私は、昭和44年の秋から執筆を始めた。
そして、翌45年の3月に諌暁書を書き上げたんですね。
これがすなわち『正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う』とのこの一書でありました。
私はこの書を書き上げて、何よりかにより父のところへ持って行ってこれを見せたんです。
でその時の父の顔が忘れられない。
まことに晴れやかな顔をして父はこう言ったんですね。
これから、連連たる諌暁に次ぐ諌暁の戦いが始まったわけであります。
そして、宗門の役僧と、あるいは学会の首脳部との論判がある度に、父は老いの身に鞭打って同席し、立ち合ってくれました。
学会は、あらゆる手段を用いて、この顕正会の正しい諌暁を抑え込もうとした。それこそあらゆる手段を用いたんですね。
何よりかにより、法主を盾にして「細井管長をして顕正会を抑えせしめよう」という事をしたわけであります。
ところが、みなさんが承知のごとくに、ついに細井管長も顕正会と会うと「顕正会が正しいんだ」という事を言わざるを得なくなってしまった。
そして、学会にはまた「学会が正しい」という事を言う。
そういうような事を細井管長は何度もやったわけなんですが、ついに「法主の権威を用いても顕正会は抑えられない」という事がわかった池田大作は「もう逃げられない」という段階に至った時に、ついに細井管長を使って妙信講に解散処分を下さしめた。妙信講を日蓮正宗から抹殺しようとしたんですね。
そして、解散処分の直後の時から、何と、この本部会館に御安置の御本尊様さえも裁判にかけてこれを奪おうとした。
また、法主の名前を使って、全講員に手紙をよこしたんですね。
「妙信講は謗法だから、早く離れてこちらに来なさい」というような一つの手紙を遣わした。
あるいは、学会は宗門僧侶を動員して、その上で一軒一軒顕正会員(当時の妙信講員)宅を回って、そして組織を壊そうとした。
また、あらゆる卑劣な嫌がらせや謀略が山崎正友を中心に繰り広げられました。
それに対して、妙信講は微動もしなかった。
そして、この弾圧の嵐の中で、私は「遙拝勤行による折伏を進めよ」という事を全講員に訴えました。
これより、不思議な事に、潰れもせぬ妙信講の中に、御在世のごとき信心が蘇ってきて、本当に、大地を這うような死身弘法が展開されたのであります。
そして、翌45年の3月に諌暁書を書き上げたんですね。
これがすなわち『正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う』とのこの一書でありました。
私はこの書を書き上げて、何よりかにより父のところへ持って行ってこれを見せたんです。
でその時の父の顔が忘れられない。
まことに晴れやかな顔をして父はこう言ったんですね。
「昭衛よくできたなあ。これこそ大聖人様への最大の御奉公だ」
こういう事を何度も言って喜んでくれました。これから、連連たる諌暁に次ぐ諌暁の戦いが始まったわけであります。
そして、宗門の役僧と、あるいは学会の首脳部との論判がある度に、父は老いの身に鞭打って同席し、立ち合ってくれました。
学会は、あらゆる手段を用いて、この顕正会の正しい諌暁を抑え込もうとした。それこそあらゆる手段を用いたんですね。
何よりかにより、法主を盾にして「細井管長をして顕正会を抑えせしめよう」という事をしたわけであります。
ところが、みなさんが承知のごとくに、ついに細井管長も顕正会と会うと「顕正会が正しいんだ」という事を言わざるを得なくなってしまった。
そして、学会にはまた「学会が正しい」という事を言う。
そういうような事を細井管長は何度もやったわけなんですが、ついに「法主の権威を用いても顕正会は抑えられない」という事がわかった池田大作は「もう逃げられない」という段階に至った時に、ついに細井管長を使って妙信講に解散処分を下さしめた。妙信講を日蓮正宗から抹殺しようとしたんですね。
そして、解散処分の直後の時から、何と、この本部会館に御安置の御本尊様さえも裁判にかけてこれを奪おうとした。
また、法主の名前を使って、全講員に手紙をよこしたんですね。
「妙信講は謗法だから、早く離れてこちらに来なさい」というような一つの手紙を遣わした。
あるいは、学会は宗門僧侶を動員して、その上で一軒一軒顕正会員(当時の妙信講員)宅を回って、そして組織を壊そうとした。
また、あらゆる卑劣な嫌がらせや謀略が山崎正友を中心に繰り広げられました。
それに対して、妙信講は微動もしなかった。
そして、この弾圧の嵐の中で、私は「遙拝勤行による折伏を進めよ」という事を全講員に訴えました。
これより、不思議な事に、潰れもせぬ妙信講の中に、御在世のごとき信心が蘇ってきて、本当に、大地を這うような死身弘法が展開されたのであります。