西郷菜の花


図書館の書棚を見ていましたら、『道草』の復刻本がありました。こうした復刻本が以前、流行っていたようですね。手にしてみますと、見た目は分厚いですがこの『道草』は、434ページ程ですから一枚紙の厚さが厚いから本全体が大きく見えるのです。


復刻本は、大正四年に出版されたものを復刻したようです。こうした当時の旧仮名遣いや旧漢字は、とてもレトロなムードがあって読む楽しさを読者にもたらしてくれます。とくに、漱石のような静的な作品にはこうした雰囲気がないと読むのが辛くなります。現代仮名遣いや、新漢字では味気ないですね。


前回の小説である『三四郎』を読んだ時、「金魚鉢観察小説みたい・・・」と批評しましたが、この小説を読んでも登場人物の話は退屈な展開です。でも、この『道草』を前半まで読むと今までの漱石の作品とは違った内容が現れてきます。別段漱石を研究しているわけではないし、事前にこの作品に対する予備知識があったわけではないので、読み始めてから、ハタと勘付いたのです。


それは、この健三という主人公が漱石の実情にあまりにもそっくりなことです。それで、その辺を別途調べてみたところ、どうも私小説みたいな構成であることがわかりました。


そのことを意識してこの小説の後半の展開を紐解いて行きました。それと漱石は『明暗』を書きかけた翌年の大正五年十二月に亡くなったと云うことですから、完結した出版としてはこの本が最後のようです。


ストリーとしては、最初は奥さんとの日常における会話を通して、お互いの意志の疎通がうまくいってないことを、延々と自身の解釈や奥さんの気持ちも含めた自己分析を交えた展開です。そして後半は育ての親や、義理の父からの執拗なお金の無心で手を妬きながら、漱石の心持を綴ったものです。つまりただそれだけなのです。


そう云ってしまいますと、この小説がつまらないものだと思うでしょう。ところが、私の枕元に現れる小林秀雄の口癖は、いつもこうです。『文章はそれを書いた人の気持ちを想像しながら読むと・・・どんな文章でも理解するのは大変難しいものだ、簡単な文章なんてものはひとつもない。』と云う。


まあ、歳をとってこのような小説を読むとき、私小説であろうが無かろうが、この平凡な庶民生活を抽出した様な内容には、共感が少し湧いてきます。夫婦の間というものは、大小の程度違いはあってもこうした細君とのやりとりは日常茶飯事です。読んでいて苦笑したくなる場面も結構あります。その時は決まって自分の細君とのやりとりと、近似的な共通した法則を発見します。


また漱石も、結構苦労したのだなあ・・・という感慨も起きてきます。しかし前回、漱石の税金をケチろうとした顛末を江藤淳氏が講演で暴いていたことを書きましたが、そんな話を聞くと漱石という人物は何と『浅ましい人間』だと云った気持ちになりますが、この『道草』を読むと、今度は何とお金に対して無頓着だろうと思いますし、人に対しても寛大な人柄と思ってしまいます。


どちらの漱石が『本心』なのかは漱石のみが知っているはずです。でも漱石の家計が苦しかったことだけは事実のようです。そして、何よりも教師から作家への大転職は、昨今こそ転職当たり前の時代ですが・・・当時としては一大決心だったと思われます。そうしたストレスは計り知れないものがあったと想像します。


そのストレスは漱石だけではなく、妻にも当然あったからヒステリーになってしまったのでしょう。妻のヒステリーが実際どの程度のものかは、漱石のみぞ知るですが、女性のヒステリーは決して生まれつきだけのものではなく、抑圧されたストレスが爆発したものみたいなものでしょうから、将来が見えない不安と、家計の苦しさからひとりで悶々とした心持で自分の主人に対して、それを表に出さない辛さから来たもので、それは計り知れないものだったでしょう。たとえ恋愛小説を書く小説家であっても、ここは主婦としての立場でないとわからないものがあります。


小説家が、こうした女の気持ちがわかっていようとわかっていまいと、兎に角うまくやっていけない事実を持つことには辛いものがあるでしょう。しかし、この小説がどの程度、漱石の家庭の内情と符合しているかは漱石しかわからないことです。わかることと云えば、この『道草』の主なる登場人物は皆、身内だけです。それだけに暗いものがあります。


