第百七十六話 鮑の貝殻、珊瑚の簪 其四 | ねこバナ。

第百七十六話 鮑の貝殻、珊瑚の簪 其四

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※前回までのおはなし
 第百七十三話 鮑の貝殻、珊瑚の簪 其一
 第百七十四話 鮑の貝殻、珊瑚の簪 其二
 第百七十五話 鮑の貝殻、珊瑚の簪 其三
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第七十三話 猫は恨まず咽び泣く その一(35歳 男 浪人)
 第七十四話 猫は恨まず咽び泣く その二(35歳 男 浪人)

 第百十九話 はぐれ猫の如く(上)
 第百二十話 はぐれ猫の如く(中)
 第百二十一話 はぐれ猫の如く(下)

もどうぞ


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平河町にある山田浅右衛門の屋敷には、夜更けにも関わらず、小さな明かりが灯っていた。
下男が扉を開けるが早いか、半兵衛は庭を突っ切り、浅右衛門の部屋へと急ぐ。すると。
雨戸が開け放たれ、縁側にどっかと腰を下ろす、浅右衛門吉睦の姿が。

「おう半兵衛、来る頃だと思っていた」

吉睦が半兵衛を見留めて、声をあげる。

「先生」
「露庵が使いを寄越してな。俺は此処で牛松とオチヨを待っているのだが」

月明かりに、吉睦の顔が曇る。

「知らせを受けて暫く経つが、まだ来ぬ」
「せ、先生は」
「うん」
「この一件、何処までご存知なのですか」
「どの一件だ」
「いや、その」

半兵衛は口ごもった。公儀隠密と関わり合うなど、本来ならば口外出来ぬ事だ。

「ははは、まあよいわ。その実直な処がお主らしい。俺が知っているのは、見知らぬ輩に牛松とオチヨが狙われていそうだという事だけだ。二人共俺にとっては大事な奴らだ。何とかしてやりたいのだが」
「は」
「俺は此処から動けぬ。滅多な事で浅右衛門が動いたなどと触れ回られると、厄介なのでな。そこで半兵衛」

吉睦は、傍らにあった刀を、ひょいと半兵衛に向かって放った。半兵衛は慌ててそれを受け取る。

「俺の馬を貸してやる。荒川の非人宿まで走ってくれぬか」
「は、あの、この刀は」
「昨日俺が試したばかりの刀だ。業物だぞ。いざとなったら、それを使え」

半兵衛には判った。吉睦は、自分の関わっている事件について全て知っている。
そして、牛松やオチヨら虐げられた者達に、深い愛情を持っている様だ。
その者達に、危機が迫っているのだろう。

半兵衛の背筋を、感慨と緊張とが同時に駆け抜けた。

「では、行って参ります」
「うむ」

その言葉だけで、彼らには十分だった。
半兵衛は馬を駆って、荒川を目指した。

  *   *   *   *   *

人気の無い日本橋を過ぎた辺りで、北の空が赤く染まっているのが見えた。

「くそっ」

半兵衛は馬に鞭を入れる。間に合うか。
紅く染まる空がみるみる近付く。
千住大橋を駆け抜けながら、半兵衛は見た。
荒川河畔の非人宿が、めらめらと炎を上げているのを。

「燃えてるぞ」
「すげえ火だな」

見物人が橋からその様子を眺めている。
勿論火消しなどやって来ない。
半兵衛は橋のたもとに馬を駐め、土手沿いに走った。
火の粉が舞い散る。何かの肉が焦げる臭いがする。
ごうごうと燃えさかる炎の前に、ひとり立ちはだかる男が見えた。
半兵衛は藪を掻き分け、その男に近付く。

「岡元か」
「あん」

男はくるりと振り向いた。あかあかと照らされた半兵衛の顔を見て、男は動揺する。

「おまん、何故此処に」
「俺を斬れと命じたそうだな。藩の者に」
「...あやつら、しくじりよったか。役立たずが」
「簪か」
「なに」
「あんな物のために、非人宿の者達を焼け出すというのか」
「あんなものぉ」

