私の最近の事情から身辺整理を行っているが、今日は業者が冬物のブレザーやコートを引き取りに来る日だった。しかし、私の大事な冬物は業者から見れば何の価値もなく引き取ってくれはしなかった。結局、ごみ処理するしかないので悲しい思いであった。
引き取り業者の狙いは指輪やネックレス、切手、ネクタイピンの中から宝物を見つけ出す事だった。しかし、私や家内の大事にしてきた物のほとんどが不要なものでしかなかったようだ。家内の真珠のネックレスも私の真珠のネクタイピンも1970年の大阪万国博覧会の記念切手も全く価値がなかった。一円にもならないのである。
ところがどっこい、私が以前ブログで書いた「父の買ってくれた時計」がその価値の有難さを見せたのだ。私が、「これは父の形見でこれだけは手放せない」と言って
その時計を見せると、その若い業者はスマホで丹念に写真を撮りすぐ情報を得て
「これは最低5万円はします。少し傷がありますが、これからはもっと値が上がるでしょう」と言ったのである。
私が中学一年の時、父から買ってもらったゼンマイ式の腕時計セイコークラウンは
昭和33年ごろで5,500円もしたが、あれから60年の歳月を経てその時の10倍の価値を持っていたのである。
その業者は「これを見せてもらっただけでも目の保養になりました」とも言った。
正直私はとても嬉しかった。
その若者は「今はこうしたゼンマイ式の時計はブランド物になっていますがその修理をする職人がいなくなっています」とも付け加えた。
あの修理してくれた故郷平舘の同級生の旦那さん(佐々木直さん)が
本当に凄いマイスターであったことをあらためて実感し感謝する思いである。
修理してもらったその時計を貰いに行ってお礼を言うと彼はにっこり笑って
こう言ったことも思い出す。「私の名前は直(なおし)ですから・・・」
このブログの前項として「岩手の保健」にその事を書き、末尾にこう書いた、
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ところで今日、私にとって本当に嬉しい事が起こりました。先に郵送して修理を
お願いしていた錆び付いた父の遺品であるゼンマイ式時計の修理が成功して
「チッチ、チッチと時を刻んでいますよ」、
と佐々木さんからお知らせの電話があった事です。
合掌する思いで、心躍らせて今からその時計を受取りに、八幡平市に車を走らせます。
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その記事を見た心友のNハマさんが感想で
「チッチ、チッチ」は「父、父」と重なり面白い!!
とメールを送って頂いたことも、とても懐かしく思い出されて来ました・・・。
↑夢のブランド腕時計 セイコークラウン
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そのブログを再掲載して今日の嬉しい思いをお伝えします。
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中学一年になった私はある決意と思いを込めて
「腕時計を買ってほしい」と母に言いました。
しかし、昭和30年代のはじめのその当時は、勤め人の平均月収は一万円に届かず、五千円以上もする高価な腕時計を中学生が手にすることはまさに高根の花以上のことでした。
当時私の実家の斜め向かいにあったN時計店のショーウィにンドウに陳列されていた腕時計の値段は実に五千五百円もの正札がついていました。私にとって怖い父親でしたが、父の精力的な経営によって呉服店の実家はとても繁盛していました。この店単独での大売出し(今のバーゲンセール)の時などは二十メートル以上もある入り口に客が押しかけ、帰宅した自分が家に入ることもできず、「俺はこの家の息子だから入れてください」とお客さんたちに言ってもだれもその場所を譲ってくれませんでした。仕方なく川向うの(家の敷地の中を川が流れていた)一番奥の塀を乗り越えてやっと家の中に入った思い出があります。私の母は自分が40歳の時生んだ末っ子の私を猫かわいがりしており、私が申し出たこの無謀な買い物の望みをかなえてくれる可能性は十分にあると思っていました。ところが、母の答えは意外にも「お父さんに聞いてみなさい」という一言でした。入り婿の父はいつも母を立てて暮らしており、財布のひもは常に母が握っていることを知っていたのですが・・・。しかもこれまでの私の記憶では父から小遣い銭を貰った事などは一度もなかったからです。しかし、母の答えはここ一番の息子の我儘な申し出に対してその決定権を父に譲ったのです。「これは難しい事になったな」という思いがして、私の目論見は殆んど消えかけたかに見えました。この私の願いの決定を父にゆだねた母の意図を私は理解できませんでした。もういいや!・・・、しかし、その腕時計がほしくてたまりません。父にどんなに怒られるかもしれないという思いで私の心は揺れました。駄目でもともとという気持ちで私は父の前に土下座して「腕時計を買って欲しい」と頼み込みました。当然「何故腕時計を買いたいのか」という詰問がありました。私はしどろもどろになりながらも、懸命に次のように父に訴えました。「中学生になったので、盛岡の高校に進学するため、自主的に勉強する事にしました。腕時計があれば、卓球部の活動とも両立するためいつも自分なりに生活や勉強のリズムが作れますから」と懸命に訴えました。すると黙って聞いていた父が一言も怒らず、突然「買ってやろう」と言ったのです。夢ではないか・・
しかし、こう続けたのです。「良い心がけだ。買ってやる!毎日、百円ずつやるから自分で郵便局に貯金しなさい」
「ええ、それでは買うまで二、三か月もかかるじゃないか・・・」と心のうちで舌打ちしながらもそれでも私は父の命令を忠実に守って毎日放課後になると一目散に家に駆け戻って父から百円を押し頂いて郵便局に貯金しました。
遂に貯金が五千円の大台に乗り、「いよいよあと一週間か」と思いながら
父に預金通帳を渡しました。
その通帳の額面を見た父は
「よく頑張ったなあ・・あと五百円遣るからすぐ時計屋さんに行って買ってきなさい」
と言って私のいがぐり頭を撫でてくれたのです・・。
このことは実は私の私費出版した「岩手の人物風土記」に書いたものでもあります。
ご存じの方はその本も是非お読み直して頂ければ嬉しいです。
この時、」この厳父に私は最高の実物教育を受けたことを実感しています。
それ以後は只々、父を心の底から尊敬してやまなくなり、父も私に対して一人の人間として接してくれました。日露戦争のころ、明治30年代の中頃ごろに生まれた父でした。
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