千葉の鉄道、そして Now & Then

千葉の鉄道、そして Now & Then

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 1330)

 

 

の続きです。

 

 日立電鉄に続いて、筑波鉄道(土浦~筑波~真壁~岩瀬)の記録です。

 その前からいつか来ようと思っていたはずですが のびのびになっており、やっと来れたのが営業最終日となってしまいました。きしくもその日は日本国有鉄道の最後の日。

 おおいに迷いましたがどちらも捨てがたいので、「二刀流」でどっちも行くことにしました。

 昭和62年3月31日に訪問。

 

 早朝に東北本線 栗橋~古河で、国鉄からJRへの橋渡し夜行団体列車(全国の新会社に向けて 東京(国鉄のお膝元)から6本運転)のうちの、「こんにちはJR北海道号」(ふれあいみちのく使用)への送込み回送を待ち、撮れなかったものの その後昼前に筑波鉄道へやってきました。

 

 1987(S63)年3月31日 10:47 筑波鉄道 常陸北条~筑波で 

 下り土浦発岩瀬行 キハ821+761←土浦方

 キハ821は国鉄キハ17系(キハ10)の払い下げで 元キハ10 47です。裾部の大きなステップ部 外板の下方への出っ張り、バス窓などが特徴。

 このキハ820形(元キハ10形)は筑波鉄道にはこの1両しかありませんでした。

 

 同、後追い キハ761

 特に撮影地の情報は持ち合わせてはいなかったのですが、筑波山をバックに撮れそうなこの区間を地図からみつけ やってきました。

 キハ761は キハ20形似ですが、もと雄別鉄道のキハ49200形です。タイフォンが高い位置にあるのが道産子らしいです。雪を避けるために。

 小湊鐡道のキハ200形にもそっくりな、いわゆる日本車輛製造のプロトタイプ車。屋根が銀色で素晴らしい。キハ761~763の3両が在籍。

 

  同、後追い キハ761。地元の人たちも最後とあって見に来ています。

 

 同、後追い キハ761。

 この直線の先の左カーブを曲がったその先に筑波駅があり、駅前から筑波山に登る路線バスが発着していました。筑波山ロープウェイの乗り場へ行く「つつじが丘行き」(=東側の女体山登山)と、筑波山鋼索鉄道(ケーブルカー)の乗り場へ向かう「筑波神社前(宮脇)行き」(西側の男体山登山)がありました。(今でもありますが始発は )

 

 どの列車にも借別のマークが付いていました。前後とも。

 「さようなら 筑波鉄道 ありがとうございました」とあります。

 

 先ほどの下り岩瀬​​​​​​​行と 筑波駅で交換してきた上り土浦行き単行。

 1987.3.31 10:53 キハ301 筑波~常陸北条

 こういう筑波双耳峰バックの写真を撮れて やはり来た甲斐がありました。これは西側の男体山。

 このキハ301はもと国鉄のキハ30 16で、筑波鉄道廃線後は、まだ若かったせいかロングシートがマッチしたのか 関東鉄道常総線水海道機関区に転籍してゆきました。そちらでは一時青緑色に塗装されて、水海道の留置線で初めて見たときはショックをうけました。(似合わない!!)

 

 南下して11:02に常陸北条着。この 11:07発の上り臨時2連が「さよなら列車」でした。

 たぶん筑波駅での情報で分かったのかと思います。いいタイミングでした。

 

 

 キハ504+503←岩瀬​​​​​​​方  常陸北条にて

 おや、小坂鉄道のキハ2100形によく似ているな・・。

 

 「71年の長い間 ありがとうございました」とサイドにペイント。緑色の山は筑波山にまちがいないです。

 

 このキハ500形はセミクロスシート(ドア間はクロスシート)を備えていて筑波鉄道のエースと言えるでしょう。1959年日本車輛東京支店(蕨)製の両運18m車で、キハ503~505の3両がありました。そのうちの 504と505は空気バネだったそうで、おそらく急行「つくばね」(=土浦~筑波間に運転され、同区間ノンストップだった)にも使われたフラッグシップ車。

 ↑のこちら側はキハ503で、ごらんのようにコイルバネ車です。

 

 

  去ってゆくさよなら列車 キハ500形2両 キハ504+503←岩瀬​​​​​​​方

 名残惜しさもひとしお。

 脇には常陸北条駅下り場内信号、灯火式です。

 

 (次号へ続きます)

 

 

 

 1332)

 

 

の続きです。

 久留里~上総亀山間 臨時延長の第1便9925Dが2両でやってきました。この日は金曜、平日は1両のはずですが、実際は2両でした。

 

2025.12.5(金) 9:15 925D~久留里から9925D 

 久留里~平山

 木更津8:20→9:06久留里9:10→9:29上総亀山 

 キハE130-109 +同108←キサ方  

 

 

 

 9925D後追い

 

 ↑この画像には2か所ヒミツがあります。

 ヒント: ホーム 鳥居

 落葉して木々がスカスカになってきたので よ~く見るとわかりますかね

 この後の訪問で答えはわかると思います。

 

 

 上総亀山から折り返しの上りまで40分ほどあるので、平山駅にやってきました。

 

 

 イチョウの落葉がすすみ、ここの駅前も黄色いじゅうたん

 

 臨時延長の時刻表。

 土休日だけではなく、平日も含めて16日間毎日運転のようです。イベントとしての「駅からハイキング」とはあまり関係が無いような。亀山湖付近の紅葉目的の「紅葉臨」というのが実態かも。

 

 平山9:57 9930D~930D 

 上総亀山9:45→10:03久留里10:06→10:48木更津

 キハE130-109 +同108→キサ方  

 