岡元は、顔を奇妙に歪めて、半兵衛をねめつけた。

「あの簪にはのう、藩の運命がかかっちょるがじゃ。人でなし共幾ら焼き殺した処で、なんちゃあないぜよ」

半兵衛は眉を顰める。

「儂ぁ、何としてもあの簪を、見つけにゃあいけん。たとい瓦礫の山からでものう」

思い詰めた岡元の目は、焦点を失っていた。

「愚かな」

がさがさと音を立てて、半兵衛の背後から現れたのは、露庵だった。

「白札のお前さんも、元は郷士なんだろうさ。土佐は上士が郷士を虐げていると聞く。そういう扱いを受けておきながら、彼らの気持ちが判らないとはねえ」
「なっ」
「例の珊瑚発見、そして加工品の密造と交易。お前さんの家は、それを藩に売り込んで白札になったのだろう。何の為だ。今まで同列だった郷士を見下す為か」
「やっ、喧しいッ」

岡元は甲高く叫んだ。

「貴様等にないが判る、どんなに苦労したち、何時まで経っても足蹴にされるがじゃ儂等は。その気持ちが貴様等に判ってたまるか」
「ああ判らんさ。その身分とやらを買う為に、珊瑚の採取にあたった土佐の漁師達を皆殺しにするような、お前さんの気持ちなどな」
「ぐっ」
「口封じだろう。事が露見せぬようにな。違うか」

半兵衛は仰天して露庵を見る。そんな情報まで仕入れていたとは。
矢張公儀隠密とは侮れぬ者だと、半兵衛は今更ながらに思ったのである。

「な、何とでも言いや。とにかく邪魔立てするな。邪魔立てするなら、斬るぜよ」

燃え上がる炎を背景に、岡元がゆっくりと刀を抜く。

「そうか」

ずい、と半兵衛が前に出る。刀には手を掛けず、岡元の動きをじいと見つめる。
岡元はその眼差しに気圧され、刀をぶるぶると震わせた。
じり、じりと半兵衛は間合いを詰める。 岡元はずり、ずりと後ろに退く。

