これは大野高校の玄関前にひっそりとたたずむ石碑である。

 岩手日報のT記者さんのお蔭で、その後も岩手の知人、友人との久しぶりの繋がりが

出来て幸せな毎日である。

 しかし、何より、この縁のきっかけになったのは以前のブログでも触れたが

大野高校のS事務長さんのお蔭である。

 新聞掲載の後、一度だけ、お礼の電話をおかけしたが嬉しい時間を過ごすことが出来た。

 彼女はこの4月に大野高校に赴任したそうだが

この玄関前の小さな石碑の文章に魅かれ、思わずスマホのシャッターを押したという。

 親友のhamaさんなら、今でもまだ記憶にあると思いますが、

15年も経てば、この石碑の由来も、もう、忘れられるものである事をしみじみと思った・・・。

 そこで、「実はこの石碑は私の校長時代に作った物なのですよ」

と話したら彼女はかなり驚いた様子だった。

そこでその時のいきさつを話してみた。 以下はこの石碑のいきさつである。

 私が校長に着任して初めて岩手県高校総体が始まる前の選手諸君の為の

壮行会が行われる朝の事であった。

 私はこんな小さな学校でも懸命に頑張っている生徒諸君の壮行式に

「何かこれは!と思う言葉を探していた

 なかなか、いいアイデアが浮かばないで思案していると

当時のS事務長が決裁を受けに校長室に入ってきたので

「事務長さん、今日の壮行会で選手諸君を激励するいい文句が浮かばないで

困っているけど何かありませんかね?」と聞いてみた。

すると彼は即座に「自分たちが誰の為に戦うのか・ということに触れたらどうですか」

と答えたのである。・・・・・・・そしてその時、私の古い記憶が蘇った・・・。

「君が憂いに我は泣き 我が歓びに君は舞う」

 そうだ!これで行こう!

 丁度、その直後に一人の人物が校長室の私を訪ねてきた。

それは私が初任校の軽米高校時代の教え子の百tori氏であった。

彼はこの大野村(当時)で石材店を営み、その社長をしている存在である事を知った。

丁度この時、3番目の息子が隣の大野第一中学校の3年生であり、

彼はその中学校のPTA会長を務めているという。

私がこの大野高校の社長いや校長としてやってきたので敬意を表しに来たという。

そこで昔話になりかけたが、如何せん!壮行会の時間が迫ってきた。

そこで私は「今から高校総体県大会の壮行会があるからそれを見に来ないか!」

と誘ってみたところ、彼は喜んで式が行われる体育館に同行してくれたのである。

 私は選手団を前に校長として初めて壮行の挨拶を送った。

 選手諸君、いよいよ、明日から県大会だね。この1年、懸命に努力した君たちの戦いを

君たちの学友である生徒諸君やお父さん、お母さん、大野の地域全体の人達が

心から見守り応援して頂いているのです。

だから、自分の持っている力を精一杯出し切って、奮闘してきてください。

勝敗は時の運です。

しかし、君たちにはこうして心の底から応援してくれる人たちがいる事を忘れてはなりません。

そこで君たちに次の言葉を送ります。

「君が憂いに我れは泣き 我が歓びに君は舞う」

 これは旧制大阪高等学校の寮歌の一節です。

この心は

君たちが万一負けた時は君たち以上に先に泣いて悲しむ

友や父母、村の人達がいるのです。

また、君たちが勝利して優勝旗を持ち帰った時、君たち以上に喜んで舞い踊る

村の人たちがいるのです

どうか、自分の為に、また自分をこれまで支え続けてきた村の人たちの為に

最後まで奮闘してきてください!

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今となってはこんな内容だったとしか言えないが、

私も選手諸君の為に精一杯、声を張り上げて激励の言葉を送ったのである。

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壮行式が終わって校長室に戻ると百tori氏も戻ってきた。

彼はこういったのである。

校長さん!さっきのあの演説はとてもよかったです。

私は石屋ですので、あの言葉を石碑にして差し上げます!

なんという幸せであった事か・・・こうして、あの石碑が出来たのである。

彼は実はもっと大きな石碑を作ってくれる予定であったが、

事務長が「大きなものを作ると県教育委員会が「取り除けと文句を言うかもしれませんよ!」

というので、こうしたこじんまりとしたものにしたのであった。

石碑を贈られた後に、百tori石材店の社長には感謝状を贈ったことは言うまでもない・・。

また、当時の教務主任が「この文言を無断で使うと著作権で問題になるかもしれませんよ」

というので、大阪大学に直接電話をして

この素晴らしい寮歌の一節を岩手県立大野高校の玄関前の石碑に刻んでよろしいか

と伺ったところ、「どうぞどうぞ!お使いください!」という答えが返ってきたことも思い出す。

 だから、この石碑の裏面にその由来や寄贈主の事を書いておけばよかったと今更ながら思うのである。(「旧制大阪高等学校寮歌より」くらいは刻んだとおもうが・・・)

 そして、次の年に百tori氏の三番目の息子も大野高校に入学して、その父である彼は

大野高校のPTA会長にもなってくれたのである。その息子はその3年後、

この大野高校から岩手大学の工学部に見事合格したことも付けくわえておく。

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この壮行式の年には優勝候補であった男子卓球部が団体戦決勝で2-3で水沢高校に敗れてしまった。まさに私は「君が憂いに我は泣き」・・その心境であった。

だが、その団体戦で二人の1年生が選手として奮闘したのである。

その悔しさを2年後の高総体で爆発させて大野高校卓球部男子は県大会で見事

優勝し、千葉県の成田市で行われたインターハイに出場したのである。

県大会優勝直後の岩手日報の記者さんへのインタビューに応えて主将の北村学君は

  「どうしても優勝して村の人達に恩返ししたかったのです!」 と答えたのです。

 これは岩手日報に大きく報道され、県下の読者から

多くの賛同の電話が鳴り響いたことを思い出します。

・・・・・最後に下の二枚の写真は大野高校の校長室でのスナップです。

右の写真は歴代の校長さんたちの写真が並ぶ応接室であったが私は来客が  

ゆっくり寛げる空間を作っるため、その間の仕切りを取り外したのです。

左は前回、紹介した下町校長さんとのスナップです、(まあ、実名でいいか!)

                                       続く