 

 

 お出かけとは逆方向なので乗車は無し、と思いきや、4~5人の乗車はありました。地元の客かと思われます。

 お出かけ方向は この前の下り9925Dなのですが、そちらは上から撮ったので車内のようすはわかりませんでした。

 

 ↑定期列車の全時刻表

 

 スタンプ収集は リアル押し➡デジタル化でスマホに収集➡エキタグアプリ、と変わってきています。なんかつまらないなあ・・・。

 

 ではまた。

 

 今後の存続が不安視されている久留里線の末端区間 久留里~上総亀山間 9.6Km。

 2012年12月に キハ30・37・38形から E130形に置き換えられて 早13年にもなります。

 その後 2014年3月のダイヤ改正で、日中の久留里~上総亀山間(いわゆる末端区間)では大幅に列車が間引きされてしまいました。木更津発着の終日約1時間ヘッドというのは ほぼ変わりません。

 具体的には、それまで木更津~久留里間の区間列車は日中には3往復しか無く、その他はみな上総亀山まで運転されていましたが、2014年3月改正以降は、データイム(久留里場面で9時頃から16時半ごろまで)には1往復しか上総亀山まで入ることが無くなりました。

 久留里発下りは、8:15発の次は 13:50発、16:40発。上総亀山発上りは8:48発の次は14:27発、17:15発となり、そのインターバルは 5時間35分(下り)、5時間39分(上り)という、通勤通学だけにきわめて特化したダイヤとなってしまいました。

 これは撮り鉄にとっても足が遠のくような状態でしたが、今年の11月22日(土)から12月7日(日)までは、紅葉シーズンと「駅からハイキング」にあわせて日中に大幅に増発されています。かつての約1時間ヘッドの(期間限定)復活です。いずれも木更津~久留里間の定期列車の臨時延長です。

 列番 木更津→ 久留里→上総亀山

9925D 0820→0906/ 0910→0929

9927D 0916→1002/ 1007→1025

9929D 1111→1156/ 1200→1219

9935D 1400→1445/ 1448→1507

9937D 1500→1544/ 1548→1606

 

 列番 上総亀山→久留里 →木更津

9930D 0945→1003/ 1006→1048

9932D 1040→1058/ 1105→1147

9934D 1233→1251/ 1255→1337

9940D 1526→1544/ 1547→1629

9942D 1620→1638/ 1644→1726

 

 ↓朝の上総松丘駅。

光線悪いですが、いちょうの落葉がまさにじゅうたんのよう。

 

 

 

 まずは、朝方の定期列車で上総亀山まで入る最終の923D、上総松丘8:25。

 この20分ほど前までは、ここはまだ山の蔭で、影が落ちており暗かったです。みるみる日が差していい光線になりました。

 

 

2025.12.5(金) 8:25 923D 木更津7:25→8:33上総亀山 

 下り2番列車です。

 キハE-130-107 同110 同104←木更津方

 

 

 923D後追い。松丘を発車してゆきます。

 (なお、上総松丘の駅前・駅舎・イチョウの撮影はこの923Dの後です。クルマは県道410号線の東側の空き地(バス回転場のわき) に止めておいて923Dを撮った後、起点方の踏切からまわってゆきました)

 

 このあと、浦田へ移動。しかしかつての有名撮影地もススキが大きく広く伸びてしまい全くダメダメ。代替案として 跨線橋の上から928D(923Dの折返し)をねらいました。

 

 

 928D後追い

 撮影者は皆無だろうと思っていましたが、年配の同業者が1名いらっしゃいました。

 

 928D後追い

 浦田の踏切付近はご覧の状態です。こう見るとススキがきれいなのですが。

 少し先の鉄橋も 草木が大幅に茂ってしまい、近くに行き着くことさえできませんでした。行き止まりに突っ込んだクルマをバックさせることも きわめて慎重にしないと脱輪してしまいます。ヒヤヒヤものでした。あそこには行かない方がいいですね。

 この後、当該の臨時が久留里で交換して下ってきます。

 

 (以下、続きます)

 1330)

 

 

の続きです。

 

 オロ81系 お座敷「ふれあい」9410レは行ってしまいました。

 できれば追いたいところですが 常磐線は高速。よほどのバカ停でもない限り,それは無理。営業中なので乗客が乗っており停車は少なかった。

 それまで、品川の旧型お座敷81系は何度か撮りましたが、水戸座はたしか成田臨で一回撮ったかな?という程度。

 

 名残惜しく見送った記憶が 写真を見るとよみがえります。

 EF81 55(田)=田端 牽引の9410レ(再掲)

 常磐線の電機は、国鉄時代(しかもS50には年代ごろ?まで)には内郷機関区(内)所属でした。平(のちのいわき)の手前に所在していたと思います。

 EF81でなく 内郷のEF80なら 千葉県では佐倉まで、新小岩経由で来ていました。

 (以上の2枚 再掲でしたね。話の流れでこうなりました、スミマセン)

 

 旧型客車のお座敷「ふれあい」の余韻にひたっていたら 突然、単機回送があられました。1989.10.17 10:06 DE10 1126 (宇) 下り単回。

 さてどこへ向かうのやら?訓練?

