で、今の叡山えいざん天台てんだいしゅう)、これはどういうものか。
 でんぎょうだいの時においては、像法ぞうぼうだい仏法ぶっぽうを本当にしゃくそんきょうもんの通りに法華ほけきょうを立てた。
 しかし、だいしょうにんおおせになっておられる。

 「例えでんぎょうだいのままに正しくおこなったとしても、それはしゃぶつ法ですでに時が過ぎておる。末法まっぽうの今にいたってはどくがない」

 これは「れき去年きょねんこよみ)」といって去年きょねんのカレンダーのようなものである。
 それから「昨食さくじき」というのは「昨日きのう食べたごはんと同じだ」ということ
 ゆうべ食べたごはんのそのメニューを見たってはらはいっぱいになんないでしょう。
 このように、時が過ぎたものであって、でんぎょうだいのごとく正しくおこなわれておったとしても、叡山えいざん仏法ぶっぽうどくがない。
 まして、第三だいさんだい座主ざすかく四代よんだいしょう、このかくしょうの代になって、弘法こうぼう真言しんごんがまことにけんにもてはやされる。
 そこで、天台てんだい仏法ぶっぽうの中に、でんぎょうだいきよき流れの中に真言しんごんの毒をれちゃったんです。
 しかし第三だいさんろんえば強すぎてみんながかえって違和いわかんおぼえる。
 そこで、ちょっとい回してだいったんです。大日だいにっきょう第一だいいち法華ほけきょうだいった。これがかくしょう誑惑おうわくですよ。
 そしてもう1つどうしょうって

法華ほけきょう大日だいにっきょうとはろんは同じ一念いちねん三千さんぜんであるけれどもちがう。『どうしょう』とって理は同じであってもにおいてまさる。
 そのというのは何か。とうのやり方であり、とう実践じっせんすることにおいて真言しんごんの方が法華ほけきょうまさっている」

とこうったんです。この誑惑おうわくにみんながたぶらかされていった。
 弘法こうぼう法華ほけきょうぼうはあまりにもえげつないからついていかれない人があったとしても、かくしょうのそのまろやかなたばかりにみんながっかかってしまった。
 だいしょうにんさま「これが一番いけない亡国ぼうこく原因げんいんである」ということおおせになっておられる。
 後鳥羽ごとばじょうこうが島流しにったのも、このこうさん叡山えいざんにおいてほうを尽くして祈ったそのばちですね。

 けんの人は宗教しゅうきょうじゃしょう仏法ぶっぽうじゃしょうを知りませんよ。
 「オウムしんきょうが悪い」このぐらいまでは分かるでしょう。
 「統一とういつしんきょう金儲かねもうけだ」これだけは分かっている。
 しかし、全部の宗教しゅうきょう金儲かねもうけですよ。それ以外の目的もくてきはないんです。じょうぶつなんてことは頭のがんちゅうにない。
 だから、今の叡山えいざんだって、真言しんごんこうさんだって、全部観光かんこういんした。
 飯を食うためのぼうどもが、えいぎょう政策せいさくとしてお互いに行き来をしてるというのが今の「今度、叡山えいざん座主ざすこうさんに行った」ということなんですね。
 このように、人々は宗教しゅうきょうじゃしょう見抜みぬじゅんということまったく持たないんですね。
 ですから見てごらんなさい。今のせい治家じかでも池口いけぐちかんというこうさんの流れを組んだくらいの高いぼうがいる。
 これが、鹿児かごしまに住んでおりまして「こうさん真言しんごんとうをやってるほのおぎょうじゃ」なんていうことわれておりまするが、これに今の民党みんとうでも民主党みんしゅとうでもそうですが、主だったせい治家じかがみんな引っかかってる。とうたのんでるんですよ。
 それからスポーツ選手せんしゅ(ジャイアンツでもそうでありまするが)。いろんな有名なスポーツ選手せんしゅが「そこに行っては修行する」ということ護摩ごまいてもらっておる。
 安倍あべ晋三しんぞうぜんそう、これが、自分の家にそのとうを呼んでいのってもらっている。結末けつまつはあのとおりであります。
 そして今のそうそう、これが今きたちょうせん問題もんだいで行き詰まって悩んじゃって「池口いけぐちかんきたちょうせん問題もんだいしょたのんでる」なんてことわれておりまするが、せい治家じかも本当に、こと仏法ぶっぽうじゃしょうに関しては子供のように分別ふんべつがなくて、ただそのようなじゃきょうというものにたぶらかされるんですね。

 そこに、いいですか、しゃぶつ法の中には法華ほけきょう以外にじょうぶつの法はない。
 しかし、その法華ほけきょうも今の末法まっぽうにおいてはじょうぶつの法ではない。じゅくだつほうである。
 実に、今の末法まっぽうにおいては、法華ほけきょうくらの中にあるきん、これが本門ほんもん寿じゅりょうほん、そのきんの中にはたからがある。
 そのきんの奥にしまってあるおん元初がんじょ南無なむみょう法蓮ほうれんきょう大法だいほうだけが、末法まっぽうしゅじょうぶつ大法だいほうであり、これを「文底もんていちん大法だいほう」というんですね。
 ですから観念文かんねんもんの「南無なむ本門ほんもん寿じゅりょうほん肝心かんじん文底もんていちん大法だいほう」というもんがそれなのであります。

 その大法だいほうだいしょうにんさまが命をかけてお弘めになられて

いま末法まっぽうにおいては、きょう法華ほけきょうせんなし。ただ南無なむみょう法蓮ほうれんきょうなるべし」

おおせになった。
 もうその南無なむみょう法蓮ほうれんきょう大法だいほう広宣こうせん流布るふするその時を迎えております。日蓮にちれんだいしょうにんのお力によってかならずできる。
 今顕正会は、宿しゅくえん深厚じんこうにしてだいしょうにんさまえんをさせていただいた。
 そして、だいしょうにんさまおおせのままのしんぎょうをさせていただいているゆえに、現当げんとうせいだいやくいただくのであります。


平成21年 6月21日 浅井先生指導