第七十四話 猫は恨まず咽び泣く その二(35歳 男 浪人) | ねこバナ。

第七十四話 猫は恨まず咽び泣く その二(35歳 男 浪人)

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「全く、無茶な事を」

露庵は半兵衛の手当をしながら、毒づいた。
虎之助に右腕を切断して貰って直ぐに、半兵衛は露庵の許を訪れて、治療を依頼したのだ。

「そのまま俺の処に来れば良かったのだ。華岡先生の通仙散を試してやったものを」
「お主の様な医術狂いにあれこれ試されるのは御免だ」

半兵衛は表情ひとつ変えずにそう言いながら、露庵の手当を見守った。

「まあ、虎之助殿の腕前が確かで良かった。ほれ、これで終いだ」

露庵が包帯を結び終わると、半兵衛はじっとその結び目を見つめた。
肘の少し上から先が無くなり、肩から棒のような二の腕が伸びているだけである。

「さあ、薬を飲んで、少し横になって休め。熱が出るかも知れん」
「ああ、そうする」

半兵衛は、言われた通りに粉薬を飲み、露庵が用意した床に横になった。
矢張り熱が出て来た様だ。痛みに熱と眠気が勝ったと見え、半兵衛は程無く、眠りに落ちた。

  *   *   *   *   *

「旦那様ぁ」

日が随分高くなった翌日の午前。
半兵衛が露庵と共に粥を啜っている処へ、源助が駆け込んで来た。

「おう、どうであった」
「旦那様の仰る通りでごぜえました。成田与右衛門様の長女の松様は、四日前、原因不明の病でお亡くなりになっておられます」
「そうか。その症状については」
「へえ。お払い箱になった奉公人に、運良く話を聞くことが出来ました。なんでも、日の光を怖がったり、水を飲もうとして激しく咽せ込んだりしたそうで。最期には暴れて家中を駆け回り、奉公人達を襲おうとしたとか。悪霊に憑かれた様だったと、その男は言っておりやした」
「やはりな」
「ふむ」

半兵衛と露庵は顔を見合わせ、互いに頷いた。

「それで、与右衛門殿が境川藩の江戸屋敷に忍び込んだというのは、何が目的だったのだ」
「へえ。その奉公人の申しますには、松様の病を治す秘薬がその屋敷に有ると。それを盗み出すために、忍び込んだという話で」
「秘薬?」
「長崎伝来の何かとか...。それと、旦那様の仰るように、境川藩江戸屋敷と成田様の関係を詳しく探ってみたんでやすが...」
「何かあったのか」
「へえ...。境川藩の家老、只見玄蕃様が、与右衛門様の二人の娘、松様と咲様にえらくご執心だったとかで」
「ほう」
「お二人とも美人で評判でやすからね。何処で見初めたかは判りませんが、家臣やら下男やらを、成田様のお屋敷に日参させていたそうでございますよ。ところが只見様というのは、色狂いで評判の人物で」
「...」
「そんな処に娘達は遣れぬと突っぱねていたそうですが、流石にあちこちから圧力が掛かって、仕方なくお姉様の松様をその江戸屋敷へ、茶の湯の稽古と称して、向かわせる羽目になったのだそうです。それが一月前の話で」
「むう」

半兵衛は口をへの字に曲げた。元来この手の話は苦手らしい。

「案の定、松様は乱暴されそうになったので、逃げ出したのだそうでございますよ。ところが只見様は、家来に命じて、屋敷で飼っていた犬を放って、松様を襲わせたのだそうで」
「なに?」
「松様が自分のお屋敷に辿り着く間際で、犬が松様を咬んだのだそうです。傷は肩口だとその男は言っておりやした。そしてその時」
「ふむ」
「松様が大事に飼っていた黒猫が、松様を助けようと、飛び出したのだそうでございますよ。奉公人より早く、松様の悲鳴に気が付いて、犬の前足に咬みついたと」
「なんと」
「犬は松様から離れ、その猫の足を咬みちぎってしまったそうです。猫はそれでも、犬を威嚇して松様から遠ざけようとしていたのだとか」
「あの猫の後ろ足は、それで...」

