第七十三話 猫は恨まず咽び泣く その一(35歳 男 浪人) | ねこバナ。

第七十三話 猫は恨まず咽び泣く その一(35歳 男 浪人)

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「言い残す事は無いか」

白帷子を身に纏った八日市藩藩士成田与右衛門に向かって、奉行が訊ねた。
首斬り役人の長内半兵衛は、与右衛門の右斜め後ろに立ち、静かに彼を見下ろしている。

「は。では...辞世の句を」

表裏 浮世の移り変わる様
猫の瞳も かなはじと見ゆ

品に欠けるが率直な句だ、と半兵衛は胸の内で呟いた。
それにしても猫とは、この御仁、猫がお好きのようだ。

「では、よいかな」
「は」

与右衛門は、奉行に一礼した。そして、半兵衛にちらと顔を向けた。

「では、お願い申す」
「うむ」

与右衛門は顔に白布を掛けられ、両脇を役人がむんずと掴み、押し下げられる。
奉行の手が、さっと上がる。

「御免」

ひゅん、と刃が鳴った。
与右衛門の首は、ゆっくりと地に墜ちた。

  *   *   *   *   *

半兵衛は仕事を終え、ぶらぶらと家路についた。
ふと今日の罪人の事が頭に浮かぶ。

八日市藩藩士成田与右衛門は、境川藩の江戸屋敷に侵入、金品を強奪した由にて、打首となった。
何故、実直であった彼がそのような大罪を犯したのか。彼を知る者は皆訝り、怪しんだ。
壮年の彼には、妻と年頃の二人の娘があったそうだ。家族は江戸処払となる。
何時にも増して、後味の悪い仕事だ。半兵衛は唾を路傍の叢に吐いた。

斬首を任せられて早十年。半兵衛は山田浅右衛門一門でも生え抜きの、腕利き首斬り役人である。
師匠が役目を果たせぬ時、真っ先に声が掛かるのは半兵衛で、一刀両断の許に首を落とすその太刀筋は、罪人に痛みすら感じさせぬ腕前と評され、師匠をも凌ぐと云われる。
性格は朴訥で無口。妻はあるが子は無い。血腥い稼業とは裏腹に、静かで安らかな生活を送っていた。

「おかえりなさいませ」

半兵衛の帰宅を、妻の千代と下男の源助、そして二匹の猫が出迎えた。

「うん。直ぐに風呂に入るぞ」
「それが、お前さま、露庵先生がお見えです」
「何、露庵が。いや、今日は仕事があったでのう。身を浄めてから会うと申して、しばしお待ちいただくように」
「はい」
「では旦那様、ご用意はしてありますので、どうぞ」

千代は奥の座敷へ、半兵衛と源助は風呂場へと向かった。

  *   *   *   *   *

半時後。

「待たせたな」

半兵衛は絣の浴衣に着替えて現れた。
待っていた客人は、井上露庵という町医者で、長崎と京で修業を重ねた腕利きだ。
腑分けの立会いで知り合い、以来親しく杯を交わす仲になっている。

「おう、突然にすまぬな。今日は少し訊きたい事があってのう」

露庵は半兵衛とは好対照で、気さくで話し好きだ。何かと理由をつけては、半兵衛宅に上がり込んで話を聞かせる。無口な半兵衛も、彼の話が面白いと見えて、寧ろ喜んで聴き入っている様だ。

「俺にお主の役に立ちそうな話が出来るとも思えんが」
「そうではないのだ。お前だから聞ける話だ」
「ほう」

半兵衛は千代が運んできた茶を啜った。

「何だその、俺にしか出来ぬ話とは」
「十日ほど前、屍体のまま鈴ヶ森で磔になった罪人があったろう」
「ああ、日本橋で無差別に通行人を斬りつけたという、あれか」
「そうだ。あの罪人は、獄中で死んだと聞くが、どんな死に方だった」
「うむ。俺は直に見ていないが...。牢番の話では、えらく喚き立てて暴れまくった後、いきなり倒れ込んでしまったそうだ」
「それで、もう死んでいたと」
「そうだな」
「検死をした医者は何と」
「玄信殿は何も。気が触れたのだろうとしか言わなかったな」