「おのれえ」

火の粉がばらばらと落ちて来る。岡元はしゅう、しゅうと息を吐く。
半兵衛は氷のような眼差しを岡元に固定したまま、ゆっくりと前に出る。

「ぴゃう」

草むらから、何かの鳴き声がした。

「む」

岡元はその方を見る。そこには。

「ぴゃあう」

仔猫を抱いた、オチヨが。

「お、オチヨ!」

露庵は狼狽した。

「戻るなと言っただろうが」

岡元の口が、凶悪な笑みを作った。

「みいつけたぞおぇええ」

そしてオチヨ目掛けて走る。

「うらああああああああ」

オチヨ目掛けて、打ち下ろす。

ぶうん。

ぎいいいいいいいいん

「うがっ」

間一髪。
オチヨと岡元の間に割って入った半兵衛が。
岡元の刀を、下から払い上げた。

「き、貴様ああ」
「オチヨに構うな。貴様の欲しいのは、これだろう」

半兵衛は懐から、簪を取り出す。
簪の珊瑚は、鮮血よりも紅く、炎に照らされていた。

「ぬううう」
「狙うなら、俺を狙うんだな」
「くっそおおお」

脇差を抜いて、岡元は声を張り上げる。

「うらあああああ」

ぼうん

燃えさかるあばら屋の中で、何かが破裂した。
天井を突き破り、大量の火の点いた木ぎれが、半兵衛等に降りかかる。
咄嗟に半兵衛は、オチヨを庇って屈んだ。

「もらったああァ」

岡元が半兵衛に飛び掛かる。

「半兵衛!」

露庵が叫ぶ。
半兵衛は屈んだまま刀を突き出す。これでは勝てない。
南無三。

「ぐあッ」

岡元の動きが、止まった。

「お、長内様、早く逃げ」
「離せ! 離さんかこのおお」

牛松が。
岡元の腰に、抱きついていた。
岡元は脇差の柄で、激しく牛松の頭を打つ。
牛松の腫れた額から、血が飛び散った。

「牛松っ」
「は、早く、オチヨを」
「離せと言うておろうがああ」

半兵衛はオチヨの肩を抱えたが。
オチヨは。
牛松を凝視したまま。
仔猫を抱いたまま動かない。

「ああ、ああああああああ」

オチヨの口から、呻きが洩れる。

「うらああ」

岡元は牛松を蹴り飛ばした。
牛松の顔面は、鮮血に染まっている。

「ぐ、ぐううう」
「死ねやあああ」

岡元が脇差しを振りかぶった。

「あああああおお」

オチヨの口から声が。

「おっとおおおおおお」

言葉が。

「おっとおおおおおおお」

牛松は、闇雲に岡元の腰にしがみついた。

「かああっ」

岡元が上から牛松の脇腹を刺す。
しかし牛松は止まらない。

「があああああああああ」

牛松は、岡元を抱えたまま、炎の中へ。

「おわあああああああああ」

岡元が絶叫する。そしてオチヨも。

「おっとおおおおお」
「オチヨ、見るな」
「おっとおおおおおおおお」


ごおおおおおおおおおおおおお


炎は天を焦がした。オチヨの叫びと共に。

  *   *   *   *   *

「ふん、使えぬ男よの」

土手の上では、もう一人の男が、半兵衛等の様子を見ていた。

「帰るぞ」

とその男は、伴の者に言う。

「お待ちくだせえ」

野太い声が、男に向かって発せられた。

「何じゃ」

男が振り向くと、其処には数十人の髷を結わない者共が、平伏していた。

「土佐の上士の方とお見受けいたします」
「それが何じゃ」
「あたしは浅草弾左衛門。長吏頭で」
「非人の分際で武士を呼び止めるとは、無礼千万。斬り捨ててくれるわ」

伴の者が刀を抜く。

「其処の非人宿を焼きなすったのは、土佐藩の家臣でございましょう」
「それがどうした」
「この件、どう収めるお積もりで」
「収めるも何もないわい。たかが火事じゃ。岡元は滑って転んで火事に遭うた。それだけじゃ」
「ほう」

弾左衛門は平伏したまま、語気を強める。

「あたしらにも意地てえもんがある。評定所に訴え出てもようございますよ」
「何を戯けた事を。虫けらが何匹死のうと知った事では無いわ」
「奉行様が仰った処に拠れば、あたしらは人の七分の一しか命の価値が無いそうな。あの火事で一体何人焼け死んだとお思いで。武士ひとり分贖ってもまだ余る算段ですぜ」
「黙れッ」
「おや、お斬りになりますかい」

がば、と弾左衛門は頭を上げる。

「どうしても斬ると仰るならば」

がば、がば、がば、と周りの者も、頭を上げる。
ずらずらと光る目が立ち上がる。

「関八州のあたしらの仲間、全てお斬りになるが宜しいでしょう」

何時の間にかその男と伴の者は。
無数の人集りの、真ん中に居た。

「幕府の詮議は、厳しいですぞ」

地響きのような声が、男を襲う。

「ちっ」

男は舌打ちして、早足にその場を立ち去ろうとした。しかし。

「ひえっ」

男の乗って来た駕籠の周りにも、無数の者達が。
ずらずらと、平伏していた。

「おっ、おのれっ」

男は急いで駕籠に乗り込んだ。
駕籠が遠くに消えてしまうまで、その者達は、身じろぎひとつせずに、平伏していた。

  *   *   *   *   *

「全く、酷い事だ」

漸く空が明るくなり始めた頃、火事も殆ど消えかけていた。
半兵衛と露庵は、並んで焼け跡を眺めていた。

「俺の責任だ」

露庵は肩を落とした。

「俺の読みが甘かった。此処まで早く奴らが事を運ぼうとするとは」
「奴らにとっては...深刻だったのだろうな」
「うむ...」
「兎も角、焼け死んだ者が出なくて、良かった」
「牛松を除いてな」

半兵衛は露庵を、そして橋のたもとで蹲るオチヨを見た。
露庵は土佐藩士達の動きを察知し、ひと足先に非人宿の住人を守ろうとしたのだが、油を撒いて火を点けられたとあっては、只人々を避難させるのが関の山だった。
そして牛松も失ってしまった。露庵の落胆ぶりは尋常ではなかった。

