第百七十四話 鮑の貝殻、珊瑚の簪 其二 | ねこバナ。

第百七十四話 鮑の貝殻、珊瑚の簪 其二

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第七十三話 猫は恨まず咽び泣く その一(35歳 男 浪人)
 第七十四話 猫は恨まず咽び泣く その二(35歳 男 浪人)

 第百十九話 はぐれ猫の如く(上)
 第百二十話 はぐれ猫の如く(中)
 第百二十一話 はぐれ猫の如く(下)

もどうぞ


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「ふう」

半兵衛は大きく息を吐き出し、長屋の自室で大の字になった。酔いが回って、身体中がぼんやりしている。
全く、得体の知れない男だ。
井上露庵。彼自身が語るところに拠れば、彼は美濃国の某藩藩士の息子。医術を学ぶために長崎で修業している最中、半ば強制的に公儀隠密という御役目を押し付けられたのだという。以来、江戸で町医者勤めをしながら、事あらば情報集めに奔走するのだそうだ。しかし何処まで本当なのかは判らない。

「にゃーう」

戸の隙間から長屋住まいの虎猫が一匹、のそりと現れた。そして寝転がった半兵衛の足をざりざりと舐める。しかし半兵衛はそれには反応せず、只天井を見つめながら露庵のことを思い返していた。
露庵は自分に、荒川沿いの非人宿に住む牛松という男の娘を身請けしろと頼んだ。金が要り用ならば用意するとも言った。しかし、一度小塚原の刑場で顔を合わせていたとはいえ、殆ど初対面に近い間柄である。そんな男に、そんな奇妙な依頼をするものだろうか。
それに、露庵は自らが公儀隠密であることを、あっさりと半兵衛に打ち明けている。そんなことが出来るものだろうか。

「あ」

山田先生か。
山田浅右衛門吉睦が、自分と露庵を結びつける橋渡しをしたのではあるまいか。
とすれば、わざわざあの土蔵に連れて行かれ、露庵に引き合わせられたのも、この件をうまくまとめるためではないか。

「ううむ」

半兵衛は唸った。
まんまとはめられた、と言えなくもない。しかし吉睦には吉睦なりの考えもあるに相違ない。
一体、自分はどんな役回りを演じなければならないのか。

「にゃーう」

ざりざりざりざり

虎猫が、半兵衛の顎を舐め始めた。半兵衛はそれにも構わず、露庵の話を思い返していた。

  *   *   *   *   *

「お前さんには、今判っている事を全て話しておこう。俺は、土佐藩の珊瑚交易に関する証拠集めをしている」
「珊瑚」
「そうだ。長崎から舶来物がたまに入って来るだけの、貴重な代物よ。良い品物は簪や根付の材料になるし、粉にして薬に使うこともある。『和漢三才図会』に拠れば、なんでも南方の海の底に生えているらしい。特に血のような赤い色をしたものが珍重されている」
「妖しい物だな」
「だがこれは非常な高値で取引されるものだ。もしこれが土佐の沖で採れるものだとしたら、どうなる」
「ぬう」
「当然、藩はその利益に与ろうとするだろうよ。どうやら土佐藩は、十数年前から珊瑚を異国との取引に使おうと画策しているらしい」
「何」
「当然、幕府がそれを黙って見ている訳にはいかない。土佐に莫大な利益を上げさせる事になるからな。尾大なれば掉わず、というやつさ。俺はその裏を取りたいのだ」
「そ、それと牛松の娘と、どういう関係があるのだ」
「だからな」

露庵はふう、と酒気を吐き出した。

「言うただろう。チヨは母のアカネから、珊瑚の簪を貰っているのだ」
「それが珊瑚だとどうして判る」
「そりゃあ、俺が見立てた」
「なんだと」
「おいおい、俺も医者の端くれだ。珊瑚ってのは簪や根付だけではない、薬にも使うのだぞ」
「そうなのか」
「そうさ。そして、十六年ほど前、アカネにその簪をくれてやった某藩士というのは、土佐藩士池田光茂という男だ。池田がアカネに渡した珊瑚が、舶来物ではなく土佐の産という事が露見すれば」
「ふむう」
「土佐藩が珊瑚を産出し、しかも加工まで手がけていることが判るではないか」
「それはそうだが、だから何故」
「鈍いなあ。いいか。土佐藩としてはだ。珊瑚の事は藩外に漏らしてはならない秘密なんだぞ。その池田という男、わざわざ簪になった珊瑚を持って藩の外にいた。これはどういう事だ」
「...」
「幕府に密告するためではないか」
「密告」
「もちろん、藩士としてではない。隠密としてだがな」