「全くあの藪医者め」

露庵は口惜しそうに言葉を吐いた。

「私が考えるに、あれは狂うた犬の病だ」
「犬の?」
「そうだ。ここ暫くは江戸では聞かぬかも知れぬが、最近また流行り始めている。上方では死者が多く出ているらしい。あの御殿医気取りの役立たずが、『狂犬咬傷治方』すら読んでいないと見える」
「余程玄信殿が気に食わぬようだな」
「当たり前だ。金儲けしか考えぬ不届き者よ」
「まあその辺にしておけ。それでその病とは、どんな病なのだ」
「まだよく判ってはおらぬが、動物同士の咬み傷から伝染る病らしい。咬まれて暫く経つと病が重くなり、錯乱を起こし狂乱状態になって死に至る。私が知る限り、助かった者はいない」
「怖ろしいな」
「そうだろ。その罪人、夜鷹蕎麦屋の亭主だったようだが、夜中に店を出している際、犬に襲われたのだそうだ。それが三月前の事だ」
「三月も経ってから病が起こるのか」
「いや、もっと長くかかる場合もあるから、用心せねばならぬ。それにな、その病、犬だけではない。馬にも牛にも、猫にも罹る」
「そうなのか」

半兵衛は猫好きで、よく餌をやって養うために、小さな家には何匹もの猫が立ち寄る。近所の口さがない者たちは、「猫屋敷」と揶揄する程だ。

「そうだ。お前は猫が好きだろう。用心に越した事は無い」
「ふむ。その病に罹ると、猫はどうなる」
「そうだなあ。私は猫は見た事が無いが...。恐らく、変な鳴き声を発し、光を恐れるようになる。水を欲しがるが、飲もうとすると苦しがってのたうつ。口は半開きになり、涎を垂らす。そして凶暴になる。まあこれは、犬や人の場合を基にした私の推測だがな」
「なるほど...。心して置く事にしよう」
「そうしてくれ。それからな、お主の師匠が持っている本の事だが...」

と、露庵が話題を切り替えたところで、

「失礼いたします。あの、お前さま」

千代が障子の向こうから声を掛けた。

「何だ」
「お客がございました」
「何方だ」
「それが...あのう」
「いいから言うてみい」

「...成田与右衛門様の奥方様と、御嬢様が、お二人でお見えです」

半兵衛は眉を大きく動かした。

「ほほう、お前も隅に置けんのう」
「戯けた事をぬかすな」

浮いた話など微塵もない事を承知でからかう露庵を、半兵衛は本気で嗜めた。

「どれ、私は席を外す事にしよう。また明日にでも寄らせて貰う」
「そうか、すまぬな」
「じゃあな」

立ち去る露庵を見送ってから、半兵衛は千代に言った。

「こちらにお通しせい」

  *   *   *   *   *

「成田与右衛門の妻、芙佐と申します。これなるは次女の咲」

そう言って、次の間に控えた壮年の女は深々と頭を下げた。

「長内半兵衛でござる。さあ、こちらへ」

半兵衛は上座を勧めた。半兵衛は浪人、成田与右衛門は罪人といえど藩士である。

「いいえ、こちらで」

芙佐は頭を下げたまま動かない。半兵衛は観念して、上座を右手に見たまま腰を据えた。

「それで、どのような御用向きですか」

ゆっくりと芙佐は頭を上げた。後ろの娘はまだ伏せたままである。
その脇には、木で出来た檻があり、中には黒い猫が座っている。

「このたびの御仕置、長内様には主人に御情を頂戴いたしました。謹んで御礼を申し上げます」

また芙佐は頭を下げた。

「情けなど掛けた積もりは毛頭ございません。私の役目を果たしたまでです」
「いえ、一刀両断の素晴らしい太刀捌き。お噂通り、主人は痛みも感じる事無く、三途の川を渡りました事でしょう」
「はあ、それは...」