 

 10:18 433M後追い 上野7:54→10:56高萩 415系4連 勝田車

 

 10:29 1049Mひたち109号 上野9:00→10:19水戸10:20→12:30原ノ町  

 佐和~東海

 

 1049Mひたち109号 

 後追いですがこちら向きが順光。

 

 10:31 630M 平9:11→11:41土浦

 クハ411-1604 M'M-1504 クハ411-1504←平方

 

 10:35 EF81 57の上り貨物 列番不明

 

 10:36 641M 水戸10:24→11:51平 453系6連

 

 10:51 1056Mひたち116号 クハ481-12 

 仙台7:51→10:59水戸11:00→12:14上野(16番線)

 Tc481-17・・・・Tc481-12→上野方

 

   (以下 続きます) 

 

 

 

 1329)

 

 

の続きです。

 大橋の架道橋(196m) から終点方(西側)へ移動してきました。

 

 1989(平成元)年10月17日 8:48 モハ14単行 常北太田発鮎川行き 

 常北太田~小沢の里川橋梁(158m)にて

 

 

 モハ13形はモハ13~16の4両ありました。

 もとは、昭和10年汽車会社製の気動車キハ1000形1001~1004です。

 相模鉄道茅ヶ崎~橋本間(現JR相模線)に配置➡買収により 旧神中線横浜~海老名間に移籍され電動車化、モハ1001~1004に。のちに改番されデハ1051~1054となりました。

 神奈川中央から日立電鉄への入線はS23(1948)年。S30年7月ビューゲル化、S35年にパンタ化。S40年2月に車体更新(流線型から切妻型に)、S46年8月にワンマン化。

 このモハ14は、たどるともと相模鉄道のキハ1002です。出入口のステップが残っています。

 

 1989.10.17 8:56 モハ16下り常北太田行 小沢~常北太田 

 先ほどの上りはがらがらでしたが、この下りは 園児の遠足らしく車内は赤白の帽子で一杯です。

 朝の雨があがり、遠足には好適日になりました。

 

 

 立ち客も多いです。増結対応できなかったのかな・・

 

 

 データイムはこのように単行か 2連ばかりでした。しかし本数はそこそこ多かったと思います。ちなみに上り鮎川方面の平日の時刻を記しておきます(1991.6.20訂補)

 常北大田 ➡ 鮎川

  0541 → 0616

  0624 → 0700 

  0638 → 0717 

  0653 → 0734

(大甕0726発)➡0740

  0709 → 0751

  0722 → 0800

  0737 → 0809

  0805 → 0844

  0851 → 0929

  0930 → 1008

  1005 → 1052

  1052 → 1142

  1142 → 1222

  1222 → 1259

  1249 → 1328

  1328 → 1407

  1407 → 1445

  1445 → 1524

  1512 → 1557

  1557 → 1631

  1629 → 1701

  1701 → 1734

  1736 → 1812

  1812 → 1852

  1853 → 1931 以降 略。

 

 この日、付近の常磐線にて団臨の予定がありまして、当時はもう引退間近とみられていた旧客の81系「ふれあい」が上る!!とわかっていました。その後は茨城交通にも行きたいので、その中間付近ということで、佐和~東海間に移動してきました。

 

 1989.10.17 9:28 429M(後追い) 上野7:03→10:07高萩 

 貴重な453系9連です。

 もともと東北・常磐線系統の急行列車用でしたが、急行急減後は 一部の普通列車にのみ運用されていました。当時は453・455系は水戸以北を中心にそこそこ残っていたのですが、6連とばかり思っていたので向こう側の先頭部がホントかつかつ。

 佐和~東海で。

 

 9:46 1004M スーパーひたち4号 

 平8:49→9:50 勝田 9:54→11:12 上野

 勝田までG車付き7連、勝田で後部にモノクラス4連(8~11号車)を増結します。

 

 10:01 9410レ EF81 55+81系旧客お座敷「ふれあい」(水ミト車)

 奥の方に東海駅の場内信号機が見える地点です。

 

 テールサインは 下側2/3が黄緑、上側1/3が水色の地色。絵柄は下側がデザイン化された人型6人、上にひらがなで「ふれあい」とあります。

 このころは憧れだったグリーンの帯(実際には青緑色)が健在でしたが、のちに残念ながら 他車も含めて帯は廃止されてしまいました。81系お座敷客車も末期で、私が撮れたのは たしかこれが最後となりました。

 

 

 (以下、次号へ)

 

 

 

 

 1328)

 

 

の続きです。

 平成元年(1989年) 秋の日立電鉄 大橋~川中子(かわなかご)間の大橋架道橋

 

 1989.10.17 7:34 上り鮎川行  

 この前の上りからわずか13分の続行で次発が来ました。地方ローカルとしては破格の頻度がうれしいです!それだけ常陸太田市から日立市への通勤需要はあったのでしょう。

 モハ11+モハ1301→鮎川方 

 モハ1301は 昭和4年東洋車輛製宇部鉄道(現JR宇部線)モハ21形モハ22→S18年国営として買収されてモハ1301に➡国鉄富山港線へ転属➡国鉄から譲渡 S32年11に日立電鉄へ。

 日立電鉄入線は、国鉄富山港線からS32年11月ですが、相棒としてクハ5301 が一緒でした。S34年には モハ1302+クハ5300 も富山港線から入線しましたが、そちらは先に S54年12月に廃線となっています。

 モハ1301入線時の相棒-クハ5301 もS60.2.28に廃車となり、モハ1301は両運化・ワンマン改造されて、このときは両運のモハ11とペアを組んでいました。

 

 モハ1301。まだ暗く 流してみました。

 

 モハ11(後追い)

 

 

 どうせ どん曇りならば、と東西方向の大橋の北側へ。

 こちら側に立つと、大橋駅への下り坂がインカーブから撮れました。

 