「俺は、牛松にまだ教えて欲しい事が、山ほどあったのだ」

ぎゅうと握ったその手を、半兵衛は憮然として見た。
そうして、

「貴様らしくもない、深刻ぶるのは止せ。考えるならこれからの事だ」

と、明後日の方を見ながら言った。

「そうだな。うん...そうだ」

露庵はそう呟いた後、居住まいを正して、半兵衛に一礼した。

「済まない。お前さんには迷惑を掛けた」
「いやなに」

半兵衛は、オチヨの方をちらと見た。膝の上では、仔猫がオチヨの髪の毛にじゃれている。

「俺は、猫が好きでな」
「は?」
「仔猫が無事で、良かった」

照れくさそうに言う半兵衛を見て、露庵は苦笑した。

「全く、素直じゃないねえ」
「何」
「いや何でも無い」

「お二方、揃って如何なすった」

二人が声に振り返ると、其処には弾左衛門が立っていた。

「ああ、弾左衛門かい。この度は気の毒な事で」
「いや、露庵先生は皆を助けてくだすったそうで、有難う存じます」

事の全てを知らない弾左衛門は、深々と露庵に頭を下げる。露庵は気まずそうに、懐に手を入れた。

「困った事があるなら、何でも言いな。病も俺が看てやる」
「相済みません。これも牛松の人徳ってやつですかねえ」
「...」
「時に、長内様」
「ぬ?」

いきなり名を呼ばれて、半兵衛は間抜けな返事をした。

「オチヨの事でごぜえますが」
「ああ」
「この火事で、うまいこと死人が出ましたのでな、十三人程」
「なに?」

どういう事だ。半兵衛はきょとんとして弾左衛門を見る。
弾左衛門は、いひひ、と笑って小声で言う。

「此処だけの話、あたしらはこういう時に、死人が出たと称して、人別帳から相応の数をはじいて足抜けをさせたり、旅の一座を組ませたりするんです。帳面上整理がつけばそれまでですから」
「ああ」
「オチヨも...その...今回牛松と一緒に、三途の川を渡ったと、そういう事にしておきやしょう」
「えっ」
「その代わり、山田先生には、今後ともよしなにと、お伝えくださいまし」

ぺこりと礼をして、弾左衛門はオチヨに近付く。そして、

「さあ、今日からお前は、この人の処に行くんだ」

と、オチヨを半兵衛の前に立たせた。
オチヨは、きょとんとして半兵衛を見る。
澄んだ瞳で、半兵衛を見る。

「ぴゃーう」

オチヨの腕の中で、仔猫が啼いた。
半兵衛の口元が、ほんの少し綻んだ。

  *   *   *   *   *

二か月後。
山田浅右衛門吉睦の自室で、吉睦と露庵、それに半兵衛が茶を飲んでいた。

「事の起こりは、今から十八年ほど前、土佐の沖で漁師が偶然、木の枝の様な物を釣り上げたことから始まるのです」

露庵は、土佐藩の一件を、吉睦と半兵衛に話して聞かせていた。

「真っ赤な色をした奇妙な枝は、きっと龍宮の宝物に違いないと、漁師は藩の役人に届けた。そして土佐の学者が調べたところ、それはどうも珊瑚らしいと」
「ふむ」

いちいち短く相槌を打つのは半兵衛だ。吉睦は黙って露庵の話を聞いている。

「当然、藩はその利益に与ろうとする。それで、どうやら土佐藩は、潜りの得意な者を雇って、数年に亘り秘密裏に調べさせたらしいのですな。その御役目に当たっていたのが、岡元だったのです。そして少量ではあるが、質の良い珊瑚が見つかった。早速藩では加工の為の職人を大坂から呼び寄せ、幾つかの試作品を作ったのです」
「ぬう」
「それを、当時郷士として土佐に住み、幕府に情報を送っていた公儀隠密の池田が、嗅ぎつけた訳です。池田は岡元の手下として珊瑚加工の現場に潜り込み、江戸勤めの際にそれを幾つか黙って持ち出した。どうやら池田には、珊瑚産出と加工の証拠品を持って来いと、そう命令が下っていたようで」
「なるほど」
「そしてその途上で、池田は、アカネという女傀儡師に出会う」

露庵はずず、と茶を啜った。

「牛松から聞いた話では、池田は大層アカネに惚れ込んだようで、江戸勤めが終わる頃になって、非人宿までわざわざアカネに会いに来たそうな。そうしてまたきっと戻って来ると、そう言い置いて国許へ帰って行った。その際渡されたのが、この簪です」
「ふむう」

吉睦は簪を露庵から受け取り、しげしげと眺めた。

「結局、その時池田から幕府にもたらされた証拠品によって、土佐の珊瑚産出が明るみに出た。しかし土佐藩主山内豊策公も、流石に中々の遣り手。使者を送って老中方に根回しをしたお陰で、この件はもみ消されたのです」
「一度は不問に付された、というのか」
「はい。しかし」

露庵の顔が厳しくなる。

「その後も土佐では珊瑚産出へ向けて着々と準備が進んでいたのです。一度はお咎め無しとなった件をまたむし返したとなれば、次は幕府も黙ってはおれない。しかも大量に珊瑚を採取する方法を見つけたとあっては」
「大量に?」
「そう、人が潜れる範囲で採取できる量は限られる。しかしもっと深くまで潜る事が出来れば...。そこで長崎では土佐藩の密使が阿蘭陀の商人と接触して、珊瑚を採取する道具を仕入れようとした」
「どんな道具だ」
「人が入れる鉄の箱のようなものだそうだ。人ごと海の底に沈めるのだろうが、詳しいことは判らぬ」

