どうですか
「濁水心無けれども、月を得て自ら清めり。草木雨を得て、豈覚り有って花さくならんや」と。
まことに、絶妙なお例えでしょう。
濁った水には何ら心がない。しかし、月が映れば自然と澄んでくるではないか。
この「濁った心」というのは何かといいますと、我々凡夫の心ですね。
すなわち、三毒強盛の濁った心を「濁水」と仰せになられたわけであります。
「欲と怒りと愚痴に充満した心」これは濁った心でしょう。こういう心でいれば自分の生活を破壊してきますよ。
「欲望と怒りと愚かしさ」これが充満してくれば、必ず自分で自分の生活を壊してしまう。人生を壊してしまうし人をも害する。これを「自害害他の命」というんですね。
ところが、その濁った心に仏様の心が映れば、たちまちに心法が変わってくるんです。
そうすると、自然と功徳が出てくる。
今まで人を害しようとしたのが「人をも救おう」という気持ちまで起きてくる。これが「自利利他」というんでしょう。
でこのように、日蓮大聖人のそのお心が、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えると自然にどんな凡夫の心にも宿ってくるんですね。
「日蓮大聖人のお心が映ってくれば、必ず自利利他の当体になるんだ」という事なんです。
自害害他の命が自利利他の命に変わっていっちゃう。
だから、末法においては戒律は必要ない。すなわち「末法無戒」というのはそういう事なんですね。
悪い事をやろうとしてもできなくなってくる。「悪い事をしよう」なんて気持ちが自分の心の中から起きてこない。
ですから、戒律というのは「あれをしちゃいけない」「これをしちゃいけない」という風に表から縛ってくるんです。
その具体的な物が、いろんな世間の法律もそのうちの一つでありまするが「あれをしたら罰するぞ」「これをしたら罰する」と。
しかし、命そのものが三毒で濁ってれば、外からどれほど「戒律を保て」「法律があるんだよ」と言ったってそんなものは到底無駄なんですね。
末法においては、そのような戒律で表から縛るんではない。御本尊のお力によって、信心口唱の法術によって、その人の命そのものを変えていくのである。
よって「末法には戒律は不要なんだ」という事であります。
「自ずと悪い事をしなくなる」「悪い事ができなくなる」そういう命に変えていくのである。
ですから、末法においては世の中が乱れてくるに従って法律がどんどんどんどん増えていくんですね。もうどんどんどんどん法律が数千・数万と細かい法律ができてくる。
ところが、どんな法律ができたって、三毒の命を解決しなかったならば法律で取り締まれる事はない。だから今ますます犯罪が増えてるじゃないですか。
法律を一番知っている職業というのは裁判官ですね。
ところが、この裁判官だって犯罪を起こしているでしょう。
この間も、ストーカーで捕まった判事がおったでしょう。
自分が取り調べた女性にどういうわけが執心を抱いてしまって、その女性に対してストーカーで年がら年中怪しげなメールを送っておった。
ついにその女性から告発されてとっ捕まっちゃった。法律を知っている判事がこれをやるんですよ。
それから、警官なんかも少しは法律を知っている職業ですね。
ところが、2,3日前に警官がひったくりをやったでしょう。
捕えて何度か調べてみたらば、ひったくりを取り締まる防犯の主任をやっておった巡査部長だったんです。
でこれがひったくりをやった時に71歳のお婆さんが「キャー」と言ってひったくりだと騒いだ。
そばにいた高校生2人が高校の帰りでもって自転車に乗っておった。
早速その「泥棒を追っかけよう」というんで自転車で追っかけた所がついに捕まった。
「それが警官だった」というんですね。
テレビでもって2人の高校生のインタビューがありましたけれど、一人の方が「どんな感想ですか」と言われたら「いや、捕まえる人が捕まったんじゃおかしい」なんて(笑)。その通りですよね。
そしたらもう一人が(年上の高校生で高校3年だと言っておりましたが)「どうですか」と言われたらば「『もう世も末だな』と思った」(大爆笑)と言ってた。
それを聞いて私は思ったんですがね「もうこれは末法濁悪だ」と言ったらその人は顕正会男子部だ(大爆笑)。それぐらい、とにかくもう警官そのものが、ひったくり、窃盗の担当の警官がそういう事をやっているんだったら法律なんでものがあったってしょうがないじゃないですか。