世間の人は宗教の正邪・仏法の邪正を知りません。
今ここでもって、釈迦仏法における邪正のこの分別を申しまするが、釈尊は、一代五十年間に渡って法を説いたんですね。
それも漫然として説いたんじゃない。大きな目的を持ってお説きになった。
ですから、そこには自ずと説いた経々の中に勝劣浅深という事があるわけなんです。真実をまだ説いてない方便の教えと、本当の事を説いた真実の教えと様々にある。
で、釈尊は19で出家した。30でもって悟りを開いた。直ちに法華経を説こうとされたけれども、衆生の機根がまだ未熟である。いきなり法華経を説いたのではみんなが信じ難い。理解し難い。かえって誹謗をして罪をつくるであろう。
そこで、方便の教えを長い事説いて、みんなの精神状態をレベルアップしていった。
これがいわゆる一代五十年の前の四十二年に説いた方便の教え。これを「爾前経」というんですね。
そして「その後において、最後8年間で真実の目的・出世の本懐である法華経をお説きになった」という事です。
例えば、蔵を建てるには必ず前に足場を建てて作らなければいけない。
そして、蔵が建った後においては足場を払わなければならないんですね。
ですから、法華経を説くに当たって、みんなの機根を整えるために、42年間に渡って方便の教えを説いた。これは足場である。
蔵たる法華経を説いた後においては足場は捨てなければいけない。
そこに『無量義経』という法華経の序文に当たる経に
「四十余年、未顕真実」
「四十有余年の間に説いた経は未だ真実を顕わしていないのだ」
と説いて、さらに、法華経の方便品に至っては
「正直に方便を捨てよ」
「法華経が説かれた後においては、方便の四十二年の爾前経は捨てなければいけない」
という事を説いているんです。
さらに、法華経の法師品という経文には(これが決め手になるんですが)釈尊が曰く
「自分は、これまで無量の経典を説いてきた。その中においてこの法華経が最も第一である。最大事である」
さらに続けて曰くには
「(多くの経典の中に)已に説き、今説き、当に説く。其の中に、此の法華経最も難信難解なり」
と説かれている。
この「已に説き」というのは過去に説いてきた経。
「今説き」というのは、今、法華経と同時説法の無量義経を指す。
それから「当に説き」というのはこれから将来説く涅槃経の事を言ってるんです。
このように「過去に説き、現在に説き、未来に説くであろうその無量の経典の中に、この法華経こそが最大事である」
「已に説き、今説き、当に説く」
これを「已今当」というんです。
伝教大師が六宗の代表と法論をして、一一にその間違った事を破折していった。
その源はまさしく「それは已今当の三事による」という事を大聖人は仰せになっておられますが、顕正会員もこの事を覚えておいて下さい。
「已今当」これは、無量義経に
「四十余年、未顕真実」
「法華経の前の諸経はみな真実を顕わさない方便の教えであるから捨てなさい」
と説かれている。
そうすると、ひねくれ曲がった頭のいい者は「自分の経典は法華経の以後に説かれたものだから、その『四十余年、未顕真実』に当たらないよ」とこういう事を言うわけです。
事実、大聖人様の御在世に念阿良忠という法然の孫弟子がおった。
これが、いろいろと大聖人様に怨を成したんですが、これらの所説は「『四十余年、未顕真実』が破折されては叶わない」という事で「念仏宗の依経である観経、雙観経、阿弥陀経というのは法華経以後の所説である」などという事を言ったんです。
そういうような悪知恵の発達した者を防ぐために釈尊が「已今当」と言ったんです。
「過去に説いた経典、今現在法華経と同時説法の経文があったとしても、また法華経の後に説いた経があったとしても、それらの無量の中においてこの法華経を最大事とした。
『已今当』といって、全部の物が法華経以外には成仏の法ではない」
とこう決められるわけなんですね。これをしっかり覚えておいて下さい。
にもかかわらず、弘法は「法華経は、第三の戯論だ」と言った。これが大謗法なのであります。
平成21年 6月21日 浅井先生指導
- 天魔その身に入る弘法の誑惑と法華経誹謗の数々
- 「四十余年未顕真実」「正直捨方便」「已説・今説・当説」
- 天台宗の腐敗堕落と真言亡国の現証