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四戸という地名や市町村が何故存在しないか・・・

一方、四戸さんという苗字を持つ人は現在も存在しています。

その中で私がこれまでの人生でその四戸という苗字を持つ人の存在を知ったのは

高校2年の時でした。

←旧制盛岡中学校

私の母校は盛岡一高といい、1学年の定員は400人の学校だったのですが、岩手県では進学校でした。その旧制は盛岡中学校であり先輩には石川啄木や宮沢賢治、金田一京助、野村胡堂などの有名な文学者を輩出し、更に陸軍や海軍に板垣征四郎、米内光政などを出している学校でありました。(なんと校歌が軍艦マーチの曲!甲子園でビックリされた)

以下はネットから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ♪ 世に謳はれし浩然の 大気をここに鍾めたる/秀麗高き岩手山 

      清流長き北上や/山河自然の化を享けて 汚れは知らぬ白堊城/♪

 こんな校歌が軍艦マーチにのって流れたから、甲子園のスタンドはびっくりした。係員が間違えたのではない。明治十三年創立のれっきとした岩手県立盛岡第一高等学校校歌である。

盛岡一高応援団

 

 

 今のような、予備校などすすんだ受験システムの発達はなく、ただこの学校で切磋琢磨していくしかありませんでした。

 学校では定期テストの他に年に3回ほどの実力テストがありました。その時代だったから当たり前でしたが、成績の上位者は職員室前の掲示板に実名が張り出されたのです。

 だからせめてその上位者最後の30番から40番くらいの中に入るのが最大の目標でした。

 私は懸命に努力しましたが、如何せん1~2年の時は数学がカラキシだめで、恥ずかしながら2度も〇点を取ったことがありました。それでも何とか30番くらいの順番でしたので(多分他の教科はよかったからか)担任の先生からは

「君!この数学のゼロさえなかったら・・・」といつも怒られていました。

 しかし、ある時、私はこの数学に何とか話をつける時がやってきたのです。

それは2年生の秋でした。盛岡に下宿していた私は夕食の時、

同宿の岩手大学の学生さんが数学科に在籍していることを知り、藁をもつかむ思いで

「○○さん、自分は数学がどうしても困っています。何とか良くなる方法はないでしょうか?」

と相談したのです。すると彼はすぐ部屋から使い古した数学の問題集を私に持ってきて渡してくれ、「あのさ、この問題を最初から最後までとことん解き切る事だよ」と言ったのです。

 その問題集は数研出版の問題集で物凄く分厚な冊子でした。

追い込まれていた私はその夜からひたすらその問題集の問題を解き始めたのです。

既に2年生の秋10月の半ばだったと思います。

 10月~11月~12月・・そして新年の1月~2月~3月・・・もう半年間ひたすらその問題集と格闘した日々でした。そしてついに私は開眼したのです。

 3月の末に行われた数少ない学校以外の模試(東北大学オープン模試だったか)を受検した時、私はその数学の問題を全問見て、「すべて自分が解いたことがある問題である事に気づいたのです」 だからあっという間に6問ほどの問題が全て解けたのです。

 その結果、私は数学で120点満点のうち118点を取り、

なんと総合点で学年で1番の成績を取ったのです。

 びっくりするやら、嬉しいやら・・この時の気持ちは今でも忘れられません。

しかし、更にびっくりしたのはこの時、実は私達2年生の他に

1年生も同じ模試を受けていたのです。(3月の試験ですので3年生はいません・・)

そして衝撃が走りました。その1年生の一人がなんと数学で120点満点を取って総合点で

1学年上の私を上回っていたのです。なんということか・・・

その人物の名こそ「四戸」という苗字を持つ人物だったのです!!!

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こんな半世紀以上も前の事、しかも一番暗い受験時代?と

四戸さんが結びつくとはトホホ・・・

次回こそ、その四戸の謎解きに辿りつけるかな((笑)・・・続く