第百二十一話 はぐれ猫の如く(下)
※前々回 第百十九話 はぐれ猫の如く(上)
前回 第百二十話 はぐれ猫の如く(中)
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「あいててて」
半兵衛は小さく悲鳴をあげた。
慣れない野良仕事で身体のあちこちが痛い。
日々鍛錬に励んで来た積もりだったが、どうやら勝手が違うらしい。
夕陽が辺りを赤く照らす中、サトと半兵衛は畑から家へと歩いていた。
「なんだ、おめえ、大したことねえだなあ」
サトが呆れ顔で言う。半兵衛は全く面目ないという体で、背中を丸めた。
その背中を、サトが、ばん、と叩く。
「まあ仕方ねえべ、初めてなんだから。さ、帰ったら支度して、番所さ行くべ」
「あ、ああ」
サトはにっこりと微笑んで、弾むように先を歩いて行く。
幸せな光景だ。半兵衛はそう思った。そしてこんな日々がずっと続けばいいと。
かあ、かあ、と烏が一羽、夕陽に向かって飛んでゆく。
いけない。半兵衛はぶるぶると頭を振る。
自分はもうすぐ此処から離れなければいけないのだ。そして父に託された通りに、生きなければ。
それが武士の道だと、そう思い込んで来たが。
此処には違う世界がある。平和な、緩やかな世界が。
ますます赤々と燃え上がる夕陽の中、半兵衛の足取りは重かった。
* * * * *
番所へと向かう坂の途中。
半兵衛とサト、それにあの錆猫が、二人と一匹、仲良く並んで歩いている。
サトは半兵衛に訊いた。
「おめえ、何処行くつもりだっただ。江戸か」
「さあ」
「さあって、判らねえのか」
「父は知っていたのだろうが、私には教えてくれなかった」
ふうと半兵衛は息を吐き出した。サトは空を見上げて言った。
「お侍ってのは、むつかしいもんだなあ。他所の事はおれよく判らねえけど、あの番所に居ると、いろんなお侍を見るだよ。御役目だの湯治だのお参りだの、仇討ちだの」
ぴくりと半兵衛の肩が動いた。サトはそれに気付かずに続ける。
「おれは此処に、百姓に生まれて良かったなあ。あんまむつかしい事考えなくていいからな。考えることってゆっても、田んぼや畑の事、飯の事、天気の事、ばさまの事、そんぐれえだ」
けらけらとサトは笑う。成程それは羨ましい、と半兵衛は思った。
するとサトは、くるりと振り向いて、半兵衛に言う。
「なあ、もし、もしさ、行くとこが無かったら、おれん家にずっと居ればええだ」
「な」
「野良仕事なんか直ぐ慣れるべ。なあ」
半兵衛は吃驚してサトを見る。サトの顔は案外真剣だ。
しかし。
そうはいかない事を、半兵衛は良く知っている。
「...そうだな、そう出来たらいいな」
そう言って俯いた。サトはその言葉を都合良く解釈したらしい。
「そうだべ? な? おれもお役人さんにお願いするで。ああ、いいなあ、そうなればいいなあ」
またサトは弾むように先を歩いて行く。
「みゃあ」
猫がそれに続いて、小走りに歩く。
半兵衛は夕陽に向かうように歩くサトと猫の後ろ姿を、じっと見ながら、ゆっくりと歩いていた。
どどどどどどどどどどどどどどどど
背後から蹄の音が聞こえる。
三頭、四頭、いやもっと多い。
嫌な予感がして振り向くと、六頭の馬が物凄い勢いで走って来る。そして、半兵衛のすぐ近くで止まり、六人の侍が飛び降りた。
「長内宗則の息子だな。確か半兵衛と言ったか」
その中の一人が半兵衛に声を掛けた。
見覚えのある顔だ。半兵衛は直ぐにそれが誰であるか判った。
父を破滅に追いやった樋口道場の師範代、高木慎之輔。
「何用か」
半兵衛はきっと高木を睨んで言った。高木は嘲るように片頬で笑う。