半兵衛は愕然とした。

「そ、その男も公儀の」
「そうだ。お前さん、公儀を甘く見てはいかんぞ。この国中に公儀の目が光っているのさ」
「...」
「しかし、池田が表向き藩士であることに変わりはない。いや、もうこの世にないのだから、あった、というべきか。土佐藩は池田が隠密とは気付いておらぬようだ。だからな」

露庵は猪口をあおって、半兵衛をじろりと見た。

「オチヨの身請け話にかこつけて、少々騒がせてやろうと思うのさ」
「ぬう」
「その隙に、俺は奴らの尻尾を捉まえる。どうだい、協力してはくれぬか」

半兵衛はまだ合点が行かない。

「何故俺なのだ」
「お前さんが、信用するに足る男だからさ」
「どういう根拠で」
「まあ...山勘ってやつだな」

ふふふ、と露庵は笑って、

「さあ、どうだもう一杯」

と、徳利を差し出したのだ。

  *   *   *   *   *

翌日。
露庵と半兵衛は連れ立って、荒川のほとりを歩いていた。

「ほれ、あそこだ」

露庵が指差した先には。
川に面して、暗く沈んだあばら屋が連なっていた。

「非人宿だ。あそこに牛松とオチヨが居る」

露庵はすいすいと歩いて、その暗い街に近付く。半兵衛は固く口を結び、その後に続いた。

非人宿の中は、外見と同じく、暗く沈んでいた。
襤褸を纏った人々が、素足のままぞろぞろと蠢いている。川に面した広場のような場所では、一頭の牛が逆さに釣り上げられ、皮を剥がれているところだった。

「わー」
「まてー」

子供達が大きな声をあげて、鶏を追いかけている。屈託の無いその様子は、町内の子供達と変わらない。
半兵衛の口元は、僅かに綻んだ。

「お前さん方、こんな処に、何の用だね」

一人の大柄な男が、半兵衛達に近付いて来た。

「おう、俺は町医者の井上と云う者だ。こいつは長内半兵衛と云う。牛松さんは何処だね」
「牛松に何用だ」
「ちいと、訊きたい事があってのう。お前さんは非人頭かね」
「そうだ。火助ってもんだ」
「そうか、それなら...」

露庵は火助の側へ寄り、銀を何枚か掴ませた。

「済まないねえ。案内してくれんかね」
「おう、いいともさ」

火助はにんまりと笑って、のそのそと歩き出した。
露庵は、ちょいちょいと半兵衛に手招きする。半兵衛は呆然としながらも、ゆっくり非人宿に足を踏み入れた。
ねめつけるような視線を感じる。浪人とはいえ、非人宿に武士が足を踏み入れるなど滅多に無い事だ。視線には興味と怖れ、そして恨みに近いものが、混じっている様だった。

「ほれ、あすこだ」

火助が指差す先には、牛の腹から臓物を引きずり出す牛松の姿があった。

「牛松さあん」

露庵が親しげに手を振る。

「あんれまあ、先生、こんなとこまで」

血塗れの手で、牛松は呆けた声を出した。

「こんにちは。今日は、ほれ、も一人客を連れて来た」
「ああ、山田先生んとこの」

牛松は半兵衛に向かって、ぺこりと頭を下げる。

「うむ」
「おうい、オチヨや、井上先生がお見えだ」

大きな声で牛松が叫んだ。
その声の先には。
すらりとした一人の娘が、立っていた。

「にゃおう」
「みゃー」
「ぐるぐる」

足下には三匹の猫。
親しげに擦り寄っている。

「ほうれ、オチヨ、こっちへ来い」

牛松の呼びかけに、娘は顔を向けた。
ふと、半兵衛と視線が合う。小さな瞳が、川の照り返しを受けて輝く。

半兵衛の胸が、どきりと高鳴った。

  *   *   *   *   *

「じゃあ、望みはあるんですかい」
「まあ、出来るだけやってみようと思うよ」
「ああ、ありがてえ」

牛松の声は震えていた。
大きく腫れ上がった顔に埋もれてしまいそうな目からは、ぽとりと涙がこぼれる。
荒川の土手に腰掛け、半兵衛と露庵、そして牛松とオチヨの四人は、夕陽にぼんやりと照らされていた。

