四戸の地名が無いわけをNHKの番組で知ったがその結論を延ばしていました。
さて、これまで戸のつく地名は頑強な軍馬を育てる牧場である事を触れました。
源頼朝の時代はその弟義経が鵯越(ひよどり越え)の逆落としと言われる作戦で
一の谷に集結していた平家軍を急峻な崖を軍馬諸共に一気に駆け下って
打ち破ったことが有名です。
その時の有名な義経の決断の言葉が「鹿も四つ足、馬も四つ足、鹿はこの坂を自在に走り回っている。同じ四つ足の馬でこの坂を下れないことは無い! 者ども続け!」
さて、この時代の馬は足の速い競走馬ではなく足が比較的短く、体が頑健な日本馬であったと言われています。だから走る速度ではなく、鎧兜を身につけた武者を載せてびくともしない頑丈な体を持つ馬が必要だったのです。だから子馬の時から草原だけでなく、急峻な山岳地帯を走り回る訓練ができる場所が一番必要だったのです。
そうした意味でこの一戸から九戸という地域はその条件を持った牧場であり訓練場であったのです。そして、その土地でこうした軍馬を育てることによって住民は十分な収入を確保できていたのです。
だからこの戸のつく地域は南部氏の支配下で安定した生活が営まれていたと考えられます。
しかし、江戸時代にはしばしば、大飢饉が襲ってきます。
江戸の三大大飢饉は享保大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉が有名ですが、この糠部郡と言われる地方はヤマセの常襲地帯であり、オホーツクからの冷たい風が押し寄せて今でも農業に大きな被害を与えているのです。この飢餓に苦しんだ人々にとって、馬を育てるだけではこの冷害の中で生き抜くことが困難な事が度々あったと思われます。
そんな時、水源が確保され、平地が広がる土地は農業にとって必要不可欠な条件だったと思われます。現在の青森県の三戸から五戸の間に馬淵川や新井田川が流れています。
そして、その時代の古地図に用水の文字が残っているものがある事が分かったのです。
つまり、この幻の四戸地方は農業に適した土地でもあったのです。
これまでの最大の収入源であった軍馬の育成では飢饉を乗り越えられないと知った人々が豊かな米作りや農作物を手に入れる新しい宝の土地に気づいたのです。
そして、他の戸のつく地域と別な生き方が出来ることを知った人々はかつて四戸と言われた自分たちの住む土地の名を変えたのではないかというものです。
つまり、農業が出来るこの地方が軍馬の牧場に代わる新しい宝物である農業が出来る地域である事を発見したことから、この三戸と五戸の中間にあった地域が四戸という名前を捨てたと考えられるというわけです。つまり、他の戸のつく牧場のある地域との決別をする為に敢えて四戸という牧場のある地域の名を変えたというわけです。
この説は私のとっても初めて聞くものであり、同感の思いを強くしました。
やはり、歴史上の謎はこうして解明されていくのだと感動しきりでした。
番組の最後には現在、戸のつく市町村のトップが集まる会がある事が紹介され、
その中に四戸が存在していたと思われる地域(南部町)からも代表が参加している事が紹介されました。
その中でひと際、四戸の代表者が一番張り切って撮影されているのが印象的でした。
以下はネットから・・
岩手の一戸町からぐるりと時計回りに青森を通って九戸村まで連なる「へ」のつく自治体。二戸市など岩手の3自治体と三戸町など青森の6自治体の9市町村が一堂に会して地域振興の知恵を出し合う「『戸(へ)』のサミット」が25日、岩手県一戸町の奥中山高原で開かれた。
今年で27回目。「四戸」は市町村名としては存在しないが、この地域と歴史的に深いつながりがある「南部町」(青森県)が2017年から参加。人口減少や地域振興を巡り、知恵を出し合っている。
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これで戸の謎解きのシリーズを終わります。また体調が良ければブログを書きたいです。