本日、山形県の内陸に立派な最上事務所が開設され、晴れて御本尊様がお出ましになられた事感無量であります。
この御本尊様は、富士大石寺にまします本門戒壇の大御本尊の分身であられます。
ゆえに、この御本尊を即戒壇の大御本尊と深く拝し奉り、そして『生きておわする日蓮大聖人ここにまします』の思いで折に触れては最上事務所に参詣し「お慕わしい」「有難い」と恋慕渇仰してお題目をしっかり唱えてほしいと念願しております。
この最上事務所の開設に当たり、私は平成21年の山形会館御入仏式における先生の御命令が何度も脳裏をよぎりました。
すなわち「山形こそ東北先陣を、またその先駆けをしてほしい。こう私は強く念願している」と。
御入仏式の折先生は、それまで東北地方で唯一会館がなかった山形県に立派な会館が建ち、熱烈で健気な人材がそろい、力強い戦いが成されるようになった事を心からお喜びになり、帰りの車中においてもその感激を語っておられました。
その時の御温顔を私は今でも鮮明に覚えております。
かかる先生の東北先陣に込められたお心こそ、日目上人の御跡を慕われたものに他なりません。
日目上人の東北弘通は大聖人様の百箇日法要の直後から開始され、多くの親戚が住む奥州三迫新田(現在の宮城県登米市)に弘通された。
当時、静岡県の大石寺から宮城県までは歩いて20日余り、しかも、途中には山があり川もある。そして、狼がいて山賊もいる。
その中を、日目上人は護身用の短刀を帯して通われた。まことに想像を絶する御難儀であります。
そして、次々に親族を教化され、さらに弘通を広げいくつもの法華堂をお作りになった。
その後も暇を見つけては幾度も奥州に足を運ばれ、さらに、門下の先陣を切って全国に弘通を展開されたのであります。
この日目上人の死身弘法の源こそ、大聖人御葬送の折に固めた紅涙の誓いに他なりません。
かつて先生は「日目上人の死身弘法こそ現在の顕正会における東北広布の源流である」と仰せ下さいましたが、先生の東北先陣に込められたお心こそ日目上人への御報恩と拝察いたします。
先生の執務室の書庫には顕正会発足からの歴史が記された何分冊にもなった年表があります。
それを見ると、東北に関しては昭和48年に第1回福島県大会が、翌49年に第1回青森県大会が開催され、その後、第2回青森県大会、青森大会、会津若松大会、秋田大会、仙台大会、福島大会、東北大会、東北代表者会議、南東北大会、北東北大会が行われております。
また、会館ができる前にはいくつもの事務所を開設され、その後、八戸の本館・別館、黒石の本館・別館、秋田の本館・別館、盛岡会館、新旧仙台会館、郡山の本館・別館、会津会館、そして、山形会館を建設されました。
このように先生は、幾度となく足を運ばれ、東北の同志の信心を直接育まれ、組織を構築してこられたのであります。
そして先生は東北に赴かれる度に日目上人の往時を偲ばれ、新幹線等であっという間に東北に来られる事をいつも「申し訳ない」とおっしゃっておられました。
先生は常に、草鞋を履いて一歩一歩徒歩で東北に通われた日目上人の死身弘法の大精神を抱いておられたのであります。
かかる先生の東北弘通の足跡を改めて拝見しては、日目上人の死身弘法と重なり、熱き物が込み上げてまいります。
東北に限った事ではありませんが、顕正会の組織はこうして先生が手塩にかけて一から築かれた物なのであります。
かく思う時、私達は先生が常に燃やし続けられた広布の大情熱、その無限の責任感を身に対し、そのお心のままに人材を育て、力強く広宣流布を進めなければ申し訳なしと思わずにはいられません。
そして私は、この山形に寄せられた先生の深きお心を留めるべく、この事務所の名称を「最上事務所」といたしました。
これは、山形にゆかりの深い最上の名に「東北先陣」のまたその先駆け、すなわち「最も先頭に立て」との御命令を重ねたものであります。
山形顕正会員は先生の東北山形への強い御期待と御慈愛を夢寐にも忘れず、これよりは様変わりの戦いを展開しなければなりません。
そして、三百万の戦いを山形より一気に加速させてほしい。それこそが、先生の最大の御報恩であります。
されば、この最上事務所を根城に見事なる東北先陣の、またその先駆けの御奉公を果たし、霊山にまします先生におうなずき頂く戦いを断固なしていこうではありませんか。
令和7年 12月20日 12月度 総幹部会 浅井会長指導
最上事務所御入仏式 浅井会長メッセージ