖の対象にも、喜びの対象にもしていたのだろう。
ネパールの人たちはそれを知っている。
だから火を大切にするのだろうな。

ネパールで迎える満月はあと一回。
知らない電話番号から、突然電話。

「うちの子どもはダウン症なのだけど、ユキならなにか力になってくれるかもしれないと聞きました。一度会ってくれませんか?」

日本では知らない人に電話番号を教えるなんてありえない。
でも、ネパールでは問題なし、それが、出会いに繋がる。

日本から来ているだけで、私には何も出来ない・・・一度会っただけで何も出来ないし。
自分の無力さを感じながら、お休みの学校で面会。

17ヶ月になるLちゃん。

私の顔をしっかりと見て、ニコニコ笑い、踊るしぐさを見せてくれる。

「なんて可愛い子なの!天使みたいだね!!!」

そう話すと、緊張の面持ちのご両親も嬉しそうに「とってもいい子なの」とLちゃんのことを少しずつ話してくれはじめた。

心臓疾患はあったものの、手術が成功して問題ないこと。

「この子、涙が止まらないの」と話すお母さん。

先日、お会いした眼科医の先生がダウン症児に関して見識のある方だったので、その先生を紹介。

また、首都在住ではないものの、いいデイケアセンターがあるので、そこを紹介することもでき、最後は笑顔のご両親を再会を約束。帰るまでに絶対に行くから!待っててね!

色々なことに挑戦していける賢い子に育つと私は信じてるよ。と話すと、ユキに会えてよかった。と言ってくれた。

彼女の笑顔で周囲の人まで幸せになる。そんな可愛いLちゃん。
健やかに育ちますように。


ネパールは2069年を迎えた。

明けましておめでとう!ナヤバスサコ スバカーマナ!

新しい年に祝福を。

2069年。ネパールのヴィクラム暦は西暦よりも先を歩んでいる。ここは未来なのかもしれない。この未来を西暦2012年はどう見るのか…。

配属先のカウンターパートはスイスに研修に行っているため、「申し訳ない」という気持ちを持たず、思いきって最後のトレッキングに出発出来た。



ネパール生活最後のトレッキングは「エベレスト街道」。


エベレストに登るわけではなく、奥まっているエベレストを近くで見るために登るコース。

登り9日、下り4.5日の長丁場ではあるものの、長ければ長い分、自分自身との対話、考える時間が取れていい。

トレッキングを始めたのはネパールに来てからであるが、登頂することよりも、途中の村々での出会い、山間部の寺院などを見て回るのが楽しい。

この旅は、どんな出会いが待っているのだろう。

(写真は重かったため、後日追加する・・・と思う。)




【1日目】KTM→ルクラ→パクディン(2,610m)

カトマンズ空港からルクラ空港へ。世界一危険な空港とも言われているルクラ。
滑走路は45m。斜面を利用して着陸。全ては運命。命を運んでいただこう。

カトマンズの空港で6時間待った末、飛び立つ。
根っからの晴れ女。これだけは自信がある。
(晴れ過ぎて、苔むす島、屋久島でも晴れてしまうのは残念だが。)

去年は11日間飛ばなかったこともあるルクラ便を考えれば、7時間待ちなんてたいしたことではない。

飛行機が無事到着し歓声があがった。9.11直後のNY便の光景を思い出す。

道が整備されているのに驚く。さすがエベレスト街道。

山小屋は綺麗でダニの心配なく眠れそう。食事も美味しく快適な旅になりそう。




【2日目】パクディン→ナムチェバザール

快眠。どこでも眠れることは、才能かもしれないと思う。そういえば、眠れないという悩みを経験したことがない。

ナムチェバザールは何でもそろう夢のバザールだった。ネパールご自慢のブランドSherpaもあるし、イタリア産コーヒーも飲めるし、ビリヤードだって、ディスコまである。

夕食はYakステーキを頂く。何を食べてもいいというのは気が楽でいい。
同じ宿に泊まっていた欧米人の誕生日会。アップルパイを頂く。牛の首輪をもらってご機嫌なおじさんだった。




【3日目】ナムチェバザール高度順応日→Everest View Hotel(3,880m)