打ち首になった者の感覚など、判ろう筈も無い。いや、この者達がそう思うことで、気が楽になるのであれば、それも良しとするか。

「そうであれば良いのですが」

半兵衛は軽く頭を下げた。

「その御情に、もう少しばかり、縋らせていただきとう存じます」
「は」

後ろに控えていた娘が、ずい、と木の檻を前に押し遣った。

「これなるは、主人と、長女の松が大事にしていた猫でございます。私共は江戸から去らねばなりませぬ故、何方かお世話をしてくださる方を探しておりました処、長内様が猫好きと聞きましたものですから、ご無礼を承知で、連れて参った由にございます」
「そうですか」

檻の中の黒猫は、じっと半兵衛を見た。しかし眼には生気が感じられない。病ではないか、と半兵衛は思った。
ならば、余生をこの屋敷で送らせても良かろう。何匹もの猫の最期を看取ってきた半兵衛には、この猫が愛おしく思えた。

「承知しました。当方でお預かり致しましょう」
「有難う存じます。これで我等、心残り無く国に帰る事が出来ます」

深々と頭を下げた芙佐と咲。半兵衛はふと気が付いて、訊ねた。

「そう言えば、上の御嬢様はどうなされた」

芙佐の顔が凍り付いた。

「亡くなりました」
「亡くなられた」
「はい。主人がお縄を頂戴して直ぐに」
「そうでしたか...。それはお気の毒に」
「いいえ、これも運命でございましょう」

精一杯の作り笑いと見える表情を、芙佐は顔に貼り付かせた。

「重ね重ねの御厚情、有難う存じます。では、これにて」
「は。道中、どうぞお気を付けて」

半兵衛は深々と頭を下げた。
その頭を上げる一瞬。

伏せた芙佐と咲の眼に、揺らめく炎のようなものが見えた。

  *   *   *   *   *

「矢張り、病なのでしょうかねえ」

千代は鰹節を飯に混ぜ込んで、檻の中の黒猫に与えた。
しかし猫は、顔を背けて食べようとしない。
すっかり夜が更けてしまったというのに、猫は何も食べず、何も飲もうとしない。

「可哀想に」

千代は心配そうに、猫を覗き込んだ。

「そんな檻に入れられているから、気が塞いでいるのであろう。どれ、縁側にでも出してやろう」
「駄目ですよ。もう随分肌寒いのですから、病だったら身体に障ります」
「ほんの少しの間だけだ。案ずるな」

半兵衛は檻を抱えると、縁側へと運ぼうとした。
しかしどうも変だ。
家の中に居る猫達が、この黒猫には寄り付こうとしない。
何時も新入りには興味津々な猫達が。
半兵衛は、薄ら寒いものを感じてはいた。しかし。
この猫がもし化け猫か何かであっても、精一杯世話をしてやろう。そう半兵衛は決めていたのだ。