「だが、いわゆる足抜けでいくのか、それとも別の手段を使うか...それは俺に任せてくれないか」
「別の手段?」
「ああ。オチヨはすでに人別帳に記されている。弾左衛門の親分の裁量でどうとでもなるだろうが、下手に誤魔化すと後が面倒だ。だから」
「だから」
「オチヨには、一度死んで貰わねばならぬ、かもしれぬ」
「えっ」

牛松は仰天する。オチヨはじっと蹲ったまま動かない。その膝では、仔猫が眠っていた。

「人別帳から、一度オチヨの名が消されなければならぬ、ということさ。その上で、実はこの子は武士の娘でした、と遡って記録を改竄する必要がある。役所というのは面倒な処さ」

ふう、と露庵が息をつく。そして、

「だから、勿論本当に死ななければならぬという訳ではないよ。安心おし、オチヨ」

と、オチヨに馴れ馴れしく声を掛ける。オチヨはそれには応えず、川をじっと眺めるばかりだ。

「わしゃあ...何でもいいです。この子が、真っ当に生きられるんなら」
「真っ当、ねえ」

牛松の呟きに、露庵は妙な反応をする。

「牛松さんの言う、真っ当ってのは何だね。裕福な暮らしかい、高い身分かい」
「え」
「人間らしく生きるってなあ、どの身分だって難しいもんさ。この太平の世でもね。だからこの子が真っ当に生きるってのは、必ずしも此処から抜け出す事では無いかも知れないよ」
「でも...わしらみてえに、人間の扱いをされないようじゃ...特におなごは、酷い仕事をさせられる」
「それはそうだろうさ。でも、俺は牛松さん、あんたの仕事は立派だと思うよ」
「そんな先生」
「あんたのなめした皮は、武士の竹刀や防具の材料になるんだぜ。それに、蘭学を修めた偉い医者よりもずっと、あんたは人間の臓腑に詳しいじゃないか。あんたのおかげで、俺はすごく助かってるんだ」
「はあ。しかし死んだ牛馬を捌くなんてえことまで」
「おや。長崎の阿蘭陀人は、牛を殺してその肉を食うのだそうだ。恐ろしい話じゃないか。それよりあんたの仕事のほうがずっと清らかだと思うね」
「...先生には、判りませんや。わしらのことは...」

牛松はそう言って、下を向いた。

「ああ判ったよ。知ったような口を利いて済まなかったね。兎も角、俺は頑張ってみるからね」
「ありがとうございます。良かったなあオチヨ」

嬉しそうに牛松がオチヨにそう言うと、オチヨはがばと立ち上がり、

「うう、うう」

と首を横に振った。

「何だい。お前はこんな処にいるべきじゃないんだよ。なあ、露庵先生がいいようにしてくださる」
「うううううう」

激しく首を振って、オチヨは仔猫を抱えたまま、土手を駆け下りて行った。

「オチヨ!」

牛松は、慌ててその後を追った。

「やれやれ。親の心子知らず、か。それとも逆なのかな」

露庵は溜息混じりに呟いた。

「いいのか」

半兵衛が訊く。

「いいさ。どのみちオチヨは弾左衛門の食い物にされるのがオチだ。それよりは、半兵衛、お前さんのような男が身請けした方がよっぽどいい」
「しかしな」
「判っている。あの子にはまだその事は話さない。万事俺に任せてくれ」

そう言って露庵は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
こいつは何を企んでいるのだ。
半兵衛は気味悪く思いながらも、その真意を聞き出すような野暮はしなかった。

夕闇はますます濃くなり、辺りは火の点いたように燃え立って見えた。


つづく




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