「無論、貴様は生きては居られぬ。まあ貴様如き殺す迄も無いのだが、ご家老がなあ、藩内の争いを公儀に嗅ぎつけられると後々五月蠅いと仰ったのでな。悪く思うな」
高木がするりと刀を抜く。後ろの五人もそれに続いて、刃を光らせる。
半兵衛は父の形見に手を掛けた。重い。自分にこれが扱えるのか。
ぎゅうと柄を握って、抜こうとしたその時。
「何だおめえら、何の用だ」
サトがとことこ割って入ろうとする。何の警戒もせずに。
高木の顔が狂喜に歪む。
半兵衛は声を上げた。
「やめろッ」
「邪魔立てするなこの小娘ッ」
高木が大きく振りかぶって袈裟懸けに打ち落とす。
サトの身体から、大きな血飛沫が上がった。
声も出さずにゆっくりと倒れていくサトを、半兵衛は呆然と見た。
夕陽に血潮がなお赤く映えて、田舎道を染める。
「サト!」
半兵衛はサトを抱き留めたが、その眼は既に光を失っていた。
「次は貴様だ。それ、斬り捨ていッ」
高木が号令すると、背後の一人が半兵衛に斬りかかって来た。
半兵衛はサトを抱えたまま動かない。
「ぎゃうっ」
半兵衛の背後から、あの錆猫が、侍に向かって飛びかかった。
顔に貼り付き、しがみついて引っ掻く、蹴る。
「ぐああああああッ、何だ此奴は」
やっとの思いで猫を振り払った侍は、思い切り刀を振り回した。
刀の峰が、飛びすさる猫の首に当たり、鈍い音がした。
猫は道端に落ち、ぴくりと痙攣した後、動かなくなった。
「くそう、手間をかけさせおってえええ」
侍が声を上げて半兵衛に襲いかかる。
半兵衛は。
道端に転がる、動かない猫を見た。
腕の中の、動かないサトを見た。
何故だ。
何故殺すのだ。
何故斬るのだ。
奴らは。
なぜ。
ナゼ。
コロスノダ。
キル。
コロス。
コロス。
キル。
ばつん。
何かが弾けた。
半兵衛は抜きざまに、振り下ろす侍の手首を斬り上げる。
すっぱりと手首を落とされた侍が声を上げる間も無く、心の臓へと刀が突き刺さる。
「おうッ」
一瞬で絶命した侍は、どたりとその場に倒れ込んだ。
「な」
高木は怯んだ。
眼にも止まらぬ早業で人を斬り捨てた、半兵衛の眼が。
氷のような輝きを放って、高木を睨みつけていた。
「ユルサン」
ずい、と半兵衛が前に出る。
高木と背後の侍は、気圧されてじりりと後ずさる。
「な、何をしておる、こんな年端もいかぬ若造に、け、気圧されるとは」
高木は喚いて命じた。
「は、早う斬り捨ててしまえッ」
三人の侍が一気に半兵衛を襲う。
一人目の斬撃を喰らう寸前、半兵衛はその懐に潜り込み、鳩尾に当て身を喰らわせた。そしてその顎を刀の柄で跳ね上げ、胸を思い切り蹴飛ばす。
一人目は吹き飛んで高木にぶち当たる。二人目が呆気に取られている処へ、半兵衛の刀はするりと伸び、首の右半分を切り裂いた。
「かはああああ」
侍は声にならない悲鳴を上げ、血を吹き上げて倒れ込む。それに惑わされ、三人目の侍は半兵衛を見失ってしまった。おろおろする間も無く、三人目の鳩尾には半兵衛の脇差しが突き刺さる。半兵衛がぐいとねじ込むと、その切っ先は心の臓まで達し、侍はずるりと崩れ落ちた。
「野郎おおおお」
四人目が大声を上げて飛びかかる。
半兵衛はするりと横に動きながら、一瞬で、相手の腹を真っ二つに割った。
「ぐうううう」
蹴倒された侍をまともに受けて転んでいた高木は、やっとの事で起き上がる。
そして、惨状を目の当たりにした。
心の臓を突かれ。
首を斬られ。
腹を割られて。
一瞬のうちに、四人の侍が、斬り倒されている。
この、年端もいかぬ若造に。
蹴倒された侍は、頭をしたたかに打って気絶している。
「お、おのれええええ」
呻きながら高木は刀を構えた。
半兵衛は。
ゆらりと立ち、ぎらりと光る眼で、高木を睨む。
「ユルサンゾ」