『道草』を書こうとした動機がいったい何であったか?色々考えられます。ひとつは今までの苦しい思い出を昇華させるために書いた。もうひとつは書く種がなかったので・・・行き詰まって・・・お金のために自身をモデルにしてまでして書いた。と色々詮索はできますが、あまり意味の無いことです。


この物語の前半のところで次のような話が出てきますが、「人が溺れかかったり、又は絶壁から落ちようとかする間際に、よく自分の過去全体を一瞬の記憶として、その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。」といった引用が出てきます。これは、現在一般的に知られた話ですが、ひょっとしたらこの新聞小説がきっかけに全国的に、こうした話が知れ渡ったのかもしれません。


この引用は、別なところにあるのですが、ひょっとしたら漱石の身近に迫った死に対する・・・『道草』がその一瞬の記憶とダブらせているのかもしれません。それは考えすぎでしょうか?


漱石は、近代の日本文学として、哲学やその他、西洋の知識を導入することで新しい文学を構築したわけですが、その意気込みは、この『道草』の半ばに主人公健三に対するナレーションで「金の力で支配できない眞に偉大なものが彼の目に這入って来るにはまだ大分間があった。」と記しています。


これを読んだ時、せっかちにも・・・何時、それの話が出てくるのか?と期待しつつ読みましたが、最後までそれについては触れることなく物語は終わりました。


よく考えて見ますと、この話は漱石が作家としての出発する時の話ですし、健三(漱石)はそれから次々と作品を生んでいくのですから、やはり彼のナレーションとしての発言は、近代文学を漱石が築き上げるといった意気込みだったかと思われます。


漱石の文学は、非常に現実的なものを描きつつそこから、漱石の薀蓄でもって色々と論じたり、啓示的なものを云ったりして読者を啓蒙しょうとしているところがあります。


それは、ある意味で『有無回帰』みたいなところが在るみたいです。『有無回帰』とは、限られた現実世界を追求し、限りなく思索することは畢竟、その世界が実は限りなく拡がってゆく・・・有限→無限、そうしたいった意味合いです。


勝手な造語を造って書いてしまいましたが、これは有限として日常に存在する物質をごく当たり前のように思っていますが、いざその物質をとことん調べていきますと・・・分子、原子・・・素粒子ときりがありません。つまり『有限』を追求すると『無限』へと回帰してゆく現象を言います。


( 『有無回帰』の逆として形而上から形而下に回帰してゆく場合もありますから、それは『無有回帰』となります。そしてそれらの繰り返し運動を『有無循環』と云うことができます。人の思考にはこうした働きがあるようです。 )


漱石の文学も、ごく当たり前の現実を直視し、とことん観察していきますと・・・つまらない日常の出来事と看過していたものが、限りない人間の魂の葛藤として拡がっていっている・・・そんな文学を狙って書かれたのではないかと、勝手に想像するのです。そういう想いで覚悟して漱石の小説を読めば、退屈な小説ではなくなるかとは思いますが、皆さん如何ですか?


漱石の文学を海外で愛していた人がいます。その人はカナダのピアニストの故グレン・グールドです。クラッシック音楽ファンの方は、彼の天才ぶりはご存知のとおりです。彼についての話はここでは止めておきますが、彼が漱石ファンだったことが知られています。もちろん、彼は日本語が出来るわけでないので、英文で翻訳されたものを読んでのことでしょう。


意外と、翻訳されたものの方がわかりやすいのかも知れませんね。とくに哲学めいた文章などはそうでしょう。漱石のどこに魅力を感じたのか・・・それは、本人でないとわかりませんか゜、やはり人類共通の普遍的な人生観かもしれませんね。


きっと、あの世から・・・私の気持ちがカナダのピアニストまで伝わって共感してもらえるとは。。。文士、冥利に尽きる・・・ときっと思っているでしょう。漱石が49才、グールドが50才でこの世を去っていますから・・・これも不思議な近似的数字ですね。




by 大藪光政