半兵衛は少し考えた後、さらに源助に訊いた。

「松殿の傷は深かったのか」
「まあ出血は酷かったようですが、幸い急所を外れておりましたので、命に別状はなかったと。勿論ずっと伏せっておいでだったようですがね。ただ、噛まれてから十日ほどしてから、言動が怪しくなって来たと、そう申しておりました」
「それで、犬はどうしたのだ」
「十数人の浪人達が、タンポ槍でもって追い込んで、でかい鉄の檻に入れ、大八車で持って行ったそうでございますよ」
「その浪人達の素性は」
「さあ...それは判らないそうで」
「境川藩の江戸屋敷では、まだその犬を飼っているのか」
「それが、一月程前には、その江戸屋敷辺りで犬の酷く吠える声が聞こえていたのだそうですが、二十日ほど前には、ぱたりとその声がしなくなったのだそうです」

露庵は膝をぱん、と打った。

「やはり、その犬が病に冒されていたとみるべきだろうな。それを承知で、只見玄蕃とやらは松殿を犬に襲わせたのだ」
「惨いことを」

半兵衛は眉を顰めた。露庵は溜息をつき、続けた。

「そして、犬が病に罹っていた事、それが人に伝染れば命は助からぬ事も伝えたのであろう。その上で、病を治す秘薬が欲しければ、もう一人の娘を寄越せ、とでも言ったのであろうな」
「そ、その通りでございますよ。露庵先生、あっしがまだ言わねえのに、なんで判ったんでやすかい」
「筋を辿っていけば、自ずとそうなるだろうよ」
「しかし酷い話でやすねえ。旦那様、評定所に訴え出る事は出来ねえんですかい」
「今となっては、物的証拠が無さ過ぎる。その犬も、恐らくもう死んでいるだろう。知らぬ存ぜぬで通されれば終いだ」
「はあ...」

半兵衛は、ふと何かを思い出した。

「源助、成田殿のお屋敷から、奥方と娘御はもう出立したのか」
「いえ、それがまだのようで」
「そうか...」

半兵衛はすっくと立ち上がった。
憔悴した眼の奥に、光が宿った。

「おい半兵衛」
「俺の勘が正しければ...与右衛門殿の娘御が危ない。助けてやらねば」
「おい...」

右の二の腕を睨みつけ、半兵衛は呟いた。

「俺のこの腕は、高くつくぞ」

「あのぅ、旦那様」
「源助、耳を貸せ」

そうして半兵衛は、源助に何やら耳打ちした後、露庵が止めるのも聞かずに、施療院を後にした。

  *   *   *   *   *

半兵衛と源助が、成田与右衛門の屋敷を訪れたのは、それから二時ばかり後の事だった。
源助は、背に大きな魚籠を背負っている。
門前には、与右衛門の次女、咲が、旅装束で佇んでいた。咲は半兵衛達の姿を認めると、狼狽の色を隠せなかった。

「もうお発ちですか」

半兵衛は優しく訊いた。咲は俯いたまま応えない。

「母上様は如何なされた」

「自害しました」

咲は搾り出すように言った。そして観念したように、半兵衛の顔を見据えた。

「母の埋葬も済みました故、これから国に帰ろうと思うた処でございます」
「そうですか」

「私をお斬りになりに来られたのでございましょう」
「いいえ」

「では何故」
「品川の宿までお送りしようと思うたのです。良からぬ事を企む輩がおりますでな」
「それならば構いませぬ」

咲は不敵な笑みを浮かべた。

「少々剣術には心得があります故。それに、むざむざあの輩の手に掛かる位なら」
「まあそう慌てなさるな」

半兵衛は咲の言葉を制し、強い口調で言った。

「あなたは生きてお国にお帰りなされ。父上も母上も、そして姉上も、あなたが死ぬのを喜ぶ道理はありますまい」

そして、不器用な笑みを浮かべた。

「さあ、参りましょう」

歩き出す半兵衛と源助を、咲はしばし無言で見つめていたが、やがて静かに、その後に続いた。

  *   *   *   *   *

道々、半兵衛は咲から、父与右衛門の為人、藩の窮状、そして今回の事件について話を聞く事が出来た。
藩内の度重なる水害、対策の水普請に費用が足りず、やむなく江戸の大店から金を借りる事となった。勿論公儀には秘密である。その手引をしたのが、大店と昵懇であった境川藩家老只見玄蕃であったと云う。
借金の手引をした見返りに、只見は八日市藩内の物産や労役に関し、色々と口を差し挟む様になった、
八日市藩の勘定方であった成田与右衛門は、当初から公儀に内密の借金には批判的であった。只見の横暴が始まってからは、家族共々江戸に住み、その横暴を封じる為に奔走した。