 7:47、またもや13分で 続行の上り鮎川行きが来ました。

 7:22に見た常北太田行の折返しで モハ1009+クハ2504←常北太田方  

 あとで調べるたら、常北太田発の場面で、6:24発から7:37発までに6本の鮎川行きが発車します。うち2本は休日運休。さらに大甕7:26始発鮎川行きの区間便(休日運休)もあり、鮎川7:00着から8:09着までの通勤時間帯に 7本もが鮎川に到着します。乗客は日立製作所 および関連会社への通勤客と思われます。

モハ1007~1009は小田急→相鉄の荷電からの改造。

 

 モハ1009+クハ2504←常北太田方(後追い)

 

 7:49 常北太田行3連 モハ1001+モハ1006+クハ2501→常北太田方

 3連・4連はたぶん日中は見れなくなると思い おのずと気合いが入ります。クハ2501の顔はまるで国鉄キハ17。

 

 クハ2501

 もと S11(1936)年川崎車輛製 東京横浜電鉄(現東急東横線)のガソリンカーキハ1形キハ4。神中鉄道➡大東急クハ1122➡相鉄クハ2501、という由来(相棒は五日市鉄道経由)で、 S35年11月に日立へ入線しました。内燃車由来の、車体下部のライン(出入り口が低い)に注目。

 

 7:49 太田行3連の最後尾モハ1001 

 小田急小田原開業時のモハ1形で、昭和2年日本車輛製 ➡大東急➡相模鉄道、と流転してきて、今ならレジェンドといえるでしょう。クラシックで重そうな台車。

 

 モハ1001+モハ1006+クハ2501→常北太田方(後追い)

 

 大橋の東側、茂宮との中間付近へ移動してきました。

 目の高さから、国道6号線の跨線陸橋に登ったものと思われます。

 大和田町~大橋方(下り常北太田方)を望みます。

 

 8:16 常北太田行(後追い) クモハ110+クハ109←鮎川方 

 S40年8月静岡鉄道長沼工場製。 茂宮~大橋国道、国道6号線の陸橋から

 当時を思い出すと、これが来るとちょっとがっかりなのでした。サイドなんて113系に酷似だし・・。

 

 8:20 鮎川行  7:49に見た常北太田行3連の折返しです。 

 クハ2501+モハ1006+モハ1001→鮎川方  大橋~茂宮で。

 

 

 

 ラッシュ時間帯終了とともに、もう3連は見納めかもな・・・と思いがこもります。

 

 常北太田~小沢間の里川へ移動。ここなら単行ばかりでもなんとかなるかも・・

 急速に青空が広がります。雨雲の最後のフチが長ーい直線状になっていて空を二分しており、それがみるみる東方へ引いてゆきました。

 

 8:48 モハ14単行 上り鮎川行き 

 常北太田~小沢の里川橋梁 (158m) にて

 通勤時間帯が終わり、単行が多くなりました。 

 

 (以降、続きます)

 

 

 

 

 

 

 

 1326)

 

 

の続きです。

 2回目の日立電鉄訪問です。

 クラシックな愛すべきゲテモノ(?)たちに惚れ込んでしまい、雨の常磐自動車道をAM4時~5時台にやる気満々でとばしてきました。天気は回復しそうだ、という予報を信じて。

 日立南太田IC.を降りた時にはまだかなり暗くて 雨・・・。

 

 1989(H元)年10月17日 6:05大橋にて。常磐自動車道 日立南太田ICから5~6分だったと思います。 

 モハ12 下り 常北太田行 

 まだ暗くて、停止状態でないとブレます。よって後部は撮りませんでした。

 

 6:18大橋で。 モハ14。

 出入り口・改札口は上りホーム側にありました。

 

 同 モハ14の上り 後追い撮影。乗客結構乗ってます。

 

 6:50 100系クモハ110+クハ109→鮎川方 

 元静鉄車で静鉄のままのナンバーです。 静鉄時代はMc+Mcでしたが、クモハ109は電装解除されクハ109となりました。

 静鉄時代のワンマン装備(バックミラーなど)は撤去されましたが、他はそのままです。色は入線当時は 銀色にブルー帯の静鉄カラーでしたが、さずがにもう塗り替えられました。

 S40年8月 静岡鉄道長沼工場製で、棒連結器で結ばれた2両固定編成。日立電鉄入線は S54年12月。同じ静鉄100系は熊本電鉄へも譲渡され、熊本500系、モハ600形となり熊本の顔となりました。

 

 6:51 モハ11+モハ1301←鮎川方

 大橋駅を望みます。さっきの100系とはここで交換で、100系も向こうに発車してゆきます。

 

 6:51 モハ11+モハ1301←鮎川

 

 6:51 モハ11+モハ1301←鮎川方(後追い)

 

 7:07  モハ1004 モハ1002 サハ1501 モハ1005→鮎川

 小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)が昭和2年に小田原まで全通した時の モハ1形(区間運転用のロングシート車で 全18両)日本車輛製。

 改番でデハ1100形へ➡東急との合併(大東急時代)でデハ1150形へ➡相模鉄道モハ1000形へ➡小田急残存車ともに S35~39年ごろに 10両が日立電鉄に集結しました。

 

 モハ1005他

 この4連が日立電鉄での最長編成。朝はこの上り一本しか走りません。夕夜間もおそらく下り一本のみ。

 

 7:07  モハ1004 モハ1002 サハ1501 モハ1005→鮎川方 (後追い撮影)

 

 

 7:07  モハ1004 (後追い撮影)

 

 7:21 クハ2503+モハ1007→鮎川 

 モハ1007~1009は小田急→相鉄の荷電でした。中央扉がその証拠。

 一本前の4連から14分しか経っていないのにもう次発の上りが来ました。

 

 7:21 クハ2503+モハ1007→鮎川 (後追い撮影)

 

 7:22 クハ2504+モハ1009←鮎川 

 さっきの鮎川行と同形車がたまたま来た。 

 モハ1007~1009は小田急→相鉄の荷電でした。続けて出会えてうれしい!!