半兵衛は縁側に檻を出した。
満月が、こうこうと辺りを照らしている。

「今日は明るいのう」

半兵衛は月を眺めて、ふう、と息をついた。



「ぎゃうううううううううう」

途端に、檻の中の猫が騒ぎ出した。
檻をばりばりと引っ掻き、外に出ようと暴れている。

「あらまあ、どうしたのでしょう」
「なな、何でやすかい」
「千代、源助、近付くな」

半兵衛は千代を手で制し、ゆっくりと檻を外に向けた。
そして、檻の口を勢いよく、ばん! と開けた。

「ぎゃうッ」

黒猫は庭に飛び出した。

「ぎゃおううううううう」

月に向かって、怖ろしい声を放っている。
見ると、左の後ろ足が無い。

と、そこに、物置の隅で生まれた仔猫が、ひょこひょこと現れた。
きょとんとして、凄まじい形相の黒猫を見ている。
黒猫はそれに気付き、

「じゃるううううううう」

威嚇し、身構えた。

「危ない」

半兵衛は庭へ駆け下りた。

「ぎゃおっ」

黒猫は仔猫に飛びかかったが、間一髪。
噛み付いたのは、半兵衛の右手だった。
仔猫は驚いて、一目散に逃げ出した。

「ぎううううう」

渾身の力で黒猫は半兵衛の右手を咬む。
びき、びきと鈍い音がした。

「おのれッ」

半兵衛は黒猫を振り払うと、居合抜きで、黒猫を薙ぎ斬ろうと構えた。

「ふしゃああああああああ」

黒猫は、ぶるぶると震えながら、よたよたと蹌踉けながら、全身の毛を逆立てている。
牙を剥いたその口からは、涎が滴っている。

「ぶしゃああああああああ」
「こ、これは」

半兵衛はその猫の様子に、ある異変を感じ取った。
露庵の言葉が頭を過ぎる。

「あれは狂うた犬の病だ」

芙佐と咲の、揺らめく炎のような眼が蘇る。

柄に掛かった右手を戻し、猫の首根をむんずと抑える。
猫は狂ったように暴れ出し、半兵衛の右腕を掻き、蹴った。
皮が剥け、血が飛び散る。

「おお、お前さま」

千代は蒼白になって叫んだ。半兵衛は源助を見遣ってこう言った。

「源助! 籠を持て」
「か、籠でやすか。どどどどんな」
「何でもよい。この猫が入ればな。早う!」
「へえッ」

源助は忽ち、釣りに使う大きな魚籠を持って来た。
半兵衛は渾身の力で、猫を魚籠の中に押し込む。そして手拭いで魚籠の口を塞ぎ、魚籠を吊り下げる縄で手拭いごと口をふん縛る。
猫は魚籠の中で怖ろしいほどに暴れている。半兵衛は揺れ動く魚籠を源助に渡して言った。

「この魚籠に盥を伏せて乗せ、味噌樽でも乗せておけ。魚籠が破れるかもしれん」
「はあ、あの、しかし...」
「こ奴には生きて貰わねばならん、それからな、山田先生の道場へ走って、虎之助を急ぎ呼んで参れ」
「へッ」
「急ぐのだ。早う行け!」
「へ、へええッ」

源助は魚籠を抱え、転がるようにして走り去った。
半兵衛は改めて自らの右手と右腕を見遣る。月明かりにも咬み傷と掻き傷が痛々しい。

「千代、襷を持て」
「は、はい」

呆然としていた千代は、弾かれたように襷を取って戻った。

「俺の腕を縛るぞ。手を貸せ」
「はい」

千代が襷の片方を手に巻き付け、握り締める。半兵衛は右の二の腕に襷を二回り程巻き付け、力を込めてぎりぎりと締め付けた。

「お前さま、これは」
「毒が入らぬようにな。こうせねば、俺は死んでしまう」
「えッ」
「露庵の奴に聞いた、狂うた犬の病だ。猫にも罹るらしい。あの猫は、その病に冒されていたようだな」

むん、と半兵衛が縛り上げ、千代が結び目を作る。半兵衛はどたりと縁側に座り込んだ。

「では、あの猫をお持ちになった、あの奥方は」
「そうだ。猫が病に冒されているのを知っていたのであろう。俺を殺すのが目的だったのかも知れん」
「そんな! お前さまがあの方のご主人をお斬りになったのは、御役目でございましょう。筋違いです」
「そうだとは思うがな。他に恨みの晴らしようが無かったのだろう。しかし」

半兵衛は考え込んだ。

「この一件、どうやら裏がありそうだ」

  *   *   *   *   *

半時も経たぬ内に、源助が虎之助を連れて現れた。

「おう、早かったな」
「師範、何事ですか」
「お主にいい話がある。仕置場の役目、お主に譲るぞ」
「は?」
「俺は、手が使えなくなりそうだ」

半兵衛は自らの右腕を差し出して、言った。

「試し斬りには丁度良かろう。ばっさりやってくれ」
「な、何を言い出すんですか」

虎之助の引きつった顔に向かって、半兵衛は笑みを浮かべた。

「大丈夫だ。俺が見込んだお主の腕なら、さほど痛みは有るまい」
「しかし」
「お前が斬るのを躊躇ったら、俺は死ぬかもしれん」
「何ですって」

虎之助は千代の顔を伺った。千代は黙って頷いた。

「俺の刀を使え。毒が回らぬ内に、さあ」
「はい...では」

虎之助が、源助の差し出す固山宗次の銘刀を取り、抜く。
蒼白い刃に月光がぎらり、と光る。

「御免!」

鋭い声と共に、刀が振り下ろされた。
半兵衛の右腕は、ごとりと縁側に転がった。


つづく



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