「うおおおおおおおおお」
高木は半兵衛に飛びかかり、渾身の力で打ち落とした。
半兵衛はその手首を。
右の手首を、刀の切っ先で切り上げた。
「ぎゃああああああ」
高木が悲鳴を上げる。刀を取り落とす。
その顔めがけて。
半兵衛は。
刀を突き出す。
「かああああああああああ」
「うわああああッ」
「それまで!」
鋭い声に、半兵衛の動きが、びくりと止まった。
高木の鼻先、一寸先程で、刀が停止する。
その切っ先を凝視したまま、高木はへたり込んだ。
半兵衛は我に返り、声の主の方を見る。
白髪混じりの、老境に入ろうかという強面の男。
夕陽に照らされ、皺の陰が顔に濃い溝を作る。
「長内宗則殿の子息とは、お主か」
男はすいすいと歩き、高木を無視して半兵衛の前に立つ。
半兵衛は、刀を構えたまま動かない。
「迎えに参った。儂は山田浅右衛門吉寛。人は首斬り浅右衛門などと呼ぶ。お主の父とは浅からぬ仲での」
そう言って男、山田浅右衛門は辺りを見回す。血の臭いが鼻の奥まで這い上ってくる。
表情一つ変えずに、浅右衛門は伴の男に命じた。
「これ、ここにへたり込んでおる男をふん縛っておけ。番所に突き出すでの」
「へえ」
背の曲がった付き人らしき男は、背の袋から縄を取り出し、呆然とする高木に縄を打った。
「な、何をするか貴様! 町人の分際で」
ぐるぐる巻きになった処で、ようやく高木は虚勢を張った。
「この、この餓鬼が拙者の部下を斬ったのだぞ! 縄を打つならこの者の方ではないか」
浅右衛門は冷然と高木に応える。
「この者は己の身を守ったまで。それにお主、そこの村娘を斬ったであろう」
「た、たかが百姓の小娘など、何ということは無いではないか」
高木の物言いに、浅右衛門は眉を顰める。
「お主の国元ではそうかもしれぬ。だが此処は天領、千人隊の里よ。例え武士であっても、故無き殺人は打ち首と決まっておる」
「なッ」
「それ、引っ立てい。此処に転がった者は儂が連れて行く」
「へえッ」
付き人は高木をぐいと引き立てる。高木は何やら喚きながらも、伴の男の怪力に抗うことが出来ず、ずるずると引きずられて行く。
「さあ、もうよい。刀を下ろせ」
浅右衛門は半兵衛に声を掛けた。
半兵衛はまだ、刀を構えたまま動けない。
手が震えた。
「矢張長内殿の子息よのう。流石の技よ。だが」
浅右衛門の声が、半兵衛の頭の中に響く。
「人を斬ってしまったからには、その業と向き合わねばならぬぞ。判るか」
身体中が、わなわなと震えた。
がらん、と刀が、手から落ちた。
「お主は、どうやら儂等の仲間となる運命のようじゃな」
半兵衛は、浅右衛門の顔を見上げた。
落ちかけた夕陽が、浅右衛門の顔を紅に染める。
その眼は、言い知れぬ哀しみを、湛えていた。
「さあ、来るがよい」
すうと伸びたその手に。
「ううううう」
唇が震えた。
「ううううううう」
がっしと、その手を握りしめた。
「うわああああああああああああ」
ちらちらと星が瞬き始めた空に向かって、半兵衛は啼いた。
哀しさも驚きも激情も。
全て吐き出して。
「うわああおおおおおおおおおお」
自らの業を深く心に刻みながら、半兵衛は啼いた。
浅右衛門はその肩を、そうっと抱いた。
東の空から、大きな月がゆっくりと昇って来る。
初冬の冷たい風が、二人の周りを、くるくると舞った。
「にゃぁーおーう」
遠くで、猫の咽び泣きが響いた。
* * * * *
この日より半兵衛は、四代目山田浅右衛門吉寛の弟子となった。
彼が「首斬り半兵衛」として江戸中にその名を轟かせるには、いま暫くの時を要する。
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