しんほんしょう』にたまわく
 じょくすいこころけれども、つきおのずかめり。草木そうもくあめて、あにさとってはなくならんや。
 みょう法蓮ほうれんきょう五字ごじきょうもんあらず、あらず。ただいちならくのみ。
 初心しょしんぎょうじゃこころらざれども、しかこれぎょうずるにねんたるなり。



 この『しんほんしょう』というのは、末法まっぽうしんぎょうのあり方を教えて下さったきわめてだいしょであります。
 すなわち、当時において『仏道ぶつどうしゅぎょうというのは、みんな、布施ふせぎょうとか戒律かいりつぎょうとかそういうことしゅぎょうすること仏道ぶつどうしゅぎょうなんだ』とおもっている。
 その間違ったかんがえに対してだいしょうにんさま

末法まっぽうにおいては、この本尊ほんぞんさまを信じて南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなえる信心しんじんしょうだけでじょうぶつが叶うのだ。布施ふせぎょうとか戒律かいりつぎょうをやってはいけない」

という信心しんじんしんぎょうのあり方をハッキリと教えて下さった大変だいしょであります。
 ことに広宣こうせん流布るふの前夜においては、だいしょうにんさまが教えて下さったこの信心しんじんしょうでもって一切衆生を救っていかなければいかん」ということにおいて私は、この『しんほんしょう』の一節いっせつ一節いっせつときれて拝読はいどくしているわけであります。
 で只今ただいま拝読はいどく一節いっせつは、信心しんじんしょうの大どくを「法華ほけきょうもん義意ぎいの三段」といって「もん」とこの三段さんだんに約してきょう下されたもんであります。

 「じょくすいこころけれども、つきおのずかめり。草木そうもくあめて、あにさとってはなくならんや」と。

 「にごった水に心がなくとも、月がうつるならばおのずからむではないか。
 また草木そうもくというのは、雨が降れば、たとえその草木そうもくに何ら意識はなくともぜんと花がくではないか」

 「みょう法蓮ほうれんきょう五字ごじきょうもんあらず、あらず。ただいちならくのみ」

「今私達がとなたてまつ南無なむみょう法蓮ほうれんきょう五字ごじは、法華ほけきょうきょうもんではないのだ。そのきょうもんに表わされたしゃくもん本門ほんもんもんではない。
 では何かというならば、実に、寿じゅりょうほん文底もんていちんされたしゅみょうほうなのである。
 すなわち、おん元初がんじょ本仏ほんぶつが覚られた生命せいめいごくである南無なむみょう法蓮ほうれんきょうなのである」

 「初心しょしんぎょうじゃこころらざれども、しかこれぎょうずるにねんたるなり」

 「入信したてのまだ何も分からない人が、今信心しんじんしょうをすればこころらざれども』というのは『となたてまつるお題目だいもく法華ほけきょうの文ではない、機ではない。ただ文底もんていちん大法だいほうなんだ。おん元初がんじょみょうほうなのだ』とその難しいことは何も分からなくとも、しかも、信心しんじんしょうの中にぜんとその意にたるのだ。文底もんていしゅ南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなたてまつるそのだいたるのだ」
 すなわち「おん元初がんじょ本仏ほんぶつのおさとり、日蓮にちれんだいしょうにんがおさとりあそばした南無なむみょう法蓮ほうれんきょうぎょうに渡さず、そのままストレートにとなえさせていただことたるのだ。
 ゆえに、その人はわきまえなくともぜんどくが出て、ついにはいっしょうじょうぶつげることができるのである」

ということ只今ただいまもんであります。


平成21年 6月7日 浅井先生指導