「只見が私達姉妹に眼を付けましたのは、その頃でございます」

咲は小さな声で言った。半兵衛は咲に歩調を合わせながら訊いた。

「藩主様は、その事をご存知で」
「はい」

当然か。知っていても手出しが出来ぬ、という状態なのであろう。

「聡明な殿でありましたけれども、境川藩藩主と家老の度重なる圧力で、最近は気が弱くなられて...」

咲は溜息をついた。
半兵衛は咲を見ながら、その利発さに驚いていた。まだ十六七という年頃だろうが、藩の事情に精通し、その敵の狙いすらも見抜いている。
成田という男、なかなかに出来る男であったらしい。

「いずれ藩の権益は、実質的に境川藩に乗っ取られると」
「表沙汰にはならないでしょうが、恐らく」
「ふむう」

この娘なら、この後自分を待っている騒動についても、見通せぬ筈が無い。

「ところで、日本橋を出てから直ぐに、尾けられているのはご存知でしょうな」
「ええ」
「品川の宿に着く手前で、襲われるやも知れませんぞ」
「あの、長内様」

咲は半兵衛の袖を軽く引っ張った。

「もう結構でございます。これ以上ご迷惑は掛けられませぬ」
「迷惑などではありません」
「えッ」
「咲殿、私を恨んでおいでか」

半兵衛の横顔を、咲は驚いて見つめた。

「そ、そんなことは」
「本当ですか」
「...」
「いいのですよ。御役目とはいえ、あなたの父上に手を下したのは私です」
「私...私、判りませぬ」
「人は恨みを持つ。当然なのです」

咲は、半兵衛の横顔に何やら怖ろしげなものを感じて、少し離れた。

「そこから眼を逸らさずとも良いのです。人とはそうした生き物です」
「...」
「しかし、あなたの母上は、その恨みを乗り越えて、策を講じられた。昨日からずっと考えて、今、そう思い至ったのです」
「は」
「いや、これは私の買い被りかも知れませぬが...」

半兵衛は、照れ笑いのような表情を浮かべた。
珍しく口数の多い主人を、源助は奇妙な顔をして見遣っている。

「母上は、私が今こうして、咲殿のお伴をするような男だと、お見通しだったのではありますまいか」

咲は驚いて立ち止まった。

「ま、真逆」
「そうとは限りませぬが...。何となく私は、そんな気がするのです。だから母上はあの猫を連れて来た」
「ああ」
「私がみすみす、あの猫の持つ病で死んで仕舞おうなどと、母上は考えなかったでしょう。とすれば、狙いは一つしかありません」

