エベレスト街道トレッキング | ネパールの手帖

ネパールの手帖

平成22年6月から2年間、ネパールでソーシャルワーカーをしてきました。「ネパール日和」から「東京日和」へ。東京の空の下、ネパールで感じたことを思い出して記していきます。

ネパールは2069年を迎えた。

明けましておめでとう!ナヤバスサコ スバカーマナ!

新しい年に祝福を。

2069年。ネパールのヴィクラム暦は西暦よりも先を歩んでいる。ここは未来なのかもしれない。この未来を西暦2012年はどう見るのか…。

配属先のカウンターパートはスイスに研修に行っているため、「申し訳ない」という気持ちを持たず、思いきって最後のトレッキングに出発出来た。



ネパール生活最後のトレッキングは「エベレスト街道」。


エベレストに登るわけではなく、奥まっているエベレストを近くで見るために登るコース。

登り9日、下り4.5日の長丁場ではあるものの、長ければ長い分、自分自身との対話、考える時間が取れていい。

トレッキングを始めたのはネパールに来てからであるが、登頂することよりも、途中の村々での出会い、山間部の寺院などを見て回るのが楽しい。

この旅は、どんな出会いが待っているのだろう。

(写真は重かったため、後日追加する・・・と思う。)




【1日目】KTM→ルクラ→パクディン(2,610m)

カトマンズ空港からルクラ空港へ。世界一危険な空港とも言われているルクラ。
滑走路は45m。斜面を利用して着陸。全ては運命。命を運んでいただこう。

カトマンズの空港で6時間待った末、飛び立つ。
根っからの晴れ女。これだけは自信がある。
(晴れ過ぎて、苔むす島、屋久島でも晴れてしまうのは残念だが。)

去年は11日間飛ばなかったこともあるルクラ便を考えれば、7時間待ちなんてたいしたことではない。

飛行機が無事到着し歓声があがった。9.11直後のNY便の光景を思い出す。

道が整備されているのに驚く。さすがエベレスト街道。

山小屋は綺麗でダニの心配なく眠れそう。食事も美味しく快適な旅になりそう。




【2日目】パクディン→ナムチェバザール

快眠。どこでも眠れることは、才能かもしれないと思う。そういえば、眠れないという悩みを経験したことがない。

ナムチェバザールは何でもそろう夢のバザールだった。ネパールご自慢のブランドSherpaもあるし、イタリア産コーヒーも飲めるし、ビリヤードだって、ディスコまである。

夕食はYakステーキを頂く。何を食べてもいいというのは気が楽でいい。
同じ宿に泊まっていた欧米人の誕生日会。アップルパイを頂く。牛の首輪をもらってご機嫌なおじさんだった。




【3日目】ナムチェバザール高度順応日→Everest View Hotel(3,880m)

歩きやすく、景色のいい道を進み、エベレストビューホテルへ。作った立派な作りに驚く。日本人の繊細さに感動すると同時に、その日本人からしっかり学んで作り上げた現場のネパール人がいたことが誇らしい。ネパール人でも繊細な仕事を出来る人はいる。

こんな土地でまさかの、生レモンが出てくるとは。レモンティをいただく。
すると、日本人の素敵な白髪のマダムが現れる。

すらりと背が高く、健康的な女性。

今回の旅は、他界したご主人の登山記録を整理し、それを参考にジリからの旅をしてきたとのこと。

「結婚相手を探す時、山に一緒に登れる人だったらどんな人でもよかったのよ」

そんなことをいいつつ、ご主人の事を本当に尊敬し、愛されていたのを感じた。

素敵な人。吸い込まれるように話しを聞きいってしまった。「まだまだ話したいわね」そう言っていただいたが、お互いのルートが違ったため、お別れ。

東京で、またゆっくりお会いして、今までの旅の話を伺いたい。

帰り途、ネパールの国鳥、ダーフェがいた。虹色に輝く鳥だった。

ナムチェの寺院へ。綺麗に整備され、僧侶が「よく来たね!」と言わんばかりの、歓迎の表情で迎え入れてくれる。そして、我々の疑問に心から親身に説明してくださる姿に仏の姿をみる。




【4日目】ナムチェ→キャンジュマ(3550m)

友人が高山病の症状はないものの、心拍数が早いのが気になり、通院。問題なし。
とにかく水分を。酸素を吸収しやすくするための飲みモノを大量に処方されていたが、それが究極にマズイことを私はは知っている。。。可哀想に。

歩きやすい道であったが雨も降りそうだったため、早めに休む。近所を散策。
昨日に引き続きダーフェがいた。しかもメス2羽にオス1羽が駆け引きをしている様子が見られた。単眼鏡が役に立った。

トレッカーはなかなか泊まらない場所だったが、小さな宿で家庭的な雰囲気。食事も美味しく、手を洗うためにもお湯を沸かしてくれる優しさ。




【5日目】キャンジュマ→パンボチェ(3930m)