歩きやすく、景色のいい道を進み、エベレストビューホテルへ。作った立派な作りに驚く。日本人の繊細さに感動すると同時に、その日本人からしっかり学んで作り上げた現場のネパール人がいたことが誇らしい。ネパール人でも繊細な仕事を出来る人はいる。

こんな土地でまさかの、生レモンが出てくるとは。レモンティをいただく。
すると、日本人の素敵な白髪のマダムが現れる。

すらりと背が高く、健康的な女性。

今回の旅は、他界したご主人の登山記録を整理し、それを参考にジリからの旅をしてきたとのこと。

「結婚相手を探す時、山に一緒に登れる人だったらどんな人でもよかったのよ」

そんなことをいいつつ、ご主人の事を本当に尊敬し、愛されていたのを感じた。

素敵な人。吸い込まれるように話しを聞きいってしまった。「まだまだ話したいわね」そう言っていただいたが、お互いのルートが違ったため、お別れ。

東京で、またゆっくりお会いして、今までの旅の話を伺いたい。

帰り途、ネパールの国鳥、ダーフェがいた。虹色に輝く鳥だった。

ナムチェの寺院へ。綺麗に整備され、僧侶が「よく来たね!」と言わんばかりの、歓迎の表情で迎え入れてくれる。そして、我々の疑問に心から親身に説明してくださる姿に仏の姿をみる。




【4日目】ナムチェ→キャンジュマ(3550m)

友人が高山病の症状はないものの、心拍数が早いのが気になり、通院。問題なし。
とにかく水分を。酸素を吸収しやすくするための飲みモノを大量に処方されていたが、それが究極にマズイことを私はは知っている。。。可哀想に。

歩きやすい道であったが雨も降りそうだったため、早めに休む。近所を散策。
昨日に引き続きダーフェがいた。しかもメス2羽にオス1羽が駆け引きをしている様子が見られた。単眼鏡が役に立った。

トレッカーはなかなか泊まらない場所だったが、小さな宿で家庭的な雰囲気。食事も美味しく、手を洗うためにもお湯を沸かしてくれる優しさ。




【5日目】キャンジュマ→パンボチェ(3930m)

少し喉が痛い気がする。一日中歩きやすい道で、おしゃべりしながら歩く。女子だな。と思う。

子牛VSカラスのバトルをみる。人間はそっちのけの世界。
ヤクの大群。この肉付きと、くせっ毛がたまらない。


【6日目】パンボチェ→ディンボチェ(4410m)
終日ヒマラヤに囲まれ歩く。エベレストも見えるがまだ遠い。もっと近づくぞ。プモリは女性的なやわらかな丸みの山で見ていると優しい気持ちになる。日焼け防止に全身覆い歩く。




【7日目】ディンボチェ→ロブチェ(4940m)

ロブチェ到着まで、元気すぎたのは若干心配だった。こんな調子じゃどこまででも登れそうな気がする!!TOP OF THE WORLDエベレストに足を踏み入れてられるのでは?と錯覚を起こすほど体力が有り余っていた。

途中、ロブチェを登っている人達が小さな点で見えた。単眼鏡で見ると数人が等間隔に歩いているのが見える。(後でわかったことだが、この点見えていたのは冒険家の石川直樹さんだった)

ロブチェから午後高度順応の為、さらに200m高度を上げ、休憩したのちまたロブチェへ帰ると少し頭痛。これは軽い高山病の症状だな。吐き気もないし、けだる感もない。少し歩いて慣らそう。そう思い歩く。少し必死に歩いてしまった。

すると、ますます頭痛が酷くなり吐気まで。これは下山した方いいか?
理学療法士の友人に背中や肩を念入りにマッサージしてもらうと、血行がよくなったのが手に取るようにわかる。スーッと血が流れていき酸素が体中を満たしていく感覚を覚える。

急に楽になり、スヤスヤと眠る。

深夜、数回、トイレに行くと息苦しさを感じ、冷や汗。
息を吐くことを意識する。

そして、また熟睡。

私が死ぬ時は間違いなく眠ったまま死ぬのだろう。

そんなことを考えながらすぐに深い眠りにつく。この状況において、幸せなこと。




【8日目】ロブチェ→ゴラクシェップ(5180m)

