動物も植物も意識と体で出来ている | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

動物には意識があり、意識がなければ体は動かせない。

脳機能があろうがなかろうが意識が体を動かしている。

 

大きさに関係なく、歩こうが歩くまいが動く生物は同じ仕組みであり植物も例外ではない。 地上へも地下へも体を伸ばし、意志をもって葉と花と実を作っている。

微生物や昆虫や鳥や動物を観察、それらと共に生きる為に体を進化させ続けた。 花や果実はその為のものでは?

 

その物理的な仕組みは人知を超えたテクノロジーでは? 

そこから学ぶことはないのかな。

足元にも及ばない人間が植物の生育にテクノロジーを持ち込めるはずもなく、その人間の傲慢さが現状を招いた。

 

生命とは意志をもって生命活動をするものであり、学問の分類がどうであれ活動すれば動物に変わりなく、その動力はすべて同じ。 元は同じ海の単細胞生物なのだから。

人間がカロリーなら、全ての動物、植物もカロリーなのかな?

植物に栄養である肥料だけでなくカロリーも与えればわかる。

 

分類と言う概念は人間が作り出した考え方であり、言葉でまとめた箱物とも言えるそれらは矛盾だらけだ。

「生物とは何か」という問いほど人間を悩ませるものはない。

 

「謎」とは人間の箱のような定規に当てはまらないもの。

思考の前提が学問である定規なのだから、定規を外れたら思考は止まる。 観察して分類して整理整頓、自ら思考の壁を作ったようなものだな。

これでは、新たな発見は無数に生まれても物理思考が生まれるはずがない。

 

道理もなく謎だらけの生物学は栄養・カロリー論に続いて15歳ですべて捨て去った。

「よく噛んで食べる」も同様、小学時から常に5分間丸呑みを繰り返したが胃に支障はない。

今考えれば穀物も野菜も消化吸収出来ないのだから当然だな。

よく噛んでも噛まなくとも大差はない。

 

文明の頂点の機械・ロボットが物理学なら、意志を持って動く生物は超高度物理学のはずだが、その気配もなく観察日記のようなもの。 これでは何百年学ぼうが暮らしの役には立たない。

 

生命とは、科学ではその仕組みが半分の見える部分しかわからないのだから、自分で考え答えを出すしかない。

それから半世紀以上経っても生物学の基盤は変わっていない。

 

結果、当時の予想通り人間だけでなく地球も多くの問題を抱え込み、解決の糸口さえ見えていない。

これも成るべくして成った結果だな。

思考の基点の間違いが原因であり、基点が狂えばすべて間違い結果も出ない。

 

野人思考には生物学の定規がなく自由。

コインの裏表思考もそこから生まれた。

 

昨日の記事・・

「病不調の根本的原因が長年見続けた細胞に見当たらなければ、残るは見えない意識しかない。

動物は意識と体で出来ているのだから当然。」

 

これも難しく考えることはない、表と裏は一体。

 

体と違い意識の探求に実験室も顕微鏡も必要ない、何しろ見えないのだから。

 

「生命の定義」を調べるとわけのわからない言葉がどっさり並んでいる。 さっぱりわからないからすべて消去だな。

 

生命体も物質も元は同じ元素で出来た物質。

意志をもって活動するかしないか、それだけでよい。

「生きているか」「死んでいるか」も、わかりやすい。

 

活動停止が「死」だが、その判断は体の状況で下す。

「意識ありますか~?」と聞いても、体が死ねば口も動かないのだから答えようがなく、「ありませ~ん汗」とも言えない。

 

体は有機細胞で構成、死の判定も出来、火葬で燃やすことも出来る。

 

見えない意識は有機ではないのだから、死の定義もなく燃えることもない。

 

じゃあ生き残るかと言えば、そうは言っていない。

可能性は高いが他の要素もあり、これだけで断定は出来ない。

 

死にも燃えもしない意識がその後どうなるのかは、それぞれが考えればよい。

 

故郷に帰るか・・お風呂に入るか

迷子になってその辺 舞っているかも・・脳も使えないし

 

本人の意識だけでなく各臓器の意識の行方・・

野人が出した答えは、他の要素も入れて断定、それぞれ行方は異なる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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