少し喉が痛い気がする。一日中歩きやすい道で、おしゃべりしながら歩く。女子だな。と思う。

子牛VSカラスのバトルをみる。人間はそっちのけの世界。
ヤクの大群。この肉付きと、くせっ毛がたまらない。


【6日目】パンボチェ→ディンボチェ(4410m)
終日ヒマラヤに囲まれ歩く。エベレストも見えるがまだ遠い。もっと近づくぞ。プモリは女性的なやわらかな丸みの山で見ていると優しい気持ちになる。日焼け防止に全身覆い歩く。




【7日目】ディンボチェ→ロブチェ(4940m)

ロブチェ到着まで、元気すぎたのは若干心配だった。こんな調子じゃどこまででも登れそうな気がする!!TOP OF THE WORLDエベレストに足を踏み入れてられるのでは?と錯覚を起こすほど体力が有り余っていた。

途中、ロブチェを登っている人達が小さな点で見えた。単眼鏡で見ると数人が等間隔に歩いているのが見える。(後でわかったことだが、この点見えていたのは冒険家の石川直樹さんだった)

ロブチェから午後高度順応の為、さらに200m高度を上げ、休憩したのちまたロブチェへ帰ると少し頭痛。これは軽い高山病の症状だな。吐き気もないし、けだる感もない。少し歩いて慣らそう。そう思い歩く。少し必死に歩いてしまった。

すると、ますます頭痛が酷くなり吐気まで。これは下山した方いいか?
理学療法士の友人に背中や肩を念入りにマッサージしてもらうと、血行がよくなったのが手に取るようにわかる。スーッと血が流れていき酸素が体中を満たしていく感覚を覚える。

急に楽になり、スヤスヤと眠る。

深夜、数回、トイレに行くと息苦しさを感じ、冷や汗。
息を吐くことを意識する。

そして、また熟睡。

私が死ぬ時は間違いなく眠ったまま死ぬのだろう。

そんなことを考えながらすぐに深い眠りにつく。この状況において、幸せなこと。




【8日目】ロブチェ→ゴラクシェップ(5180m)

朝、すっきりと目覚め、食欲もあり、登れそう。
美人シェルパと話す。山で美人に出会うのは女性の私でも嬉しい。男性であったらアドネナリンでも出るのであろう。素晴らしい効果。

彼女曰く、この土地に1年中暮らすことは不可能。3ヶ月単位でカトマンズや標高の低い山小屋に移動するらしい。彼女たちの血中酸素も我々と大差ないらしい。慣れているというだけのようだ。この血中酸素を標高0mで試そうもんなら窒息するほど苦しいとか。体験したくないが、今ならそんなに苦しくない。こんなもんか。くらい。職に困ったら山小屋女将でもしようか。

歩き始めると足も軽く、軽快。調子に乗らないように、お調子者の自分に鞭うつ。

酸素ボンベから酸素を吸いながらヤクに背負われてくる欧米人に出会う。

ゴラクシェップに到着。
宿に救護のヘリが飛んでくる。

「ビラミー ビラミー」(直訳すると「病気」。高山病もさす。)と連絡を取り合うシェルパや宿の主人。

明日は我が身なのか・・・今日は眠れるのか・・・。不安が増して緊張してくる。

天気がいまいちだったのと、体力を考えて、ベースキャンプへの散歩はやめ、明日登るカラパタールを下見がてら途中まで登る。

調子もよく、心身ともに元気。友人宛へ結婚式のお祝い映像などを撮ってみたりして遊ぶ余裕あり。体力も気力も。昨日の頭痛がウソのような一日。

深夜。今日も熟睡。

一度トイレに起きるものの、眠れぬ友人に「羨ましかった・・・」と言わせるほどの熟睡だったようだ。しかし変な夢をみた。「イエティに会いたい!」となぜか叫んでいる夢。5180mの私の夢にまで出てくるイエティとは、何者ぞ・・・。




【9日目】ゴラクシェップ→カラパタール登頂(5550m)→ペリチェ

目覚めるまでぐっすり。しかし、頭を下げてかがむと息が切れる。空気が薄い。スパッツを履きかえるのもおっくうだったのでヒートテックインナーのまま服を着る。

空腹だったが4時起床、4時45出発でカラパタールへ。
空腹が苦手なので少し心配。

始めはヘッドライトの明かりを頼りに歩く。一昨日は、このヘッドライトのゴムバンドも頭痛を誘発させるような気がしてイライラしていたのだか、その不快感もない。しかし、空腹。