 

 7:22 クハ2504+モハ1009←鮎川方 (後追い撮影)

 モハ1009は、もと荷電の大きな2枚扉が中央にど~んと。

 

  (以降は次号へ) 

 1323)

 

 

の続きです。

 1991(平成3)年の冬-2月に訪問した鹿島鉄道ですが、その前の1989年の秋にも訪問していました。時系列としてはこちらが先になりますが、秋の鹿島鉄道をごらんください。好ましい風景、歴史あるディーゼル車たち。

 

 1989(平成元)年10月17日 15:09 下り鉾田行き 榎本~借宿前で

 キハ715+714←石岡方 

 この前は早朝から日立電鉄、昼前に常磐線の81系旧客お座敷列車「ふれあい」など、昼過ぎからは茨城交通湊線を撮ってきました。充実した日の午後ですが、さらに鹿島鉄道にも寄れました。茨城県はローカル私鉄の宝庫でした。

 

 同じ列車を後追い撮影。

 玉造町駅から終点方へ榎本→借宿前→巴川と進むのは北西方向。午後には上り列車が順光になります。巴川→坂戸→鉾田 はほぼ真東に向かっていました。起点-石岡も含めると大きなV字型の線形、末端2駅区間だけが東西方向なのでV’’型というべきか。

 S28年に新製されたもと夕張鉄道車。炭鉱が衰退するとともにS46年11月に 栗山~夕張本町間廃止、S49年4月1日に栗山~野幌の旅客営業も廃止され、あまった8両の気動車は優秀であったことから 全国で引く手あまた。

 水島臨海臨海鉄道(岡山県)へキハ301・302・252・253の4両が、岩手開発鉄道へキハ201・202が譲渡されました。ここ鉾田線へもキハ251・254が譲渡されてきました。

 ↑左:キハ715(もと夕張キハ254)

  右:キハ714(もと夕張キハ251)

 キハ714は広窓。S28年製で、北海道初の液体式気動車。先取りで優秀だったためか国鉄の道内冬季テストにも供されたとのこと。道内の内燃化に大きく貢献しました。

 登場時の座席は固定クロスシートでしたが、S32年に夕張式のビニール張り転換クロスシートに改造されました。ビニール張り座席は、雪まみれの乗客が座っても簡単に拭くことができ、雪国独特のイメージ。

 途中から転換クロスに改造されたため、窓は固定クロス時代の広幅のままで一致しませんでした。S49年の鹿鉄入線後、S52年5月にロングシート化されてしまいました。

 

 キハ715(もと夕張キハ254)が細窓なのは、登場時があとなので、登場時から転換クロスで1脚に1窓だったから。やはり鹿鉄入線後にロングシート化されました。

 どちらも乗務員室扉は鹿鉄入線後に設置。さらに夕張独特のタイフォンも鹿鉄入線後に撤去されましたが、その他はほぼ原形のままです。

 できれば、雪国独特のビニール張り転換座席のころに、北海道を想いながら乗ってみたかったなあ・・・。

 

 

 先ほどの下り鉾田行きが戻ってきました。

 15:40 上りキハ715+714→石岡方 榎本~借宿前で

 玉造町~鉾田間は 11.4Km 所要21分(¥450)なので、ここから鉾田までは14~15分くらいでしょうか。ということは、鉾田3~4分で折り返してきたようです。

 

 

 上りキハ715+714→石岡方 後追いです。気動車なのに屋根が銀色ですばらしい!!

 

 ゆるい丘陵地帯から霞ケ浦の湖岸に移動。浜~玉造町です。

 

  16:18 下り鉾田行き キハ432単行 浜~玉造町で

 逆光に筑波嶺(つくばね=筑波山)が浮かびあがってきました。

 

 

 キハ432 (後追い)

 S47年6月に廃線となった加越能鉄道 加越線(石動~庄内町)から S48年3月に 5両が関東鉄道に譲渡されてきました。うち3両は関東鉄道常総線へ、2両が関東鉄道 鉾田線(当時)へ、です。

 S61年12月にワンマン化、車体更新されました。ちなみに常総線へ行った3両は、入線後まもなく大幅改造(車体乗せ換えなど)で姿が一変してしまいましたが、こちらのキハ431・432はほぼ原形をとどめています。

 夕張からのキハ714・715,三井芦別鉄道からのキハ711~713に似ていますが、前面窓の上下がやや低く、鉄仮面で「情」がうすい印象。

 このキハ432は、この1989年6月新製された新型軽量気動車 KR500形(501・502)に施された新色(白地にピンク&パープルの細線)と同じ色にのちに変わりました。

 

 

 1989.10.17 16:32 上りキハ711単行 玉造町~浜

 

 同列車 後追い

 バックに霞ケ浦と筑波山が望めます。

 ↑トリミングして電線をカットしてみました。

 

 

 以下は 時系列的には 1319)

 

 

に続きます。

 

 1325)

 

 

の続きです。

 日立電鉄の大甕駅、S63(1988)年6月14日。鮎川に向かいます。

 

 大甕で交換した常北太田行のモハ13形。12:54ごろ

 駅員氏(または車掌)の左足の向こうに、もと気動車ゆえのサイドの裾の欠き取りがわかり、乗降口にもステップがあるようです。もと気動車の相模鉄道キハ1001~1004のどれかで、経緯は1025)の記事をごらんください。

