じょうきん殿どのへん』にたまわく
 せん強敵ごうてきいについて御文おんふみたまいき。くわしくまいらせそうろう。さてもさても、敵人てきにんねらはれさせたまいしか。
 前々ぜんぜん用心ようじんといい、またけなげ健気といい、また法華ほけきょう信心しんじんつよゆえなんなく存命ぞんめいさせたま目出めでたし目出めでたし。
 うんきはまりぬれば兵法へいほうもいらず、ほうきぬればしょじゅうしたがはず。所詮しょせんうんのこり、ほうひかゆるゆえなり。
 ことに法華ほけきょうぎょうじゃをば、諸天しょてん善神ぜんじんしゅすべきよし属累品ぞくるいぼんにてせいじょうたまう。
 ないはげみをしてごうじょう信力しんりきだしたまうべし。ぎし存命ぞんめい不思議ふしぎおもはせたまへ、なに兵法へいほうよりも法華ほけきょう兵法へいほうもちたまうべし。



 只今のしょは、じょうきん殿どのが弘安2年10月にやみちにったんです。『到底とうてい助からないであろう』と思われるような大難があった。不思議ふしぎにも、存命ぞんめいする事ができた。
 その事について御報告申し上げた時にだいしょうにんさまが下された有難いしょであります。
 じょう殿どの鎌倉かまくらの住民ですね。そして、ほうじょう一族いちぞく一門いちもん江馬えまという家がありまして、その江馬家えまけつかえておった鎌倉かまくら武士ぶしであります。
 なかなか学問もあり、そして、剣の達人、その上、じゅつに通じておった。実に、めいだったんですね。なかなかすぐれた医者であった。
 何よりも、ちゅう一筋ひとすじ武士ぶしでありまするから「主君がじょう殿どのを大変信頼しんらいし重くもちいていた」という事なのであります。
 じょう殿どのの入信というのは、だいしょうにんさまの立宗早々の頃でありまするから、門下でも最古参の一人ですね。鎌倉かまくら方面における、だいしょうにん門下における中心的な存在でありました。
 信心しんじんは純粋、そして「命も惜しまぬ」というごうじょうなる強い信心しんじんの人でありました。

 何よりも、あの竜の口の大法難の時に御供おんとも申し上げたのは在家としてはこのじょう殿どのただ一人ですね。この時に、だいしょうにんさまの御側を少しも離れる事なく「万一まんいつ、大聖人様の御頸おんくびねられたならば、その場を去らずして腹を切って御供おんともつかまつる」とそれまでのけつをされたしゃくしんみょうの人であります。

 鎌倉かまくらでは、日蓮にちれんだいしょうにんの弟子としてのじょうきんというのは鎌倉かまくら中に有名だったんですね。
 このじょう殿どのを落とそうとねらっておった悪人があった。それがあのりょうかんであります。
 だいしょうにんを強くにくんでおったりょうかんは「だいしょうにんを助けまいらせるじょう殿どのを何としても退転たいてんさせよう。おとしいれよう」として、そこで様々なぼうりゃくめぐらしたけれどことごとく失敗しっぱい
 最後に彼が考え付いた事が「暗殺あんさつをしよう」という事なんです。
 どんな事をやったかといいますと、江馬家えまけの家臣の中には量感の信者が大勢おおぜいおったんですね。これらを扇動せんどうして「じょうを殺せ、やみちをせよ」という事をそそのかした。
 ここに、弘安2年10月のある夜、じょう殿どのを多くの武士ぶしが待ち伏せして「取り囲んでり殺そう」という事件が起きたわけであります。
 いかに剣の達人といえども、つわもの大勢おおぜい取り囲んで一斉いっせいりかかったらのがれられるものではないですよ。
 ところが、本当に不思議ふしぎな事に、いつの間にかその囲みをじょう殿どのだっする事ができた。
 「まことに不思議ふしぎでございました」という事の報告をだいしょうにんさまに申し上げた。
 その時、ただちにへんをしたためられて下さった。
 そのしょがこの御文であります。


平成20年 8月3日 浅井先生指導