「だんおうもうせしあくおうは、がっそうくびりしにとがなかりしかども、そんじゃくびりしときかたなともいちちにき。ほっしゃみっおうけいきしときじゅうしんぼうかふべられにき。いまほんこくひとびときょうかたきとなりて、ほろぼしくにほろぼしぬるなり。かうもうせばにちれんさんなりとこころえぬひともうすなり。さにはあらず、れをわずばきょうぎょうじゃにはあらず。またことあとえばこそひとしんずれ、かうたゞきなばこそ、らいひとありけりとはしりそうらわんずれ」

 ここは「所態によってばちの大小は異なる。今ぜんだいもんこくしんぴつというだいばつを見てだいしょうにんさまが下種のほんぶつと知るべし」というしゅを説かれているわけであります。
 所態によってということは「相手によってばちの大小がちがう」というんです。
 たとえば、悪人を殺したってばちは受けないんですよ。
 そうでしょう、ごくあくどうの者(私は今そうおもいますが)金正日という悪人が一人いなくなることによって北朝鮮きたちょうせんの人が全部救われるんですよ。
 そういうような大悪人と徳の高い人を殺すのは同じ殺人でもちがってくるでしょう。そういうことをおっしゃっておられるんですね。
 ですから、極めて徳の高い人に害をなすならばその反動はもっとも大きくなっていく。
 このばちの大小をもってだいしょうにんの御徳を顕わしておられるんですね。
 インドでもってだんおうというあくおうがあった。
 このあくおうはインドにおける僧侶のくびを切っても全然自分にはばちがなかった。
 ところが、そんじゃくびったときに、何とかたなともいっしょちてしまったというんです。
 このそんじゃというのは釈迦ぶっぽうぞくを受けてインドに弘通した二十四人のうちの一人ですね。
 普通の僧侶のくびを切っても全然ばちが出なかったけれど、そんじゃくびを切った時にかたなともいっしょちるだいばつが現われたんですね。
 この時そんじゃくびからは一滴の血も流れずに白い牛乳のようなものががってきたというんですね。
 これはどういうことを顕わしているか、そんじゃの持つぶっぽうが正しいぶっぽうであるという事と、すでにそんじゃじょうぶつを遂げておったということの顕われだということしょに説かれておりまするが、そんじゃこうべねた時にそのばちだんおうかたなを握ったまま落ちてしまった。
 また、同じくあくおうほっしゃみっおうはインドにおいて多くの寺を焼いて多くの僧侶を殺したがばちが出なかった。
 ところが、最後にけいいたときじゅうしんぼうに当たって自分のあたまられてしまったというんです。
 さてそこで、これまでは個人のばちでありまするが、今ほんこくの人々は

 「くにほろびんことうたがいなかるべけれども、しばらとどめをなして『くにをたすけたまへ』とにちれんひかうればこそいままではあんのんにありつれども、ほうぐればばちたりぬるなり」と。

 ここに、三度の諌めを用いず「それではかまくらを去ろう」ということのぶにおはいりになった。
 だいしょうにんさまかまくらを去るということしょてんぜんじんに「この国を責めてよろしい」とお許しになったということなんでしょう。
 ですから、かまくらを去る時におっしゃったしょの中に「きょうかたきとなる」とありまするが、この「きょう」とは「だいしょうにんの」ということです。
 だいしょうにんさまは生きておられる下種のきょうであります。
 ですから、にちれんだいしょうにんざいざいにしてほんこくの人々はついにだいもうの責めを招いて身を亡ぼし、国を亡ぼそうとしている。
 さて、こうえば「だいしょうにんさまは予言が的中したことさんしているんだ」などとこころぬ者はうかもしれない。
 しかし、そうではなく「これをこときょうぎょうじゃなのである」ということであります。
 ですから、だいしょうにんさましょの至る所にだいしょうにんざいざいにしてもうの責めがあった」「このもうの責めがあるかないかをもってだいしょうにんきょうぎょうじゃにてあるかないかを知るべきである」ということおおせになっておられる。
 そのだいばつの現証を見て、初めてだいしょうにんさまほんぶつとみんなが知ることができる。
 そして、だいばつを見てみんなが改悔の心を起こして後生の大苦を救うことができる。
 ですから、このことえて分からせるということが実にだいしょうにんさまの御境界を顕わす事となり、そしてだいだいなのであります。
 ゆえに「これをわなければきょうぎょうじゃではない」とおっしゃるわけであります。
 また、前もってったことが後に現実として合えばこそ人もしんずるのではないか。
 こう書き置けばこそ未来の人はだいしょうにんさまいちえんだい第一のしゃであられる、ほとけさまであられる」ということがよく分かるのである。
 そうですね、前にはいままでうてそうろうことは、いちにんなれどもこころつよゆえなるべしとおぼすべし」とおっしゃってほんこくちゅうだいしょうにんを殺そうとしたが竜の口でくびねようとしてもねられなかった。今ここにおいてだいしょうにんざいした上に今度はもうが責めてきた。この竜の口ともうの責めということだいしょうにんさまほとけさまであられる」と理屈抜きにしんじなければいけない大現証であります。
 そこに、このことを強調しておられるわけであります。


平成14年 4月5日 『乙御前御消息』御書講義