でぞうていきょうする側も、何か「ぞうていきょうすることはいいことなんだ」ということ宣伝せんでんおどらされて「これがヒューマニズムなんだ」ということでドナーカードを作ってぞうていきょう生前せいぜんからそういうこと申告しんこくする人もなかにはある。
 ぶち恵三けいぞうなんていうのはそれをほこってましたね。「僕はドナーカードをもってるんだ」なんてっていた。しかし、んだらぞくがそれをやめさせた。
 こういった一つのことでありますがね、何か「ぞうていきょうすることとくだ」なんてこう勘違かんちがいしておりまするがどうですか。自分のぞうがもしきょう悪犯あくはんの中にまれたらどうなりますね。かえって悪いことだすけするじゃないですか。
 仏法ぶっぽうの上からったらば、謗法ほうぼうぼうの中にまれたらどうなりますね。
 だから「やることは必ずしもいいことじゃないんだ」ということ
 それから、こういうことを兼ねて論じても、ぞうていきょうということ仏法ぶっぽううと「布施ふせぎょう」にたるんですね。自分の一番だいなものをひとにあげる。
 でこれが、しゃ仏法ぶっぽうぜんきょうではとくとされておった。
 ですから、しゃくそんぜんきょうではこういうことを説いているんですね。
 「自分は昔、過去世かこせにおいてさつだった時に、こういう布施ふせぎょうをしたんだ」と。
 尸毘しびおうという名前で生まれておった時でありまするが、たかに追われたはとんできた。
 そのはとびんおもって、ってるたかに自分のももの肉をいてあたえた。こうしてはとを救った。これが布施ふせぎょうの一つの姿すがた
 あるいは、えてるとらが(母のとらでありまするが)大勢おおぜいの子どものとられておって、えておっぱいがでない。どもにしちゃう。
 それをて、過去世かこせしゃぶつびんおもって自分の身をあたえた。
 そのようなこと布施ふせぎょうのいわゆるモデルとしてしゃくそんが説いたことでありまするが、これはぜんきょうに説かれたさつ布施ふせぎょうであって、法華ほけきょういたっては布施ふせぎょうなんていうそういうことは必要ない」とこうかれている。
 いかにいわんや、末法まっぽうにおいてだいしょうにんさま「そんなことは少しも功徳になることではない」とこう仰せられて、あの『しんほんしょう』にこういうもんがあるでしょう。

だん戒等かいとう五度ごどせいして、一向いっこう南無なむみょうほうれんきょうとなえせしむるを一念いちねんしん初随しょずいぶんすなり」

 「末法まっぽうにおいてはだんというのは『だん波羅はらみつ』すなわち『布施ふせぎょう』、そしてかいというのは『かい波羅はらみつ』すなわち『戒律かいりつたもつ』このようなこと一切いっさいやめなければいけない。
 そして、ただ一向いっこう本尊ほんぞんを信じて南無なむみょうほうれんきょうと唱える。
 これが、末法まっぽうにおけるしゅじょう仏道ぶつどうしゅぎょうなのであって、これによってじょうぶつが叶うのだ」

ということを仰せになっておられる。こういうことなんですね。
 ですから、自分がじょうぶつをするのも、人を救うのも、本尊ほんぞんさまのお力によらなければいけない。
 うにかかって信心しんじんしょうこそ我もじょうぶつし、人をも救うただ唯一ゆいいつほうじゅつなのだ」ということであります。


平成21年 5月24日 浅井先生指導