朝、すっきりと目覚め、食欲もあり、登れそう。
美人シェルパと話す。山で美人に出会うのは女性の私でも嬉しい。男性であったらアドネナリンでも出るのであろう。素晴らしい効果。

彼女曰く、この土地に1年中暮らすことは不可能。3ヶ月単位でカトマンズや標高の低い山小屋に移動するらしい。彼女たちの血中酸素も我々と大差ないらしい。慣れているというだけのようだ。この血中酸素を標高0mで試そうもんなら窒息するほど苦しいとか。体験したくないが、今ならそんなに苦しくない。こんなもんか。くらい。職に困ったら山小屋女将でもしようか。

歩き始めると足も軽く、軽快。調子に乗らないように、お調子者の自分に鞭うつ。

酸素ボンベから酸素を吸いながらヤクに背負われてくる欧米人に出会う。

ゴラクシェップに到着。
宿に救護のヘリが飛んでくる。

「ビラミー ビラミー」(直訳すると「病気」。高山病もさす。)と連絡を取り合うシェルパや宿の主人。

明日は我が身なのか・・・今日は眠れるのか・・・。不安が増して緊張してくる。

天気がいまいちだったのと、体力を考えて、ベースキャンプへの散歩はやめ、明日登るカラパタールを下見がてら途中まで登る。

調子もよく、心身ともに元気。友人宛へ結婚式のお祝い映像などを撮ってみたりして遊ぶ余裕あり。体力も気力も。昨日の頭痛がウソのような一日。

深夜。今日も熟睡。

一度トイレに起きるものの、眠れぬ友人に「羨ましかった・・・」と言わせるほどの熟睡だったようだ。しかし変な夢をみた。「イエティに会いたい!」となぜか叫んでいる夢。5180mの私の夢にまで出てくるイエティとは、何者ぞ・・・。




【9日目】ゴラクシェップ→カラパタール登頂(5550m)→ペリチェ

目覚めるまでぐっすり。しかし、頭を下げてかがむと息が切れる。空気が薄い。スパッツを履きかえるのもおっくうだったのでヒートテックインナーのまま服を着る。

空腹だったが4時起床、4時45出発でカラパタールへ。
空腹が苦手なので少し心配。

始めはヘッドライトの明かりを頼りに歩く。一昨日は、このヘッドライトのゴムバンドも頭痛を誘発させるような気がしてイライラしていたのだか、その不快感もない。しかし、空腹。

鼻呼吸。鼻呼吸。息を吐く、息を吐くと意識する。

ゆっくりゆっくり登り、6時56分、無事登頂。
エベレストから出てくる朝日にホロリ涙が出る。

これから、自分が人間という生き物として、自然界の偉大さ身体中で感じながら生きていこうと思った。

そして、気力とはよく言ったものだ。体力は気力と並行してある力かもしれない。そして、私は体力より気力があるということに気づいた。

ゴラクシェップに戻り、一気に下山。雪が降ってきて寒い。無言。




【10日目】ペリチェ→タンボチェ

ヤクの子どもの写真を写そうと近づいたら親ヤクが突進してきた。危なかった。
ごめんよ。とって食ったりしないから。

そして、頭がかゆい。かれこれ10日シャワーを浴びれていない。
友人とドライシャンプー大量使いに挑戦。臭いや不快感はなくなる。




【11日目】ペリチェ→ナムチェ

11日ぶりのシャワー。髪の毛の感覚が戻る。高地でお湯を浴びれることにありがたさを痛感する。

ベーカリーでレモンチーズケーキを頂く。沁みわたる美味しさ。
そこでPC作業をする日本人らしき人。顔を覗くと写真家の石川さんのように見える。しかし、自信なく「日本人の方ですか?」と声を掛けてもらうのを「待っていました!」とばかりに「石川さんですか・・・?」。まさか、この山の中でお会いできるとは。