 モハ13~16の4両のうちのどれかですが、16は側線に、13は大橋で交換したので、消去法で14か15らしい。

 

 常北太田から大甕までは 田園地帯をゆっくり進むワンマン運転でしたが、ここ大甕からは鮎川行きにも車掌氏が乗車してきました。ちなみにワンマン運転のわが国初実施は、S46年10月1日からの日立電鉄だったそうです。

 周辺は、久慈浜あたりからは密集した市街地になっており、実際明らかに乗客も多くなりました。

 

 常磐線大甕駅の西側に隣接した日立電鉄の大甕駅でしたが、次の水木駅との間で再び常磐線を超えて東側へ移ります。3回も常磐線を超える(うち1回はくぐる)という不思議さですが、その理由は、大甕駅の東側に 水戸へ向かうための用地が確保できなかったためとのこと。

 常磐線の東側へ出てからは市街地のつまらない風景。大甕・水木・大沼・河原子(JR常陸多賀駅の東側至近)・桜川・起点駅-鮎川と進みます。

 そういえば、小山の方から水戸線経由で夏季臨快速で「かわらご」という列車があったっけな。栃木県方面から海水浴に行くには、河原子海岸が一番近くアクセスが良かったのかな?当時は大洗への鉄道はありませんでした。いまなら鹿島臨海鉄道が便利ですが。

 

 起点駅-鮎川に 13:07に着きました。ここにもいるいる・・・

 ↑鮎川のホームは島式1面のみ。そこに接して止まるは 乗車してきたモハ12(左)。

 この立ち位置あたりで下車したあと、モハ12はすぐに先の方へ移動してゆきました。その向こう側に1両止まっているのですが、それはナンバー不明。

 右はメモしそびれましたが、向こう側の車両の中央ドアが両開きの荷物室のようなドアなのでモハ1007~1009のいずれか。1008は大甕に居たし、1009はこのあと鮎川留置線で発見したので、これはモハ1007に違いない。

 その手前は深い屋根、2連窓の窓配置、少ないクハ車であることから、クハ2503らしい。クハ2500形は2503・2504の2両しか無く、クハ2504はあとで留置線で見つけたので。

 のちに資料をみたら、編成の組成はモハ1007+クハ2503(→常北太田方) とわかり、クハ2503で間違いありません。あとから特定できるのも旧型電車の楽しいところ。

 

 このクハ2500形、S11(1936)年川崎車輛製の東京横浜電鉄(のちの東急東横線)の流線形ガソリンカーキハ1形が元祖のクハ2501と、相鉄の荷電からの流れのクハ2503 およびクハ2504の2種があります。形状が違い、クハ2501はサイドが連窓ではない上、正面は貫通形でホロ付き。

 ↑この写真は サイドが2枚づつの連窓なのでクハ2501ではありません。

 

 クハ2503、クハ2504はそれぞれ出自が違い、日立クハ2503は もと青梅鉄道(現在のJR青梅線)モハ504→戦時買収で国鉄の一員に→S24年に相鉄へ→S41年 相鉄で車体新造乗せ換え→S50年 相鉄で改造(荷物電車化 電装解除) クニ2506に→相鉄でS52年に荷物輸送廃止→S52年日立入線 改番でクハ2503に。

 日立クハ2504は S34.7.31に国鉄で廃車になった国鉄クハ16 121 を相鉄がS35年に譲り受け車体更新したもの。そのクハ16 121は 省電(鉄道省時代)のモハ30 129→クハ化で クハ38 079→クハ16 121という歴史があります。

 相鉄入線で クニ2506と同様、S50年に荷物電車(クニ2511)となりました。相鉄でS52年に荷物輸送が廃止されると、クニ2506と同じく S52年に日立に譲渡されてきました。

 相鉄クニ2506→日立クハ2503、相鉄クニ2511→日立クハ2504 です。

 

 ↑起点-鮎川駅ホームから北側を見渡すと、先端部は行き止まりの留置線になっていました。右隅は乗ってきたモハ12ともう1両。中央がモハ11+クハ2504+モハ1009(=奥のほう メモから)

 左は手前がクハ2501らしい。サイドに回れないので正確に確認はできませんが、深い屋根、2連でない窓配置、貫通型のクハ車であること、ガーランドベンチレータの形状から クハ2501に間違いない。

 このクハ2501、S11(1936)年川崎車輛製 東京横浜電鉄(のちの東急東横線)の流線形ガソリンカーキハ1形のキハ4。

 変電所増強節約(不足)のため、キハ1形ガソリンカーは8両製造されたそうですが、ガソリンの配給制限により S14~15年に神中鉄道と五日市鉄道に譲渡。神中線(神奈川中央鉄道 横浜~海老名)ではキハ4からキハ2へ改番→S24年7月にクハ化 クハ1122へ→S26年10月車体改造→S35年11月日立電鉄移籍→S37年1月車体更新で鮎川側に貫通路設置。

 クハ2501に続いてクハ2502(=日立でのナンバーで もと相鉄クハ2504)も続いて S36年11月に日立へやってきましたが、そちらはS56年4月に廃車されました。

 

 鮎川駅の駅舎は海側に立地していました。

 右側に隣接して建物(社屋?)がありますが、その右側の線路末端のほうに留置線があるのが構内から見えていましたので、すぐに行ってみることにします。

 

 留置線の途中には踏切があり、並走する常磐線の西側まで続いていたと思います。

 ↑その踏切から鮎川駅方を見た場面。この向かって右手に常磐線が並走しています。

 