半兵衛は咲に向き直った。

「あなたを守らせる事、それを私に託したのではありますまいか」

咲の頬を、ひと筋の涙が伝って、落ちた。

  *   *   *   *   *

「ここが鈴ヶ森の刑場です」

夕陽が紅々と刑場を照らしていた。
形の崩れた晒し首に、蠅が集っている。
昨日執行された火焙りの刑の燃えかすが、未だ辺りに散らばったままである。

「ここで待ちましょう」

半兵衛は呑気な口調で言った。

「待つ?」
「ええ。もうすぐ現れます。おい源助」
「へい」

源助は半兵衛に走り寄り、金網で補強した魚籠を渡した。

「こ奴の供養も、此処でしてあげなければなりませんから」
「これは一体」
「...あの猫です。もう虫の息でしょう」
「ああ...クロや...」

咲は魚籠を、まるで猫の背を撫でるかのように、愛おしそうに擦った。

「可哀想に。私達に関わらなければ、こんな事には」

咲はぽろぽろと涙をこぼした。

「大丈夫です。猫は恨みなど持ちませんよ」
「えッ」
「恨みを持つのは、人です。猫はその恨みを映す鏡なのですよ」

半兵衛はぽん、ぽんと魚籠を叩いた。

「あなたの父上は、一点の恨み辛みも、辞世の句に遺さなかった。天晴れな方だ」
「...」
「それは、猫に学んだのかも知れませぬ。いや、あるいは....」

背後に、どやどやと人の気配が集まった。
振り向くと、二十人ばかりの浪人風情の男達。その背後には、駕籠から降りつつある派手な着物の男。

「あれが」

半兵衛は顎でその派手な男を指し、咲に訊いた。

「はい。境川藩家老只見玄蕃です」
「ふむ...」

男達は、咲と半兵衛を取り囲む。
只見玄蕃が、半兵衛に向かって言った。

「何者か知らぬが、何故その娘の伴をしておるのかな。我等はその娘に用があるのだ。こちらへ渡してもらおう」
「随分と念入りな事だな」
「娘は新陰流の使い手と聞く。見た処、その方も只者ではあるまい」
「ふん」

咲は仕込み杖を構えた。しかし半兵衛はそれを制し、

「事を構える積もりは無い。俺はほれ、この通り利き腕を失うておる」

と、空の右袖をぱんぱん、と叩いた。
咲は仰天して半兵衛を見つめている。

「ほほう、なかなか殊勝ではないか」

浪人達がじりじりと間合いを詰める。只見は安心した様子で、半兵衛と咲に近付いて来る。

「さあ、娘を渡して貰おう」

只見は不敵な笑みを浮かべた。その瞬間。

「貴様に渡すのは、これだ」

半兵衛は魚籠を開け放ち、底をぽん、と叩いた。

「じゃるううううううう」

怖ろしい鳴き声が魚籠の底から湧き上がったかと思うと、黒い影がそこから勢いよく飛び出した。

「じゃあああああッ」
「ひゃあああ」

只見の顔に、あの黒猫が齧り付いて滅茶苦茶に引っ掻いた。
鮮血が飛び散る。

「た、だ、助けてぐれえええッ」

半兵衛は、左手で逆に指していた刀を鞘ごと抜いた。そして、

「むん」

下から只見の顎ごと、黒猫を叩き上げた。

「ぐわあ」
「ふぎゃッ」

只見はそのままひっくり返り、猫はどたりと地に這いながらも、ぶるぶる震えて、半兵衛を見る。

「じゃああああ」

黒猫は半兵衛に飛び掛かった。



「許せ」



半兵衛は、すう、と横に滑るように動き、黒猫の攻撃を避けた。その刹那。
目にも止まらぬ速さで、何時の間にか抜き身になっていた刀の切っ先が、猫の首筋を、するりと通過する。

猫の首は、胴から離れて、すとんと落ちた。

「ああクロや」
「触るでないぞ咲殿」

半兵衛はそう咲に釘を刺し、刀を左手に持ったまま、只見に向き直った。

「おや、お怪我をされたか」

浪人に両脇を支えられ、やっとの事で身体を起こした只見の顔は、鮮血が滴り紅い筋が交差して、怖ろしい形相になっている。

「ひ、ひいい、き、貴様あああ何をするかああ」
「俺は何もしておらぬ。あの猫は恨みを宿していたかも知れぬがな」
「何ぃ」
「成田与右衛門がこの世にさっぱりと置いていった、恨みの塊をな」
「そそそそんなものが」
「あるさ。狂うた犬の病という、恨みだ」
「へッ」

「あの猫は、お前が飼っていた犬に咬まれ、発病した。そしてその猫が、今、お前を咬んだ」
「ひッ」

「病に冒されれば、誰も生きてはおられぬ」

「ひやあああああああああああああ」

只見は取り乱した。

「松殿の恨みも、少しは入っているやも知れぬ」
「わあああああああああああ」
「秘薬とやらが屋敷に有るのであろう、いや、それも作り話か」

半兵衛は表情を変えずに、駄目を押した。

「ききき貴様ァ! 何をしているのか判っておろうな」
「ああ判っているさ。俺は病に冒された猫の入った魚籠を開けただけよ。お前が間抜けな面を見せた処に、猫が自分で飛びついて行ったのさ」
「何だとぉ」
「そして、ほれ、俺はお前の仇を討ってやったぞ。猫は首を斬られてもう死んでおる」
「そ、そんなものが、そんなものがあッ」
「他にどんな言い訳がご入り用かな」