同世代で群を抜いて「スゴイ」と思っている方であり、人となりだけではなく、
石川カラーの写真は荒い息の中シャッターを切っているとは思わせないハッとする作品ばかりだ。ドーーンとカメラで受け止めたような。あ、植田正治写真美術館のカメラ部屋に入ったみたいな。

晩もご一緒させていただくが、聞きたいことは山ほどあるものの、とんちんかんな質問攻めにしてしまい、自分の初対面コミュニケーション力のなさにがっかりである。

カラパタールごときな我々に、登頂祝していただいた。
ローツェ登山からお帰りになったらカトマンズでお会いできることを楽しみに、陰ながら北の方角にエールを送ろうと思う。

そして、順を踏めばエベレストも行けますよ。と言っていただき、気が大きくなり、次は6000m位に挑戦して6000mからの景色を見てみたいと欲が出てきてしまった。




【12日目】ナムチェ→パグディン

下り、足が走りたくてうずうずする。走しる。小走りだが、気持ちがいい。
都心でマラソンするのがあまり心地よくなかったのは、この足の裏の感覚のせいだったのだと気づく。右へ左へトントントントンと軽快に駆け下る。マーダルの太鼓のリズムのよう。

前に習ったことのある「古武術」を思い出し、走ってみる。習得出来ていないため感覚はつかめなかったが、古武術の走り方をマスターしたら、飛脚のごとくどこまでも軽快に走れるのではないだろうか。帰国したらまた習いに行こう。

ゆっくり歩くと、余計疲れるような感覚になる。小走りがいい。
そして、小走りにはこのトレッキングシューズは重い。

チベット人の行商に出会う。これから街道を登りながら売り歩くのだという。行商を始めたばかりといい、商品のチョイスが外国人向けでない。外国人の好む物をリサーチするようにアドバイス。私の事を「妹、妹」と呼んでいたが、たぶん私の方がお姉さんだ。頑張れ妹。

パグディンは水が豊富だからかミネラルウォーターを製造販売している店がいくつかあった。あまりに簡単な機械でびっくり。




【13日目】パグディン→ルクラ

ポーターの子ども達を話をしながら下りる。商品運搬の場合65キロまでというのがルールとしては決まっているようだが、キロ単位で稼ぎになるため、80キロ、100キロと背負うポーターも山ほどいる。まだ学校に通うには遅くない年齢なんだから、出来るだけ学校に通って、英語勉強して山岳ガイドになれば、いい給料になる。学歴は関係ない。という話しをする。ネパール語が出来ると現実も見えやすくなってくる。知りたくないことも知ってしまう。

ただ、現実から目はそ向けてはいけない。知るべくして知った現実なのだと、受け止め、自分に出来ることをしてきければ、それでいいのだろう。

シェルパ族は山で成功したネパールが誇る民族だ。世界で最も有名なネパール人はシェルパだ。それを知り、誇りに思い、糧になれば、山からネパールはどんどん健やかな未来に向うだろうと思う。

帰り道、78歳の山岳映像作家のいとうさんに出会う。
1960年代から山岳映像を趣味で取り続けているそうで、日本に帰ったら上映会に是非足を運びたい。

ルクラにて偽物スタバでコーヒー。
ダライ・ラマの肖像画が飾られている。
ネパール産コーヒーが美味しいのだから自信を持ってほしいなぁ。

夕食、再びいとうさんに会い、1960年代の山岳ドキュメンタリーやリーフェンシュタールの話などをする。当時を知っている人から聞く話は、やはり生き生きしていて楽しい。

最後の夜に素敵な出会いだった。




【14日目】ルクラ→カトマンズ

定刻通り、フライト。またねエベレスト街道。

今日は午前中、ネパールでボランティアをしている知人がセンターの見学に来た。
誰か見学に来ると少し張り合いが出るセンター。

しかし、今日は全く駄目。
「アルチーラギョ」(めんどくさい・・・)