左:手前(北側)から モハ1009+クハ2504+モハ11→常北太田方  

 モハ1009は中央ドアが荷電のままの大型2枚ドア。

右:サイドが見えないのでナンバーは不明ですが、手前側は元小田急のモハ1形なのが確実。この奥が鮎川駅ホームで、そちらから次の車両はクハ2501なのがわかります(2枚前の画像参照)ので、これはモハ1001+クハ2501(→常北太田方)に違いない。

 

 このように モハ1001形は同じ形式といっても、サハ1501を含めると 形状から4つのグループに分類されます。1001~1003、1004~1006、1007~1009(中央が荷電の大型2枚ドア)そしてサハ1501。

 

 

 この留置線途中の踏切から北方を見るとさらに2本の留置線が延びており、常磐線寄りの1本に4連が。朝夕のラッシュ時のみに出動する4連らしい。サハを含む固定編成です。

 手前から モハ1004+モハ1002+サハ1501+モハ1005→奥の方北側(JR日立駅方)

 もと小田急モハ1形 全通時に新製された日本車輛 昭和2年製の雄姿!!

 歩き回ってメモりましたが、よほどの事がない限り解除されない4連固定編成です。これが走行する朝ラッシュ時にもう一度来なければ・・・。

 

 

 モハ1004+モハ1002+サハ1501+モハ1005→手前北側(JR日立駅方)

 向こうの2本は先に紹介した2本、右手には常磐線(複線)が並走します。

 

 これでおおいに満足し、JR日立駅まで歩くことにしました。

 ここは常陸多賀~日立の中間で、距離としては常陸多賀のほうが近いものの、日立駅へ向かう道の方が海岸沿いの1本道でわかりやすく、歩いていて気持ちよさそうなので。

 またこれら個性的な車両に会いに来ることにします。(実際 1年後と 3年後に再訪問しました)

 

 (以下、おまけです)

 

 この日、鮎川で撮影したあと、海岸通りを北へ歩いて JR日立駅までやってきました。

 当時は駅スタンプの収集にも凝っていて、さて日立駅ではどこにおいてあるのか?と探しました。

 日立駅は13~15両分はあろうかと思われる長~いホーム。出入口は両端にあり ホーム中央にはありませんでした。南端が海岸口で海側へ、北側が北口で山側へといった構造。間違えたら長~いホームをえんえん歩かねばなりません。スタンプは幸い海岸口(南側)にありました。

時間があったので、高萩の電留線を見て、さらにスタンプ設置駅である磯原、平駅(現在のいわき駅)まで行き、上り特急で戻ったと思います。

 

 高萩の電留には 特にめぼしい車両は無く、そのときに上って行った「ひたち28号」を撮影↓ 

 高萩14:22

 上野寄り1号車 クハ481-311

 

 ↑ひたち28号 (後追い) クハ481-36 高萩で

クハ481-311 (1号車)  水カツ K編成

モハ484-49

モハ485-49

サロ481-1007

モハ484-37

モハ485-37

モハ484-59

モハ485-59

クハ481-36 (9号車)

 

 (以降 次号へ)

 

 1324)

 

 

の続きです。

 S63(1988)年6月14日、日立電鉄に初乗車。鮎川に向かっています。

 

 日立電鉄の最初は、大甕から久慈方(南方で、後の久慈浜。JRでいうと大甕~東海の中間付近)へ 昭和3(1928)年12月27日に開業した常北電気鉄道。

 江戸の時代から、城下町として、また水戸黄門(水戸光圀)ゆかりの地として古い歴史をもつ太田市は、常磐線(当初は日本鉄道)が水戸~平間を海岸線沿いを通過するように開業してからは、にわかに廃れはじめていました。そこで劣勢を挽回すべく、太田市から常磐線の大甕・日立付近に連絡する目的で常北電鉄は開業しました。太田から水戸方へは先に水戸鉄道(のちの水郡線太田支線)が開業していたものの、太田から日立・いわき・仙台方への連絡も重視されたようです。

 建設は大甕から久慈へ→続いてS4年3月12日太田市(常北太田)まで開業、その後 S22.9.1に 大甕~河原子(日立多賀付近)~鮎川開業へ、と伸びたので、終点は常北太田、起点は当初大甕でしたが、のちに上り方へ伸びたため鮎川となりました。大甕~鮎川間の建設目的は 戦時中の日立付近の軍需工場への従業員輸送。太平洋戦争後期には建設が中断されたものの、終戦後 S22年に早々に鮎川まで開業できたのは日立製作所の意向(日立市から水戸市までを自社および関連会社の工場で埋め、そこを高速鉄道でつなぐという夢)があったということらしいし、朝鮮戦争特需・工員輸送も見据えていたものと思われます。

 

 終点駅-常北太田駅を南南東方向に発車し、じきに左カーブ。すぐ市街地をぬけ 川(里川)を渡ったと思います(このへん記憶が薄い)。4駅目の大橋で常北太田行と交換、常磐自動車道をくぐり田園地帯をのんびり南東方向へ。

 大橋・茂宮・南高野と過ぎると JR常磐線をせまい切り割りでくぐり常磐線の海側へ。急な左カーブそして坂を登ったところに久慈浜駅がありました。

 日立電鉄の拠点駅のようで、検修設備や車庫があったように思います。

 久慈浜駅は島式ホームの交換可能駅でした。 

 

 