半兵衛はずい、と只見に近寄る。ひい、と只見、そして只見を支える浪人は後ずさる。

「お判りか。此処は鈴ヶ森だ」

氷のような眼差しで、半兵衛は只見を射貫いた。

「罪人が、それ相応の仕置を受ける場所よ」


わなわなと震えていた只見が、わあと叫び、浪人達に命じた。

「きっ、斬り捨てぃ、この者達を斬り捨ていッ」

ざあっ、と浪人達が抜刀する。咲は再び杖を構えた。
しかし半兵衛は動じない。

「ほう。此処で抜いたか、お主ら」

浪人達は、半兵衛の迫力に押されて動けない。

「今ここで大人しく帰れば良し。さもなくば」

ざわざわと、浪人達の周りで音がした。ひいッと一人の浪人が小さく叫んだ。



周りは、山田浅右衛門の弟子達二十人余に、ぐるりと取り囲まれていた。


「首を付けたまま、此処から出られると思うな」

地獄の底から響くような、怖ろしい声が、半兵衛の口から洩れた。


「あの男、く、首斬り役人」
「長内半兵衛」
「首斬り半兵衛か」
「ということは、こ、こいつら、山田浅右衛門の首斬り一門だッ」

浪人達の口から、半兵衛の名が、山田浅右衛門の名が挙がる。
ずい、ずい、と半兵衛は只見に近付く。
虎之助以下の浅右衛門一門もまた、じりじりと輪の幅を縮める。
一人、また一人と、浪人達は逃げ出した。

「お、お前達、ままま待てえッ」

只見は顔を手で覆うたまま、這々の体で駕籠に乗り込み、去って行った。

  *   *   *   *   *

刑場の脇、少しばかり高くなった土手の上に、半兵衛と咲は黒猫の墓を作った。
ぱんぱんと土饅頭を叩く半兵衛の背中に、咲が申し訳無さそうに声を掛けた。

「あのう、長内様」
「何です」
「本当に、長内様と一門の皆様は、大丈夫なのでしょうか」
「ご心配には及びません」

手の土を払いながら、半兵衛は立ち上がった。

「あの者達が我々を襲ったという事が露見すれば、その理由も問い質さなくてはなりませぬ。それに私は、浪人とはいえ公儀の者。藩士が矢鱈と手を出す事は出来ませぬ」
「しかし」
「宿から先は、奴らも手を出せません。関所の役人には申し伝えて置きました故。今晩、虎之助にはこの宿で御嬢様の警護をさせましょう。念の為」
「は...」
「お一人での旅が続きます。ゆっくりお休みくだされ」
「...」
「大丈夫です。先ず御身を大切になされよ。さあ」

半兵衛は、咲を猫の墓の前に誘った。
夕闇が濃くなり、潮風が辺りの木々をさらさらと揺らす。

墓に手を合わせ、暫し無言で佇んだ後、咲は言った。

「クロは、やはり恨みを晴らしてくれたのでございましょうか」

「いいえ」

半兵衛は短く、力強く言った。

「先程申しました通り、猫は恨みなど持ちません。ただ人の恨みを映すのですよ」
「はあ」
「この猫も、最期まで懸命に生きようとした。ただそれだけです。その姿に、私達が恨み辛みを投げ掛けるのです」

咲は、ほう、と溜息をついた。

「ならば、猫とは何と哀しい生き物なのでしょう」
「そうですね。しかし」

咲は振り向き、半兵衛を見つめた。半兵衛は続けた。

「彼等は哀しい時には泣くのです。私はそれが羨ましい。私は泣く事すら許されなくなった」

生業として人を斬る、その哀しさを、咲は半兵衛の伏せた眼の中に感じた。

「だから私は猫を飼うのかも知れませぬ。人の哀しさを、彼等は分け持ってくれる様な気が致しますので」
「長内様」



「そうして、猫は哀しくなって、夜の月に向かい、咽び泣くのです」

そう言って半兵衛は、空を見上げた。

東の空に、大きな月が、ゆっくりと昇ってきた。


おしまい




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