半兵衛は目をぱちくりさせた。そんなものがこの世にあるとは想像すら出来ない。

「池田はその証拠も掴んだのでしょう。江戸にその知らせを送った直後、池田は河川の普請に駆り出され、謎の死を遂げる」
「ああ」
「そして、珊瑚採取に関わって来た素潜り漁師達も、口封じの為に、殺害された」
「惨い事だ」

露庵は深い溜息をついた。

「あの岡元と云う藩士は、ご禁制の品でもって藩の財政に貢献し、自らの地位を不動のものにしたかったのでしょう。郷士として貶められて生きてきた事への屈辱も、あったのやも知れませぬ。しかし結局は、奴も上士の駒のひとつに過ぎなかったようですな」
「ぬう」
「結局、土佐藩は岡元ひとりに罪をひっ被せて、幕引きを図った様です。先日の混乱に乗してこちらが証拠を押さえたことで、珊瑚の不正取引自体は防いだものの、珊瑚については幕府も藩も、これ以上手出し出来る状態では無くなりました」
「全く、面倒な事よのう。上手くすれば、幕府や藩の台所も潤うというのに」

吉睦も溜息混じりに言う。

「全くです」
「お主の仕事も、中々上手くは運ばぬのう。しかしそれも又世の常よ。余り気に病まぬ事だ」
「はい...」
「牛松も、気の毒であったのう」

半兵衛はじっと茶碗の底を見た。
そう、この世はままならぬものだ。

「ああそうそう、今日はオチヨが湯長谷藩に出立すると聞きました」

露庵が思い出したように言う。吉睦はにこりとして、

「そうだ。齋藤殿の処で、武家の娘として修行を積んで貰う事になる」
「いよいよですか」
「お主のお陰で、言葉も随分出て来る様になったし、もう心配いらん」
「それはよかった。いやあ、信じられませんなあ」
「仕掛けをしたのは、お主だろうが」
「そうですな、あはははは」

露庵と吉睦は互いに笑う。半兵衛は。

「あ、あの」
「うん、何だ半兵衛」
「その、オチヨの母アカネは、本当に、齋藤殿の御息女なのでしょうか」
「さあなあ」

吉睦の惚けた返事に、半兵衛は驚いた。

「そ、それでは」
「うん。行方不明になった齋藤殿の御息女について、大坂からもたらされた情報は本当だ。しかし、アカネが持っていた菱形の縫い守りというのは、俺の作り話だよ」

露庵があっけらかんとして言う。

「じゃ、じゃあ嘘を」
「おいおい、半兵衛よ。嘘も方便という言葉がある」

吉睦は笑って半兵衛を見る。

「それにな。齋藤殿は百も承知だ。見つかるあてのない娘が子を成した。そう信ずるだけでも、張り合いが出るというものよ。どんな御子であっても、大切に、立派に武家の女として育てます、と奥方は言うてくれたぞ」
「はあ」
「確かにこの世は、上下がんじがらめで生きねばならぬ。しかし例外が無い訳ではないさ。オチヨが例外になっても悪くはあるまいて」

からからと吉睦は笑う。

「失礼致します」

襖の向こうから、声が掛かる。

「おう」
「千代の用意が調いました。
「そうか。どれ」

すう、と襖が開く。其処には吉睦の妻、清が。
そして、

「ほう、これは美しい」

露庵が思わず声を上げた。
萌葱色の着物に身を包んだオチヨは、湯長谷藩の御賄頭、齋藤忠兵衛の孫娘、千代となって、其処に居た。
母譲りであろう端正な顔立ちに、うっすらと化粧が映えている。
結い上げた髪には、あの簪が。
紅珊瑚の簪が、光っていた。

「どうだ半兵衛」

吉睦にそう問われて、半兵衛はおろおろと狼狽える。

「いえあの」
「わはははは、お主は本当に仕様の無い奴だの。気の利いた言葉くらい掛けてやれ」
「は」

半兵衛は千代の顔を見た。
千代は、にこりと笑って半兵衛を見る。
小さな瞳が、優しげに光った。
荒川の土手で鮑の貝殻を貰った、あの日と同じように。

「ど、道中、お気を付けて」

半兵衛は、ようやっと声を絞り出した。

「わははははははははは」

露庵と吉睦は、大声で笑った。
清も千代も、くすくすと笑っている。

「ぴゃーう」

千代の傍らで、仔猫が啼いた。
半兵衛は。

やはり、憮然として、畳の目を見ていた。


おしまい




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