「そもそもいちにんもうもくけてそうらわんどくすらもうすばかりなし、いわんやほんこくいっさいしゅじょうまなこけてそうらわんどくをや。いかいわんやいちえんだいてんひとまなこしゐたるをけてそうらわんをや。きょうだいいわく『ぶつめつのちせんば、もろもろてんにんけんまなこなり』とらうんぬんきょうたもひといっさいけんてんにんまなこなりとかれてそうろうほんこくひとにちれんあだそうろうは、いっさいけんてんにんまなこくじひとなり。さればてんいかてんぺんあり、いかつきづきようかさなる。
 ないにちれんいやしきについてぎょうげんてゝそうろうゆえに、くにすでほろびんとするかなしさよ。またにちれん便びんもうしぬるどもをも、たすがたからんことこそなげかしくはおぼそうらへ。
 いかなることしゅったいそうらわば、れへおんわたりあるべし。たてまつらん。さんちゅうにてともにしそうらわん。またおとぜんこそおとしくなりてそうろうらめ。いかにさかしくそうろうらん。またまたもうすべし。
  はちがつよっ    にちれん はん
 おとぜんへ」

 これは、結びのいっせつですね。にちれんだいしょうにんの大恩徳を明かされると共に、だいしょうにんに背くほんこくを悲しみ給う一段であります。
 ということ「早く広宣こうせん流布るふをせよ」との御命令であるということを私は拝しております。
 だいしょうにんさまの御徳がいかなるものか、そもそも、たった一人の目の見えない人の目をけてやるということどくは大変なものでしょう。
 盲目をけてあげることは一人でも大変などくである。
 いかにいわんや、ほんこくちゅうの一切のまなこけてあげるどく、全世界四天下の人々の目が見えないというのをけてやるどくをや。
 だいしょうにんさまにちれんこうだいならば、みょうほうれんきょうまんねんほからいまでもながるべし。ほんこくいっさいしゅじょうもうもくひらけるどくり」ということおおせになっておられる。
 ですから、お題目を唱えさせるということは取りも直さずもうもくひらくんでしょ。
 三毒充満でせっかくにんげんとして生まれてきても、仏になるという道が分からない。じょうぶつという最高の崩れない幸福をる方法が分からない。
 それを分からせてじょうぶつの道をひらかせてあげるということが「目をけた」ということなんでしょう。
 ですから、お題目を唱えさせるということは目をけさせるということである。仏となる道を見させることである。
 これが一人を救っても大変なことである。いわんやほんこくちゅう、いかにいわんや全世界の人類を救うどくをや。
 これがだいしょうにんさまにちれんこうだいならば、みょうほうれんきょうまんねんほからいまでもながるべし。ほんこくいっさいしゅじょうもうもくひらけるどくり」おおせになった事、この大恩徳がだいしょうにんにましますということであります。
 その証明としてきょうには「仏の滅後によくの義を解せん」ということがある。「文底下種の大法を弘める人」ということです。
 その人はこれ諸々のてんじょうかいにんげんかいの世間のまなこであるときょうにはある。
 このことだいしょうにんさま「このほんぞんたもつ人は一切世間のてんじょうかいにんげんかいまなこである」「全人類のまなこである」とこうおおせられている。
 今ほんこくだいしょうにんあだんでざいざいにしたてまつるということは、この一切世間の天人のまなこをくじるものである。
 だいしょうにんさまざいざいに遭わせることは全人類のまなこをくじる事と同じことになってしまう。
 されば、その大悪に対してしょてんいかり日々に天変があり、地もいかり月々によう重なる。
 そして、だいしょうにんの身のいやしきについてということは自ら「皇室に連なる生まれでもなければせっしょうかんぱくの出でもなくせんの子である」とおっしゃる。
 ぎょうげんということは国を救う正しいことでしょう。
 「さんだいほうを用いよ」というこの正しいおことぎょうげんという。
 そのりっしょうあんこくのおことを身分の賎しきにつけて捨てるゆえにこのほんこくがすでに亡びんとする悲しさよ。
 また、だいしょうにんさまざいになった時にこざかしくも批判した達が罪の深さから現身に罪を滅することが難しいであろう。
 「たすがたからんことこそなげかしくはおぼそうらへ」おおせになっておられる。
 これは、広宣こうせん流布るふの時にすべてのことは解決するわけであります。
 ですからくにすでほろびんとするかなしさよ」ということ広宣こうせん流布るふするまで門下の私達が持つべきうれいであります。
 そして、今いよいよそのさいしゅうだんかいに来ているわけであります。


平成14年 4月5日 『乙御前御消息』御書講義