吉村文彦博士が1月に亡くなって、5か月が経とうとしている時、
私の最後の岩手での職場であった県立大野高校から電話があった。←県立大野高等学校
現在の学校の事務長さんであるS本さんからであった。
S本さんは女性で私の頃は県立高校の事務長に女性はいなかった。
Sさんは私の電話番号を私の知人から聞いてかけてきたという。
その用向きは岩手日報の宮古支局のT葉さんという記者が
吉村先生が岩泉でマツタケ研究所の所長として15年間貢献され、今年の初めにお亡くなりになったので、岩泉の森林組合や当時の関係者を取材してその追悼記事を書く中で、
私にも当時の事を聞きたいので電話番号を教えて欲しいという事だった。
事務長さんは律義にも「彼にその番号を教えても良いか」という伺いであった。
私は二もなく快諾した。そしてT場記者さんと電話がつながり吉村先生の思い出やその実績などのエピソードを話し合うことが出来た。
私はメールの添付で当時の関係資料や写真を提供した。
特に二枚の写真は吉村先生と大野高校の深い関係を物語るものだと思って選んだ。
↑この写真は2005年9月30日 マツタケ収穫祭に向かう3年生と吉村先生の笑顔
↓
新聞掲載は、6月6日(日)この様に、マツタケを持って喜ぶ博士の写真が選ばれた。
T葉記者さんから新聞が送られてきたのは6月9日(水)であったが、その前に次男の嫁さんのお父さんであるA沼さんから、6日の朝、電話がかかってきて私の名前とマツタケの写真が新聞に載ったというお知らせがあった。T記者さんから電話取材を受けたのは5月25日(火)であったので6月4日(金)にメールでいつ掲載されるか尋ねたところ、間もなくと
いうので期待していたがA沼 さんからの一報でやっと掲載された事を知って嬉しかった。
A沼さんは有難い事に私に関係した部分の記事の内容を℡で読み上げてくれたのである。
さて、その後これまた有難い事に盛岡の姉様からスマホでその記事の写真が送られてきたのである。
最近始めたばかりのスマホでこのような写真送付もできる姉様にびっくりすると共に感謝申し上げたい。
また、親友のhamaさんからもこれまた精密な新聞記事のコピーが送られてきた。さすがにこれで記事全文をしっかり見ることが出来た。これまた感謝します。
更に次男の俊輔も同様に送ってくれたのである。
・・・(hanaさんからの写真は実に鮮明で、これだと思ってこのブログに添付しようとしたが不可能だった。容量が大きい凄いものだったのである。次男の俊輔のメールの写真を
同様に操作してみたらこれはこの様に画面に取り入れる事が出来たのである。)・・・
改めて、スマホやパソコンを使うと、神奈川と岩手という離れた地域に住んでいても
今はこのように即座に交信ができる時代になったことをしみじみと感じた。
しかし、一方、掲載された二日後に奥州市水沢の友人の石kawaさんから郵便で
その記事のコピーが送られてきたのである。これは実にあり有難い事であった。
これこそ前のブログでふれたアナログの堅実さを確信した思いであった。
この様にそれを即座に、掲載二日後にはその詳細な実物が届く手配をして頂いた
石kawaさんに深く感謝申し上げます。
これをコピーして早速、吉村先生の奥様智恵子さんと歎異抄のお師匠さんである
一関のO橋先生に送付することも出来たのである。(今日あたり届いていれば幸いである)
この記事はこの様にブログにコピーできたが
T葉記者さんが書いた内容は
吉村先生が岩手を離れる事がどんなに悲しいことであったか、
またもし、そのまま、岩手で活躍されていたら、
マツタケの生産がもっと大きな成果を上げた事であろうと偲ぶ素晴らしい内容であった。
改めてこのように吉村先生の事を取り上げて岩手県民に報せて頂いた
岩手日報宮古支局 T葉記者さんに深く感謝申し上げます。
最後に、こうした新聞掲載によって岩手を離れて12年も経つ私に岩手の親戚友人からこのような有難いメールや電話等でのお励ましを頂いた事にこれまた、深く感謝申し上げます。
↑まだ本体が地上に出ていないマツタケ 2005年9月30日 大野高校マツタケ山で