鼻呼吸。鼻呼吸。息を吐く、息を吐くと意識する。

ゆっくりゆっくり登り、6時56分、無事登頂。
エベレストから出てくる朝日にホロリ涙が出る。

これから、自分が人間という生き物として、自然界の偉大さ身体中で感じながら生きていこうと思った。

そして、気力とはよく言ったものだ。体力は気力と並行してある力かもしれない。そして、私は体力より気力があるということに気づいた。

ゴラクシェップに戻り、一気に下山。雪が降ってきて寒い。無言。




【10日目】ペリチェ→タンボチェ

ヤクの子どもの写真を写そうと近づいたら親ヤクが突進してきた。危なかった。
ごめんよ。とって食ったりしないから。

そして、頭がかゆい。かれこれ10日シャワーを浴びれていない。
友人とドライシャンプー大量使いに挑戦。臭いや不快感はなくなる。




【11日目】ペリチェ→ナムチェ

11日ぶりのシャワー。髪の毛の感覚が戻る。高地でお湯を浴びれることにありがたさを痛感する。

ベーカリーでレモンチーズケーキを頂く。沁みわたる美味しさ。
そこでPC作業をする日本人らしき人。顔を覗くと写真家の石川さんのように見える。しかし、自信なく「日本人の方ですか?」と声を掛けてもらうのを「待っていました!」とばかりに「石川さんですか・・・?」。まさか、この山の中でお会いできるとは。

同世代で群を抜いて「スゴイ」と思っている方であり、人となりだけではなく、
石川カラーの写真は荒い息の中シャッターを切っているとは思わせないハッとする作品ばかりだ。ドーーンとカメラで受け止めたような。あ、植田正治写真美術館のカメラ部屋に入ったみたいな。

晩もご一緒させていただくが、聞きたいことは山ほどあるものの、とんちんかんな質問攻めにしてしまい、自分の初対面コミュニケーション力のなさにがっかりである。

カラパタールごときな我々に、登頂祝していただいた。
ローツェ登山からお帰りになったらカトマンズでお会いできることを楽しみに、陰ながら北の方角にエールを送ろうと思う。

そして、順を踏めばエベレストも行けますよ。と言っていただき、気が大きくなり、次は6000m位に挑戦して6000mからの景色を見てみたいと欲が出てきてしまった。




【12日目】ナムチェ→パグディン

下り、足が走りたくてうずうずする。走しる。小走りだが、気持ちがいい。
都心でマラソンするのがあまり心地よくなかったのは、この足の裏の感覚のせいだったのだと気づく。右へ左へトントントントンと軽快に駆け下る。マーダルの太鼓のリズムのよう。

前に習ったことのある「古武術」を思い出し、走ってみる。習得出来ていないため感覚はつかめなかったが、古武術の走り方をマスターしたら、飛脚のごとくどこまでも軽快に走れるのではないだろうか。帰国したらまた習いに行こう。

ゆっくり歩くと、余計疲れるような感覚になる。小走りがいい。
そして、小走りにはこのトレッキングシューズは重い。

チベット人の行商に出会う。これから街道を登りながら売り歩くのだという。行商を始めたばかりといい、商品のチョイスが外国人向けでない。外国人の好む物をリサーチするようにアドバイス。私の事を「妹、妹」と呼んでいたが、たぶん私の方がお姉さんだ。頑張れ妹。

パグディンは水が豊富だからかミネラルウォーターを製造販売している店がいくつかあった。あまりに簡単な機械でびっくり。




【13日目】パグディン→ルクラ

ポーターの子ども達を話をしながら下りる。商品運搬の場合65キロまでというのがルールとしては決まっているようだが、キロ単位で稼ぎになるため、80キロ、100キロと背負うポーターも山ほどいる。まだ学校に通うには遅くない年齢なんだから、出来るだけ学校に通って、英語勉強して山岳ガイドになれば、いい給料になる。学歴は関係ない。という話しをする。ネパール語が出来ると現実も見えやすくなってくる。知りたくないことも知ってしまう。

ただ、現実から目はそ向けてはいけない。知るべくして知った現実なのだと、受け止め、自分に出来ることをしてきければ、それでいいのだろう。

シェルパ族は山で成功したネパールが誇る民族だ。世界で最も有名なネパール人はシェルパだ。それを知り、誇りに思い、糧になれば、山からネパールはどんどん健やかな未来に向うだろうと思う。

帰り道、78歳の山岳映像作家のいとうさんに出会う。
1960年代から山岳映像を趣味で取り続けているそうで、日本に帰ったら上映会に是非足を運びたい。

ルクラにて偽物スタバでコーヒー。
ダライ・ラマの肖像画が飾られている。
ネパール産コーヒーが美味しいのだから自信を持ってほしいなぁ。

夕食、再びいとうさんに会い、1960年代の山岳ドキュメンタリーやリーフェンシュタールの話などをする。当時を知っている人から聞く話は、やはり生き生きしていて楽しい。

最後の夜に素敵な出会いだった。




【14日目】ルクラ→カトマンズ

定刻通り、フライト。またねエベレスト街道。