とはっきり先生達に言われ、お手上げ。
せっかく見に来てくれたのに・・・。

校長先生は研修でスイスに行けることになり、もう有頂天!私のやってる「小さな仕事」には興味がない。

すると、午後、センターにプラティバさんが来てくれた。

彼女は日本で障害に関することを勉強され、かつネパールで実践されている尊敬すべき人。

彼女の凄いところは、アメリカンドリームみたいな大きな夢を描かず、出来ることを忠実にしているということ。

とても忙しい中、時間を作ってセンターを見学に来てくれた。

そして、やる気のない先生方を見て、私の苦労を感じ取ってくれた。
座ったまま、立とうともしない先生に一緒に呆れてくれた。

ノルウェーからの支援で買ってもらったスパイスを作るマシーンも、使っているのは利用者ではなく大人達。しかし、ドナーにはまるで利用者が使っているかのような写真を写し報告する。そんな実情すら全て私が話さなくても解ってくれた。

イライラのピーク。

でも、やっぱりその気持ちに気づいてくれたのもネパール人だった。

私が日本に帰国したのち、研修でプラティバさんも日本に行くことになった。
是非日本の職場を見てほしい。それが実現しそう。

彼女が、地道な活動を続ければきっとネパールの未来は明るい。

プラティバさんありがとう。
便利シリーズ

逆にいらなかった!モノ。

・プリンタ(ネパールで3000円位で買えたし、日本からわざわざ持ってきたのにすぐ壊れた)

・かわいいグッヅ(たまには女性であることを思い出すために癒しグッズを持って行くといいよと言われたけど、ヒマラヤに癒されるのでそんなモンいらない・・・)

・服(ネパールで十分手に入る!最近はリーバイスやZALAなんかもあるし。ネパールのコットン製品は品質よいので、むしろ買いたくなる!っていうか、そもそも洋服をあまり着ない)

・バッグ(ネパールで可愛いバック、便利バックは沢山手に入るし、むしろ大量買いしちゃうくらい。品質の良いアウトドアバッグは必要。)

・文房具(本当にいらなかった!折り紙も売ってるし。パイロットのボールペンとかも売ってるし・・・)

・日本食(しょうゆ、みそなどの調味料は普通に売ってる。日本食には困らない国。館物のおつまみは活躍中。)

・日本のお酒(ネパールは日本のお酒の輸入業者がいるほど)

・化粧品(基礎化粧品は使うけど、化粧品、爪関係はいらなかった!日焼け止めだけあればいいわ)


結局、現地でなんとかなるもんだ。
ネパール生活で便利なものシリーズ。

ネパールは本当に便利な国なので、何もいらない!

今からネパールに赴任するならスーツケースひとつで十分!

わざわざ買うことはないけれど、日本で使っているならiPhoneをシムロックフリーにして持て来ると便利!

ネパールのシムを指せば使えるし、通話料も破格に安い。

村落地派遣だった私、ネット環境が悪く、iPhoneが唯一のネット手段だった時期もあるくらい。

ちょっと難しいネパール語の会議の録音も出来るし、カメラにもなるし本当に便利。

そして、ネパールでもiPhoneを使っている人、多い。

日本人ボランティアはあまり使っていないけれど、韓国人ボランティアの多くの人はiPhoneなどの便利端末を使っている。

不便なくらいがいいんだ!最新機器は使わず、どっぷりと村落生活を楽しむのだ!というなら、もちろんいらない。

でも、連絡事項は全てメールでくるわけで、結局必要。
ついにガスが買えた――!わーい!わーい!
2週間待った!

ということで、お湯でシャワーに入れる!キラキラ

なんて朝からお湯シャワーを浴び、浴びたお湯で洗濯ゴシゴシなんてしていると・・・

「ユキーーーーマンディール ジャオ!」(ユキお寺行くよ!)

と、大家さんに誘われ、マンディールに行くことに。

今日は、もうひとつのダサイン祭だそうで、丘の上にそびえるマンディールでお祈り。

だんだんとお祈りの方法も慣れてきたワタシ(笑)
シバ神からお祈りします。

ネパールのマンディールはその場所によって様々で飽きない!

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大家さんのお母さんの日課はお祈りの準備が中心。

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今日は「gharko kumari puja karne din」(家のクマリのお祈りの日)だそうで、可愛い女の子がいっぱい!

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お祈りグッズを売る兄弟。弟想い。ネパールの兄弟は本当に仲良し!ますますネパールが大好きになるネパールの休日。