報恩ほうおんじょう』にたまわく
 仏説ぶっせつまことならば、弘法こうぼうてんにあらずや。



 只今ただいま拝読はいどくもんは、にっぽん真言しんごんしゅうの元祖である弘法こうぼうを、一言いちごんもとしゃくあそばした有名な『報恩ほうおんじょう』のもんであります。
 弘法こうぼうと申しますると、けんでは大変たいへんもてはやされているんですね。
 「平安へいあんだいにおける、でんぎょうだいと肩をならべるじんちょうじんである」というようなことわれておりまするが、でんぎょうだいは、像法ぞうぼうだいにおけるひじりひとしょうにん)とわれておるように、法華ほけきょうほんごく仏法ぶっぽうを統一したしょうにんでありまするが、どうだいに生まれた弘法こうぼうというのはこれはとんでもないまやかしものであります。
 しかし、けんではそういうことは分からんですね。みんながじんだとおもっております。
 今月の15日でしたか、真言しんごんしゅう総本山そうほんざんこうさん弘法こうぼうが死ぬ時にこもった寺でありまするが)「ここで、弘法こうぼうの誕生をいわう法要がおこなわれた」というようなことで、何と「叡山えいざん天台てんだい座主ざすがそこに参列さんれつをした」などということで「これが、1200年の歴史上において初めての快挙かいきょである」なんていうこと産経さんけい新聞しんぶん新聞しんぶん第一面だいいちめんに大きくカラー写真じゃしんでもって宣伝せんでんをしておりました。
 けんではそういうことがもてはやされるんでしょうね。真言しんごんしゅう天台てんだいしゅうが交流をして、まことに「宗教しゅうきょうかい快挙かいきょだ」とわれている。
 馬鹿をっちゃいけません。両方共に今にごっているわけであります。

 けんの人は、仏法ぶっぽうじゃしょうを見極める力がない。
 そこに、だいしょうにんさまは、この弘法こうぼうをどのようにしゃくしておられるか。
 それをいわゆる一言いちごんおおせられた御言葉が只今ただいま

仏説ぶっせつまことならば、弘法こうぼうてんにあらずや」

という一節であります。
 この仏説ぶっせつというのはどういうことかといますると、大聖人様がはんきょうを引いておられるんですね。
 はんきょうというのは、しゃくそんの入滅寸前にかれた経でありまするが、その中にこういうことかれてる。

 「が滅後において、魔が仏の形を現じて、みんしゅうたぶらかして仏法ぶっぽうかいするであろう」

というしゅことかれているんですね。
 だいしょうにんさまは、そのきょうもんを引かれて

「まさしく弘法こうぼうはこの仏説ぶっせつの通りのことおこなっている。まさしく彼こそてんである。第六天だいろくてんおうがその身にったものである」

ということおおせになっておられるわけであります。
 で弘法こうぼうはどのように当時のみんしゅうたぶらかしたか。あれはでたらめばかりをって、そしてたばかりをしたんですね。
 1つには、弘仁こうにん9年にやくびょうがはやった。
 その時彼が「自分がとうをしたところが、たちまちにびょうにんが多くせいをした」なんてことって、しかもちゅう真夜まよなか)に太陽たいよう赫々かくかくかがやいた」などとうそはっぴゃくならべてる。
 それから「ある時、朝廷において諸宗の僧を群臣ぐんしんの前に集めて、その前でもって、自分(弘法こうぼう)がいんを結んだ(『いん』というのは真言しんごんしゅうでよくとうの時にやるもので、手のひらに指の形をいろんな物にしていんを結ぶとうの形ですね)。そして、南の方に向かったところ、円門えんもんにわかに開いて、金色こんじきの身でしゃぶつとなった」というんですね。これも大嘘おおうそであります。
 一一にだいしょうにんさましゃくをあそばしておられますけれども、今ここでは省略しょうりゃくいたします。
 で、もう一つこんなことがあった(これはもう誑惑おうわくの最たるものでありまするが)。彼は中国にりゅうがくしたんですね。「仏法ぶっぽうを習いに行く」とって中国にりゅうがくいたしました。
 そして、帰りにその船の上で、海の上からにっぽんに向かってさんを投げたんです。
 (「さん」の「」というのは、手ににぎってとうの時にもちいるもので、金属きんぞくでできております)
 それを遠くほんの方へ向かって投げて「自分がこれより弘めん教えに感応かんのうする土地とちがあれば、必ずそこに到達とうたつするであろう」なんてってほんに帰ってからこうさんでもってだいを掘ったら、そのさんが出てきた」っていうんです。
 これをだいしょうにんさま「前から埋めておいた誑惑おうわくである」ということおおせになっておりまするが、このような限りないたばかりをついては、人にあたかも自分が仏のごとくおもわせてみょうだけをもとめた。
 そして、彼はどのように仏法ぶっぽうかいしたかというとしゃくそん一代いちだい説法せっぽうの中においては、じょうぶつの叶う大法だいほう法華ほけきょう以外にはない」その法華ほけきょうを、何と彼は大日だいにっきょう第一だいいちだいばんごんきょう法華ほけきょう第三だいさんなんだ。しかも戯言ざれごとだ。第三だいさんごんである」って法華ほけきょうぼうした。
 さらに、しゃくそんぼうしてしゃぶつは、大日だいにち如来にょらいくらべれば『みょう辺域へんいき』とっていまだ悟りもてない凡夫と同じなんだ」と悪口もここまで限りなく「まことに口汚く法華ほけきょうしゃぶつののしっておる」というわけであります。大謗法だいほうぼうものなんですね。
 ゆえにだいしょうにんさま

仏説ぶっせつまことならば、弘法こうぼうてんにあらずや」

ということおおせになられたわけであります。


平成21年 6月21日 浅井先生指導