 久慈浜を発車してすぐに車窓から後方を振り返った場面↑。奥の方が常北太田方。

 左はモハ7(日立製作所で 昭和17年以前製?)で、このあと じきに廃車となったようです。

 右はナンバー不明(正面に表記が無く サイドが見えないとわからない)ですが、おそらく前面形状からモハ13形(13~16)のどれかのようで、とすると もと相模鉄道の気動車キハ1000形(キハ1001~1004)でS10年10月汽車会社製です。

 車庫の向こう側には検修施設があったような。

 

 久慈浜の次が JR乗換駅でもある大甕おおみか

 久慈浜は常磐線の海側でしたが、大甕のすぐ手前で常磐線を乗り超えて、大甕駅のすぐ西側にホームを構えていました。

 乗っていた鮎川行きは12:49着-12:55発と6分停車。その間に西側の側線にいる留置車両を見学↓

 

 乗車中のモハ12から乗り出して見ると、山側の側線はこんな光景(留置車両)が。

 右側が単行のモハ16、その左が手前(太田方)よりモハ1003+モハ1301と、ちょっと離れて 線路の先にモハ1008(この写真には写っていない)。

 その左にちょっと見えるのは2両編成ですがナンバー不明。

 

 モハ16。モハ13形(13~16)の一角。

 昭和10(1935)年10月汽車会社製の相模鉄道気動車キハ1000形1004。相模鉄道茅ヶ崎~橋本間(現在のJR相模線)で気動車として運用→電動車化されモハ1004となり、神中(神奈川中央)線横浜~海老名間(現在の相鉄相模本線)で活躍→のちに改番でデハ1054に。S23(1948)年1月に4両まとめて日立電鉄へ入線。

 もと気動車とあって 出入口部にはステップが残り、車体のすそ形状は気動車のままです。それが目立つ特徴となっています。

 

 右:モハ16、中央:モハ1003、左は不明。

 中央のモハ1003は、日立電鉄ではモハ1001~1009とサハ1500形サハ1501とで10両の大所帯をくんでいます。

 このグループ、なんと小田急が全通時の昭和2(1927)年に日本車輛製造のもと小田急モハ1形で、デハ1100形に改番→東急との合併(S17からの大東急時代)でデハ1150形に(1947年)。相模鉄道は大東急の委託経営下にあったとのことで、相模鉄道に入線→委託経営解除後も相模鉄道に残って 相模モハ1000形になりました。

 小田急残存車は小田急デハ1100形となり、のちに小田急に残ったデハ1101だけは S33にデニ1101となったほか、熊本電鉄や日立電鉄に移籍となりました。小田急から相模鉄道を経由して日立に来たモハ1001・モハ1002・モハ1003・サハ1501と、先に小田急から直接日立に来たモハ1004~1006(日立入線時にはこちらが1001~1003だったが改番)と日立で合流となりました。京福鉄道福井支社にいたモハ271~273は同じ仲間でした。

 小田急の荷物車モニ1007~1009も同じ仲間でしたが、小田急の荷物輸送が S52年に廃止されたあと、S54年4月に日立入線でモハ1007~1009となり、旧小田急1形の全18両中10両が日立電鉄に再結集しました。

 

 ↓右:モハ1003、端正で大窓の素晴らしい姿。開業当初の小田急 元モハ1型がここに居たとは!!しかもバリバリの現役!

 左は不明

 

 ↑中央がモハ1301、左はモハ1003、離れて右端はモハ1008。

 中央のモハ1301は1両のみの孤高の存在。

 S4(1929)年 東洋車輛製の宇部鉄道(現在のJR宇部線)車で、宇部鉄道時代はモハ1301+クハ5301というペアを組んでおり、日立入線はS32年11月。ただ宇部から直接日立へ来たわけではなく、日立入線前には国鉄富山港線にいて、直流電化の富山港線からやってきたとのこと。

 その2年後(1959年)には同僚のモハ1302+クハ5300も日立にやってきましたが、あとから来たモハ1302+クハ5300は S54年12月に廃車されました。またペア相手のクハ5301も S60年2月28日に廃車となっています(クモハ351+クモハ352入線時の代替え廃車)

 ペア相手クハ5301を失ってからは S60年3月に両運化改造、ワンマン化されました。こちら太田方が増設貫通ドアです。

 国鉄買収前の宇部鉄道時代のナンバーは、モハ22(後のモハ1301)+クハ11、モハ24(後のモハ1302)+クハ12。

 

 

 ↑大甕駅西側の側線。西寄りから2本目の北寄り末端に押し込まれていたモハ1008。

 中央部の大きな両開きドアが目立ちます。そう、コレ 元荷電で、日立電鉄に来てからは普通車になったのでした。

 昭和2年の小田急小田原線全通時に製造された 日本車輛製ロングシート車モハ1形が元祖。小田急モハ13~15→デハ1113~1115→小田急と合併した大東急時代に東急デハ1163~1165に(1942年)→ 東急管理下の相模鉄道へ入線,相鉄デハ1163~1165に(1947年)→→委託経営解除後の相模鉄道モハ1000形1007~1009に(1964年)→1965年荷電に改造でモニ1007~モニ1009に(1965年)→1979年に日立電鉄転入モハ1007~1009 という経緯。

 相鉄モニ1007~1009は、1975年に相鉄にモニ2000形が登場してからは入替え車となっていましたが、1979年に日立電鉄入線時に客室化、片側の運転台が撤去されました。

 サイドの大きな両開きドアがどのように開くのか見ものですが、実際は片側しか開かないようになっていたそうです。(寺田裕一氏の文献より)

 

 右:モハ1008(元 相鉄の荷電モニ1008)この先 右への線路は行きどまり。

 左:モハ1301

 大甕にて。

 以降、鮎川への旅は 次号へ続きます。