「またしんきょうほうじゅうしんほう』とべてそうらえば、かるければひとちはりにくむとも、ほうおもければかならひろまるべし。きょうひろまるならばかばねかえっておもくなるべし。かばねおもくなるならばかばねしょうあるべし。しょうあるならばいまはちまんだいさつゝるゝやういはうべし。ときにちれんようせるなんにょたけのうちわかみやなんどのようにあがめらるべしとおぼせ」

 これは、未来広宣こうせん流布るふかくしんをお示しになられた一段であります。
 「しんきょうほうじゅうしんほうべる。これは、しょうあんの釈にこういうことがあるんですね。
 「かるく、ほうおもし、ころしてほうひろむ」ということしょうあんの釈にある。
 ゆえに「たとえだいしょうにんの身は軽いということきょうせんしで杖で打ったり刀で切ったりと憎むことがあろとも法が重ければ必ずひろまるのである」おおせになっておられる。
 これは、ざいの者だけではなく今でもそうですがすいごんにーふーけんということがある。
 この国にほんぶつが御出現されて眼前にあっても凡夫はそれが分からない。ゆえににんを軽んずる。
 しかし、時来れば必ずさいだいじんの大法は弘まる。これは誰人も否定できないというんです。
 ごんじつほんじゃくしゅだつですよ。最大深秘の大法はもう誰人も否定できないから法が重ければ必ずひろまるのである。
 もしこのほんぞんが弘まるのならばしかばねがかえって重くなる。すなわち、だいしょうにんの御存在の重きは一国にかがやくのである。
 御存在の重きがすなわち「しかばねの重き」という御表現であります。
 そして、御存在が重くなるならばほん一同がだいしょうにんしんたてまつみょうほうれんきょうと唱える。
 そして「だいやくがある」ということが分かってくる。
 「だいやくがある」ということが分かるならばだいしょうにんさまを今ほんこくちゅうはちまんだいさつをもてはやすように尊敬してあがめるであろう。
 広宣こうせん流布るふの時にはだいしょうにんようしてきた男女というものはたけのうちわかみやなどのごとくにみんな国中が尊敬するであろうというんです。本当ですね。
 広宣こうせん流布るふになったら、だいしょうにんさまざいにおつかえしたあのじょう殿どのうえ殿どのにちみょう殿どのはみんな「何とえらい方々だ」「おんがんじょほんぶつに直接おつかえした方々だ」と口々にざいだんの方々を讃嘆するだろうし、教科書にも必ずりますね。
 このことだいしょうにんさま「必ず広宣こうせん流布るふになれば今だいしょうにんようたてまつるそのだん一同もまたことごとく人々から尊敬されるのである」ということおおせになっておられるわけであります。
 私達も今広宣こうせん流布るふの前夜においてしゃくぶくすればあっちこっちからいろいろな悪口をわれますけれども、楽しみにしていてください。
 広宣こうせん流布るふになれば、今度は本当に一般の人達は「私も広宣こうせん流布るふ以前にほうこうしたかった」「しゃくぶくをしたかった」なんてうにちがいないんですね。
 もう今どこでしゃくぶくしようとしても周りにはぎゃくえんの者はいない。そんなほうこうはできない。
 「あなたは良い時に生まれて、良い時にほうこうしたわね」なんていうことを必ずうから、今のうちにうんとしゃくぶくをしておくことであります。
 どんな悪口をわれようとも、そんなこと広宣こうせん流布るふになれば悪口はかえって尊敬となるということ確信かくしんすべきであります。


平成14年 4月5日 『乙御前御消息』御書講義