漱石の『草枕』は田川高校に入り立ての頃に、旺文社が旺文社文庫として『坊ちゃん・草枕』を出版したので、それを買って読みました。ですから、私が15歳の頃です。
当時の読書歴としては、大浦小学校時代にはジュール・ベルヌの全集を愛読し、文字通りの科学小説ファンで、その背景には漫画雑誌『少年』の鉄人28号、鉄腕アトムなどの強い影響があったと思います。そして文学としては、山本有三の『路傍の石』を従姉から借りて読んだ程度です。
後藤寺中学校時代は、殆ど文学関係の読書はせず、科学に関する書物や、西洋の歴史に興味を抱いて歴史本や偉人伝を読んでいました。或る時、日本文学に触れてみようとは思ったりしましたが、ちっとも面白くなかったので避けて通った記憶があります。おそらく、リアルな生活臭いところが嫌いだったような気がします。
さて、当時この『草枕』のお陰で、ショックを受け高校二年の後半まで、文学小説なるものには手をつける事を止めてしまいました。その理由は、当時の私にとっては『草枕』がとても難解で、文学とは斯くも難しいものであるとは・・・といったことと、それに対するコンプレックスもあったようです。
後に、同じクラスの大塚君が、ちょうど定期考査のときに、「大藪君・・・この本を読まないか?面白いぞ!」といって渡してくれたのが松本清張の本でした。試験中でしたがちょっと読んでみると、学業よりそちらに関心が移って全部読んでしまいました。
清張の本は、色々な社会に対する課題を下敷きにして推理を加えたアクティブな内容でしたので、社会に目を向け始めた高校生にとっては手ごろな書物だったと思います。こうした些細なきっかけで、面白そうなパールバックの『大地』だとかを少し読み出したわけです。
話をこの『草枕』に戻しますが、四十三年振りに再読するわけですから、初めて読むといった方が正しいかもしれません。そしてその読後感は多々あります。
漱石がこれを書き終えたのが『我輩は猫である』とほぼ同時期の四十歳です。そしてその年に朝日新聞社に入社を決心するのです。つまり、意欲満々の漱石がそこにあります。
『草枕』は、そうした意欲でもって書かれていますから、古今東西の小説、詩、絵画、所謂芸術とみなされるものすべて、そして哲学、宗教までを含めて漱石渾身の薀蓄を傾けています。
或る意味では、「どうだい! 我輩の小説は・・・そこらの通俗小説とは格が違うわい!」と云わんばかりです。これは、今までの日本文学に対する新しい試みと言わんばかりです。(しかし、15歳の読者は、これに参ったわけです。恐ろしい程の教養・・・。)
そのせいか、この『草枕』は、当時かなり反響を読んだようです。所謂インテリ層において、『草枕』を論じることは己の教養の高さを物語るものであるからして、そうした種族は皆飛びついたようです。つまり、漱石の魔術に引っ掛かったようですね。
漱石としては、やはり生活が掛かっていますから他とは違って、異彩を放った小説を書くことで・・・すなわちマーケティング思考で差別化を図ったのでしょう。おかげで、『草枕』に関する分析やら解釈やらが横行しているようです。でも、それってあまり意味の無いことだと思います。
この小説は、或る意味で悪く言えば支離滅裂です。良く言えば融合文学かな?。そして学者文学とも言えるでしょう。あるいは実験的なものかもしれません。だからその真相を究明するのはおかしな人だけでしょう。
この小説は、すっと読んでその余韻を楽しむだけでよいのだと・・・と、読んでいる最中に感じました。あまりにも装飾的な文章や、そのリズム・・・それを楽しむには、現代仮名遣いの新書よりも当時の原本の方が、味があって良いのもそうしたところから来ていると思います。
漱石の文学は、文人画みたいなところがあるようです。文学を、絵画を愛でるように楽しむところがこの小説には多く出現します。それを楽しめばよいのでしょう。この小説には主人公が二人います。その画工と那美さんとの絡み合いはとてもロマンチックで謎めいています。よくわからないから読者の想像を湧き立たせて、この二人の葛藤が活きてくるのでしょう。
そして、画工と那美さんが、急接近する濡れ場があります。それは接近するところでストップです。それ以上だとこの小説が官能小説と変わらなくなるからです。漱石はそんな文章はまず書かないでしょう。
漱石は、美的感覚を読者に問いかけています。それが、『非人情』というキーワードから発する自然回帰であったり、最後のシーンに、画工が発する那美さんの『憐れ』というキーワードであったりしています。そして最後の『憐れ』という言葉を、読者への宿題としているみたいです。これは、日本文学で平安朝の女流作家が捉えた『もののあわれ』という言葉を彷彿させます。
こうしますと漱石は、結構意地悪い作家だということがおわかりでしょう。或る意味で、二重人格者なのかもしれません。ご家族の話によると、あの文鳥ですら飼っていても、餌や水の手入れを怠って死なせておいて、本人はじっとその死を見詰めて涙したようです。
そして前回書いた『夢十夜』に出てくる、死して花に化身した女性が、文鳥であると私が直覚したところからしても、漱石という人が如何に冷徹かを知ることができます。これもある意味で幼少のころからの不遇な家庭生活から来たものであると推察できます。
不遇な経験からきた感性が、こうした文学作品を生んだのだと思えば・・・あまり理屈で読むのではなく、デコレーションを楽しみながら、すっと読んで・・・その中から自然に湧いてくる余韻や想いを楽しめればそれでよいのではという気持ちになりました。
そうしてみますと、やはり若干15歳では面白くもないことかもしれませんね。
『草枕』を読まれた事のある、あなたはどう思われますか?
by 大藪光政
